2 少年の過去
生まれて最初に記憶されたのは、赤褐色に錆びた細く、目の細かい金網だった。
俺は数か月それを見続けた。
視界にあるモノの中で、それ以外碌なもんがなかったから。
強風が撫でれば屋根の瓦がカタカタ震え、天井から雨漏りし畳にシミを作る、管理の杜撰な古民家。
畳を覆わんとするほど所狭しと集積した金網の箱。
箱というか檻――ケージな訳だが既に扉と鍵が破壊され、その意味を成していない。
黴臭さと獣臭が混じり合い、およそ正気ではいられない。
親兄弟の残飯と抜け毛と糞尿が毎日、壁際に堆積される。
夜は真っ暗、朝昼は薄暗い室内にはたくさんの親兄弟たちが蠢いて、その双眸を陰鬱に光らせた。
床の上を徘徊する親兄弟たちの喧嘩する威嚇の声は絶えない。
壁と言う壁、柱と言う柱に爪痕や噛み跡が刻まれ、上塗りされる。
生まれ立ての俺は、しかし親に毛皮を舐めて貰ったことすらない。
俺はいっそ地面に降りるより錆びたケージの中で蹲っているほうがまだマシでいられる気がした。
喧嘩に負けた兄弟の八つ当たりで耳を嚙み千切られそうになっても、俺は取り合わなかった。
そこに何度か出入りし、兄弟たちを摘まみ上げて連れていくモノがいた。
その生きモノは鳴き声を上げる代わりによく「お前たちはカネになるんだ。カネになるから生きてるんだ……」と喚いた。
俺は本能的にそのモノが妄執に溺れていることに気付いた。
気付いたが、何も出来ないから何にもしなかった。
悲惨な生活に満ちる黴だらけの空気を吸い、憂鬱な息を吐き出すだけの生きモノの一個が俺だった。
生まれて一か月も経つ頃には俺の名前は「カネ」なんだと悟った。
自分より大きなその生きモノが一番使う言葉が「カネ」で、ずっと俺たちを睨んで「カネ、カネ」と呼び掛けてくるから。
そのモノは俺たちに呼び掛けて、でも言葉が通じず返事が返って来ないから、腹いせに兄弟たちを連れて行くんだ。
罰を与えるために。服従させるために。無力を思い知らせるために。
俺もいつか今より悲惨な地獄に連れて行かれるんだろう。
*
俺が生まれてから三か月が過ぎた。
その日、俺の暮らしは一変した。
たくさんいた親兄弟たちはいなくなり、目に眩しい白い壁の消毒液臭い部屋に来たと思ったら、数日で別の場所にいた。
目まぐるしく変わる環境に俺はいつも毛を逆立てた。
世界の全てに敵意を振り翳した。
敵意は心が死んでいない証拠であり、己を守る武器だった。
俺に新しく餌を用意するようになったモノはおそらく、老婦人、という分類でいいのだと思う。
最初は警戒があった。
が、それも根気強く手を差し伸べられては、長くは続かなかった。
「そっちは寒いでしょう? フーフー怒ってないで、こっちにいらっしゃいな」
老婦人は俺の前で何も喚いたりせず、ただいつも慈しみを差し出した。
敵意を向けても得がなかったし、敵意を向けたくない相手になっていった。
生まれながらに募らせた敵意という本能的な防衛機制が、音もなく緩やかに寛解するのを感じた。
いつしかレザーの青い首輪が、彼女との絆の証なのだと素直に誇れるようになった。
老婦人の住まうそこは、決して大きくはないが頑丈な煉瓦造りの洋装の家だった。
常に小綺麗に保たれるカーペットの床。
日当たりのいい寝床のクッション。
温かみある木製のロッキングチェア。
赤褐色の煉瓦で組んだ竈と煙突。
風を運ぶ窓とレースのカーテン。
自然光の差すウッドデッキ、そこから庭先に鼻を突き出せばよく手入れをされ咲き乱れる花々がある。
そこに集まる虫と戯れるのが俺の日課になった。
老婦人は就寝前、本を読む事を習慣としていた。
重厚感のある本棚から分厚い書物を一冊引き抜いて、椅子に凭れて読み始める。
俺はその膝の上で微睡む。
老婦人は俺の耳の後ろを撫でながら囁いた。
