3 カネとセピア
奇妙な二人組が乾いた春宵を歩いていた。
彼らは住宅街を歩き、水のない田園の脇を歩き、繁華街を歩き、空港を通り過ぎる。
片方はスーツケースを引き摺る陰気な男。
タータンチェックのスーツを纏い、気だるげに背を屈めて危なげな足取りで歩く姿は、道楽者のそれだ。
もし男が猫背になっている長身の背をまっすぐに伸ばし、ざっくばらんに長い前髪を整えたら見目が一変することを予感させる。
が、実際にはヤモリのような図々しさと夜闇の似合う愛想の欠片もない人物だ。
もう片方はみすぼらしい身なりの家出少年。
白髪交じりの髪を掻く姿は年に見合わぬ粗暴に映る。
ぎらつく黒い瞳は見るもの全てに敵意を撒き散らしているにもかかわらず、決して濁らない潔癖な純粋さが宿っていた。
明らかにサイズ間違えの大きいTシャツとハーフパンツはまだ寒さの残る春の夜には向かない。
はずが少年はさして気にした風もなく、肩で夜風を切って歩き、脇目も振らず世界を睨む。
二人組は若干男のほうが先行している。
男が少年に道案内をしている図だ。
彼らは住宅街をずんずん通り越し、雑然とした繁華街を迷いなく進み、灯りの少ない平地まで辿り着いた。
そこにはまだチラホラとしか照明の点いていないサーカステントがあった。
カラフルに染め上げられた、てっぺんが雲を突くほどに巨大な円錐のテント。
ぴんと張られたテントの布の大半が夜と同化して、じっと活躍の時を待っている。
外灯代わりのカンテラが一つ、上から二人を照らした。
橙の炎色がカンテラから溢れ、熱もなく通行人の肌を炙る。
このカンテラに照らされたテントの奥に待ち構える舞台が男の職場なのだ。
男は肩越しに、背後の少年に尋ねた。
「面妖なテントだろう? 私は気に入っているのだがね」
「知らね。咲来がいねえなら何処も変わんねえよ」
少年は野生動物のように鼻をひくつかせて周辺を警戒した。
男は羨望に似た感慨をうっすら滲ませ、少年の白髪交じりの頭を見下ろした。
と、そこでふと初対面同士が真っ先にするべきことをまだしていなかったと思い出す。
「そういえば私は大事なことを聞いていなかったね。
君に思いを伝えたい気持ちが先走って自己紹介も受けていなかった。君の名前は?」
「金」
少年は些か警戒の和らいだ面持ちで、物珍しさが出てきたのか荷箱が散乱しているサーカステントの周辺を見回した。
「カネ?」
「そ。お金のカネ。俺の親たちが一番愛してたものの名前」
ほんの数秒の自己紹介に、彼が悲惨な環境下で生き延びてきたことが濃縮しているように思えた。
「…………。……い、いい名前だね……」
「嘘ついてんじゃねえよホラ吹き野郎」
「辛辣に過ぎる……」
初対面だけかと思っていた少年のキツイ物言いは、利害関係の元で知り合いになった現在も続行らしい。
誰に対しても辛辣なのか。それとも少年の尺度で男の扱いを辛辣にすると決めてしまったのか。
どちらにしても敵意の壁を作られる側は寂しいものだ。
少年はふん、と鼻を鳴らした。そして、
「…………」
「…………」
無為な沈黙がしばらく流れ、根負けしたのは男のほうだった。
「あの、それで、そろそろ私の名前を聞いて、くれないのか……?」
調子を崩されておずおず尋ねると、カネという少年は横目に見上げるように、眉を顰めた。
「聞いてほしいの?」
「うん……聞いてほしい……」
自分から催促する、でなければ少年は一生聞いてくれなさそうだった。
「じゃあ、おじさん。名前は?」
