5 骨抜き人間
公演一時間前、最初のお客が来た。
それから次々と、サーカスのテントに人が吸いこまれ、観客席に吐き出されていく。
カネは後方の席にちょこんと座り、借りてきた猫のように落ち着かなさげに視線をうろうろさせた。
隣のセピアに寄りかかり気味に斜めに体が傾き、誰かがちょっとつつけば飛び上がってセピアに抱き着きそうな勢いだ。初対面でのセピアへの警戒は何処へやら。
無論、それには理由がある。
目の前の光景がセピアを気にしているどころの騒ぎでないのだ。
「なあ、ここ何かヤベぇ薬配ってたりすんのか……? 目が虚ろな客が多すぎんだけど」
カネは本日最大級の警戒心を、目の前の異常な事態に向けていた。
対してセピアは呑気に首を傾げる。
「そうかね? まあここのサーカスは少し特殊だからね」
「少しどころじゃなく特殊だろ!?」
カネは内心動揺一杯で、客が横切る度に身動ぎした。
白髪交じりのカネの頭が、隣席のセピアの顎に当たったり遠ざかったりした。
セピアはカネの警戒が不可解だと言うように「んー?」と腕組みした。
カネは、陰気であっても陰険ではないせいで空気の読めないマイペースな隣人に苛立ちを覚える。
セピアの素っ頓狂な顔を憎らしく眺めながら、何で分かんねえんだよ、と心の内で毒づいた。
――異常な光景。
それは客の目が虚ろ、というカネの言葉では到底足らなかった。
これは普通に生活していてはまず起こり得ない悪夢。
――今宵のサーカスのお客は皆、骨抜きされてやって来る――。
カネは尻尾の毛を逆立てた猫のようにピリピリとした警戒を纏わせて、しかしそうしているだけでは
慎重に首を伸ばしてテントの出入り口に目を凝らした。
カネたち以外の客はどうやらテントの幕を潜る際に「骨抜き」状態になっているようだと突き止める。
骨抜きになった人々が円状の座席に粛々と入場した。
彼らは陸に上がった海月のようにぐにゃんぐにゃんと歩いた。
関節をなくしたように脱力した手足を引き摺り、這うように各々自分の座席へ向かう。
人々の顔には生気がまるでない。
力が抜け、半開きになった目と口。
スライムのように流動しながら、お客がカネの座席の前や後ろを通り過ぎていく。
会社員風の中年も、若い夫婦も、資産家らしい装いの父と高校生くらいの娘も、学生らしい青年らも、男も、女も、老人も、幼子も、皆一様に関節と魂の抜け出た人形となって、公演を待つ。
いや、人形では語弊があった。
彼らは己の席を見つけるなり「あああ……」と声を漏らし、歓喜に身を震わせ、
酩酊状態で「うおおおおお……!」と歓声を上げ始めた。
その姿は人形では断じてない。
骨が抜かれた代わりに空気を入れられたとでも言うような、パンパンに膨らんだ手足を左右に振る。
客は皆「バルーン人間」と呼称したくなる姿だった。
集団催眠か。危険な薬でも投与されたか。
肉体までおかしくなっている以上、それだけでは済まない気がする。
分かるのは彼らの精神が何かによって無理矢理に異常にされたことと、この悪夢は白昼夢などではないことだ。
気付けば、観客一同が波打つように大きく小さく声援を上げ始め、まだ始まってもいない舞台を中心に巨大な喝采の渦を作っていた。
カネはその渦の中に、ついさっき見知ったばかりの顔を見つけた。
舞台用の衣装を着てメイクを済ませた千佐千晶だ。
舞台に上がる予定だった副団長の彼が、何故客席にいる?