二十九歳の男は、おじさん呼びに若干傷つきつつもそこは目を瞑って、丸めていた背をすっと伸ばした。
「私の芸名は、セピア」
「ダサっ」
「う、面妖な……。
……セピアというのは褪せた色合いのことだよ。私は気に入っているんだけどね……」
率直な罵倒が直撃した胸を押さえながら、男――セピアは悟られぬよう薄く笑む。
それはカネ少年が「芸名?」と不可解そうに首を捻ったからだ。
その珍しく子供らしい仕草と、彼がセピアに興味関心を向けた事実が単純に嬉しい。
「そう。芸名だ。私は売れない自称アマチュア作詞家。このサーカスの舞台を作る脚本家や演出家でもある。
普段はサーカスの脚本を任されたり、裏方の雑用をしたり、他所でアルバイトをしたりしている。要はフリーターだ」
どどん、と威張ってみたもののカネの興味は別のところだ。
私の威厳が通じないなど面妖な。
「芸名……芸名ね、それで言えば俺も芸名かも。カネってのは自分でつけた名前だし」
「へ、あ、うん? そうなのかね?」
「そ。生まれてから名前なんて立派なもん貰ったことねえ……いや、一回はあったな。
おばあちゃんからまともな名前を貰ったのは一回きりで、それもすぐにおばあちゃん死んじまって呼ばれなくなった」
「……」
カネは遠い過去を回顧するように独り言のトーンで告げた。
そして話し終えれば、会話していたことも忘れたように再び周囲の景色に意識を向けた。
それはセピアからも誰からも同情を寄せ付けない毅然とした横顔で。
「で、あんたのほうは? 本名あんの?」
少年がセピアのほうを見もせずに投げかけた。
本当に興味があるのかは別として、会話を続けてくれる気があるらしい。
「本名は、あるにはあるが、面妖なことに名乗るのが苦手でね。
ごほん、これから私のことは『セピア』とただそう呼んでくれるのなら、君に本名を明かしても構わんがね」
少年は眉を寄せたまま「ん」と顎をしゃくった。
御託はいいから話す気があんならさっさと話せ。がおおよその訳だろうか。
何だかちょっと寂しいぞ……?
「
カネはこくりと頷いた。
それ以上は何も触れず、少年は橙の光に染まるカンテラをつつき始めて――、
「てかちょっと待て。さらっと流しちまったけど、さっきあんたフリーターつったか? その派手派手なスーツで?」
「ああ言ったとも。あっちこっち駆け回ってはバイトして、その日その日を乗り越えて来たとも。
――うん? 私のスーツが何か関係あるのかね……?」
それまで警戒と敵意と嫌悪とほんの少しの好奇心の顔を見せてくれていたカネが、初めて純粋な怪訝の色をその幼い顔に浮かべた。
それからしばらく薄い唇を引き結ぶ。
何かを熟考しているが故の沈黙。
「カネ? 急に静かになると私は不安なのだがね。カネ少年、お腹でも痛いのかね? カネ君、頭を撫でようか? カネさん、息をしているかい?」
「うっせぇ」
そこまで黙していたカネがとある事実に行き着いた、という表情で僅かに目を見張った。
「……俺はあんたと交渉したよな? あんたが妹探しと俺の生活の保障をして、俺はあんたの作った歌を歌って。
あんたは俺の望みを叶えるつもりでああ言った。
で、さ、これからはあんたが生活費払って俺を養ってくれる……?」
「無論、一言一句違わずそのつもりだよ」
セピアは安心させるようにどん、と自分の胸を叩く。
が、カネの訝しがる顔は晴れない。
「んじゃあ、つまりよ、住所不定無職の子供の俺が、非正規雇用の職を掛け持ちして日々を食い繋いでいる三十路の道楽人のあんたに、今日からヒモの如く養われるってこと?
貧乏野郎のとこに家出した一文無しの餓鬼が居座ったってお互い腹の足しになんねえよ。そんな無謀な生活続くか?」
たった今、浮き彫りになった現状を子供らしからぬ痛烈な言葉でセピアに突き付ける。
だが恐るべきは十歳の子供にそこまで言われても、その実根っこは楽観的で刹那的なセピアは、カネが何を問題にしているか分からないことだ。
「んー? ええっと、君は何か面妖なことを言って私の気を引きたいのかね?」
と首を傾げる。
「ああそうかよ。笑えるほど馬鹿げた話……てか俺が笑えねえ。何でこの人平然と生活費払うなんて言ったんだ……?」
何やらほんの十歳の少年が将来を憂いているようだ。
だが憂うだけで終わらない頑強な心意気を持った少年だと短時間の交流でセピアは知っている。
カネは顎に手を当て鋭い目で虚空を睨んで思考を纏めた後、セピアに向き直った。
「おい、あんたもしかして実家が金持ち? 親の脛を齧れる人種ならさっきの養う宣言も納得だけどよ」
「いや……。両親は共に四年前に亡くなったが? ちなみに遺産もない」
「あ!? クソ何なんだよ。貧乏暇なしってのはこの世の嘘かよ」
カネ少年は深い深い溜息を吐いた。
が、それは自嘲の――いや、彼が己の内側に向けた敵意の表出だった。
「……まあどうでもいいか、あんたが貧乏暇人だろうがどうだろうが。金で寄りかかりてぇわけじゃねえし」
セピアはその敵意が、彼の思考の核心に触れた物だと反射的に察知した。
虫が花の蜜に吸い寄せられるように、カネ少年の目線まで屈み込む。
セピアは長い前髪の奥から覗く目を陰惨に細めて、噛みつかんばかりの距離まで顔を寄せた。
「随分と面妖にねじくれた敵意を抱えているのだね少年」
セピアの根源に潜む薄暗い好奇心のほんの片鱗が顔を出した。
単純に自身の愉快な気持ちを最優先にして、少年の心に土足で踏み込んだ。
カネ少年は「あんた気色悪ぃ」と眉間に皴を集めた後、セピアの威圧を突っ撥ねて拒絶するか、応じるか逡巡を生じさせた。
それはカネが瘦せた体を掻き抱いて、ハーフパンツのポケットから取り出した青い皮製の首輪を握り締めたことから分かった。
そして彼は、決断した。
手にした青い首輪を首に巻いて留める。
まるでそこが定位置のように首輪が少年の首に収まった。
「あんたに知った風な口を利かれる義理はねえ。黙ってあしながおじさんとやらをやってろ」
セピアはカネの苦悩など意に介さず、ただ満足感に浸った。
「そうかね、君の意思は固いと見える。それはまた、面妖で健気で素晴らしいことだ。
私たちのこれからの新生活に期待だね」
二人に通じる不思議なやり取りを終えた後、不意にセピアは、カネ少年をどこで生活させるか全く考えていなかった事に思い至った。
優柔不断ここに極まれり。
計画性のなさと見通しの甘さはセピアの弱点で、特段それを気にしていないことも弱点だ。
今日も今日でただ誘われるまま歌声に呼ばれるままにカネの元に辿り着き、ここまで連れてきてしまった。
カネが嫌がらないのであれば家に連れて帰っても構わないが……。
「何か響いてる」
地面の振動に気付いたカネが先程より一層険しく眉を顰めた。
「これから公演だからね。今テントの中で最後のリハーサルの真っ最中だ」
「見たい」
春の夜闇の中にいてカネの瞳が一瞬光ったように錯覚した。
それまでほとんど警戒か呆れか嫌悪か醒めた態度を貫いていた少年から直球の要求が飛んできて、セピアは目を見張った。
だが油断の欠片もない少年の目を見て、単なる好奇心ではなさそうだと感じ取った。
「いいよ。せっかくだから本番のサーカスにご招待しよう」
その少年の瞳の断固たる要求を断る理由などセピアにはなかった。
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