彼だけではない。
本来なら舞台袖に控えている演者であろう奇抜で風変わりな恰好をした者たちが多数、客席に沈み込んでいた。
これはまともじゃない。
確実に日常どころかサーカスの平常運転をも逸脱している。
おそらくセピアが言うような「ここのサーカスは少し特殊」どころの騒ぎではない。
カネは不可解尽くしに腹の底から憤慨した。
鋭く己を貫き正気を保たせる敵意を持ってカネはこれまでを生き延びてきた。
伊達に敵意を掲げてきてはいない。
異常事態になろうが、いや、異常だからこそ日頃の警戒心が怯える自分を奮い立たせる。
――流石にこれ以上、我慢ならねえ。
もうサーカスどころではない。
警鐘を鳴らし続けていた脳裏に応じて、カネはこの異様な事態から脱出する決意をした。
隣席に目を配る。
先程以上に静かに座しているセピアは、もう正気ではなかった。
一見して他の観客と同じ状態になってしまったと分かった。
風船のように膨らんだ、関節の曖昧な手足。
陰気さだけでは済まない空虚な目。
開きっぱなしの口元。
いつの間にそうなったのか予兆も感じなかった。
ただいつの間にか精神が侵されている。
だが、カネは挫けてやるつもりはない。
これまでの陰気さの度を越して虚ろな顔をしたセピアを、殴ってでも正気に戻して、逃亡してやる。
そう決意したはずが――、そうはいかなかった。
カネは自分の体に力が入らないことに気が付いた。
右手を見る。
持ち上げようとすると風船のように軽く持ち上がる。空気入れで限界まで空気を張り詰めたように膨れて、破り裂けそうな腕。
左手を見る。
右手同様軽くて膨れていて思うように曲がらない。関節が関節の意味を成していない。
指も肘も肩も正常に動かせない。緩慢に上下させたり左右に振るのが限界だ。
まるでバルーン人間。
両足を見る。
ハーフパンツの下から風船になった太ももが生えている。およそ自分の足とは思えない。
皮膚が風船のゴムのように伸縮性を持っている。
バルーンアート用の風船を膨らませてまっすぐのままのような棒の足で、膝が何処かも分からない。
これでは立てない。立てなかったら逃げ出せない。
怖い。気持ち悪い。不安だ。
カネの思考の奥底からあぶくのように増殖するそんな感情……は後回しだ。
眼前を支配するこの異常に飲まれない。
それだけを強く掲げて、
ついでに自分を養って妹探しを手伝うと約束した胡散臭い男も助ける。
震え出す息を、怒りに代えて。
そう誓った次の瞬間、公演開始の暗転を合図に、カネの正常な反骨精神は盗まれてしまった。
*
公演が開始されると、カネはすぐさま静かに舞台に見入った。
それほどの魅力を放つ舞台だった。
観客が皆息を呑み、舞台に圧倒されているのを感じる。
この感動をこんなにも大勢で共有している爽快感はここにしかない。
自分の手足が風船になって立ち上がることすら困難になっていても気にならない。
これほど壮観な心躍る舞台を見ずに立ち上がる、理由がない。
カネは視界の全てを目に焼き付け、吸収しようとする。
何故かそうするのが正しい気がした。
――あれ? 正しいって何だ?
少年は、音楽が奏でられ、あっと驚く大ジャンプや面白おかしいピエロの演技が繰り出されても、曲に合わせて体を動かしたり手拍子をしたりはせず、ただ挑むように演目を見詰めた。
特にカネの心を捕らえて離さない演目がミュージカルだった。
サーカスの絶技を、煌びやかな音楽と物語が着色していく。
主役の妖精の名は『マネー』。
佳境で妖精の歌が歌い上げられるが、それは圧巻だった。
まずは第一声のアカペラ。
高音が空気を切り裂くように響き、不意に優しい囁き声が挟まれた。
華奢なドレス姿の妖精が、歌っている間だけは貫禄すらあった。
湖面に落ちた雫が波紋を広げるような均衡があった。
しかし湖の下に、力強い脈動を予感させた。
その脈動は空間や音に感じられるだけではない。
聴く者の胸の内側に、象牙色の竜巻を起こした。
闇と光を吸収した象牙色に巻き上げられた光沢ある鱗が、心臓や胸板の裏側を
観客は徐々に、それに「感動」という呼び名が付くことに気付いていく。
楽器の音色が妖精の歌声を追いかける。
徐々に重なり合い、一つの蠢く魚の群れのように視えた。
皆が息を呑んで見入っていた。
一節歌うごとにサーカステントの空間そのものが伸長していくように錯覚した。
我々は本物の才能を目の当たりにしているのだ、と途方も無い感動がサーカステントの全てに感染した。
曲中、楽器が演奏を辞め、アカペラのみでメロディーを繋ぐ展開に行き着くと、観ている者は、まるで足元が覚束ないように心細くなった。
そして悟るのだ。
胸の内に呼び覚まされた竜巻は、『オズの魔法使い』でドロシーの家を攫った竜巻だと。
歌声が、サーカスを日常の地続きの場所から切り離し、別世界に連れ去ってしまった。
それをひしひしと肌で感じると、耐え難い寂しさを嘆きたい衝動が去来した。
けれど動けない。
不思議な心地に誰もが魅了され、瞬きさえ躊躇してしまう。
曲最大の盛り上がりがやってきた。
アカペラに楽器が加算され、演者が次々と舞台袖から飛び出し合唱となる。
歌声の圧力が地面を揺らすほど伝わり、演者たちが腕を広げた。
ドラムが息をつかせぬ速さで刻まれ、ドン、と静止した。
フィナーレだ。
刹那の静寂の後、観客の拍手が地鳴りのように響いた。
全ての演目が終了した。
この壮大な一夜を経て、観客は皆、カネもセピアも含めて別世界から帰って来られなかった。
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