「賢いねえ本当に。お前は部屋中あちこちにいたずらするけれど、本にだけは絶対に傷をつけないもの。私の大切な物が判っているんだねえ……」
*
老婦人の家を定期的に訪れるモノがいた。
いつも赤いランドセルを揺らして「おばあちゃんっ」と老婦人を呼びながら走ってくる、少女、だ。
少女――
それが彼女の口癖だった。
俺の妹分。
というよりは家族である実感を持ち始めてからは、本当に妹だった。
生まれてからの年数が長いという意味で年上だけど、この家の勝手は今や俺のほうが知っているので、この子は妹なのだ。
いつもお守りをしてやっているのは俺なんだし。そこは譲れない。
庭で一緒に遊んだり、カーペットにごろ寝したり、煉瓦の屋根に上ろうとして一緒に怒られたり、屋根裏に潜んで脅かし合ったり、階段でこけて大泣きする頬の涙を俺が舐めて掬ってやったり。
彼女はおどける時や茶化す時は俺を「お兄ちゃん」と呼んだ。
「私一人っ子だから、ずっとお兄ちゃんが欲しかったの」
と俺にだけ打ち明けたこともあった。
*
老婦人の家で過ごし始めて半年が経とうとする頃、突然に呆気なく、老婦人が帰らぬ人となった。
死に目には立ち会えず、咲来が俺に泣きついて「おばあちゃん、死んじゃった……」と事実を打ち明けるまでは、老婦人がいなくなったことを認められなかった。
あの皴だらけの温かな手で頭を撫でられることがもう二度とないのだ。
俺はその日、嗚咽を堪える咲来の涙を舐めながらようやくそのことを理解した。
老婦人――つまり「飼い主」のいなくなった俺は咲来の家に引き取られた。
その家で俺は歓迎されなかった。
咲来の両親にとって俺はやたら飼育費のかかる粗大ゴミだった。
「お前のせいでウチのカネが減っていくばっかりだ。どうしてくれんだよ」
憎悪の燻ぶる目で見下ろされ、しっ、と手で払われた。
――ああ、そうだった。俺の名前は「カネ」だった。どうしてこれまで忘れていられたんだろう。
俺は逃げ出した。その家から。邪険にされて仕方のない自分から。
その後の記憶は曖昧だ。
*
明確な意識を取り戻せたのは、数年後に妹と再会したことがきっかけだった。
彼女はもうオトナの女性になっていた。
俺は数年前に逃げ出した妹の家に戻ってきた。
以前と違うのはそこに咲来以外のモノたちがいないことだった。
彼女と俺は、子供特有のはちきれんばかりの好奇心を過去に置いてきた代わりに、静かな安心感に浸る喜びを手に入れた。
そんな生活が俺の心の強張りを柔らかく解した。
妹は毎日俺に話し掛け、俺は愛情を込めて気まぐれな返事をした。
妹が趣味の延長で作る拙い歌に、鼻歌を合わせた。
それだけで彼女は満足そうにはにかんだ。
妹は服を作る仕事に就いたと嬉しそうに話した。
時折手作りの衣装をハンガーラックにずらりと並べて、俺の腕に抱き着いた。
「さあ選んで! 疲れるまでファッションショーごっこよお兄ちゃん!」
妹に甘えられると何故こうも胸が躍り、何着でも着てやろうという気になるのか不思議だった。
普段の俺は粗野でその日暮らしに慣れていて、全くもって自分の着る物などには興味がないくせに。
年上の妹は調子づいてくるとますます俺に色々着せて、その時ばかりは大人の落ち着きは何処へやら、「カッコいい! 可愛い!」「ねえ、回ってみせて!」「さあ、そこでポーズ!」とノリノリではしゃいだ。
残念ながらそんな生活も僅か数年のことだった。
*
窓硝子までも悴む冬の夜。
妹の白い柔らかなオトナの女性の手が俺の耳の付け根を慈しむように撫でた。
「私ね、すごくすごく大事な人ができたんだ。今度、結婚するの。もう一緒には暮らせなくてほんとごめん。でも、できれば喜んで、ほしいな」
――咲来。咲来。俺の妹。
「お兄ちゃん、待っててね。私、絶対帰るから」
妹の声は悲痛さと愛情を帯びた確信に満ちていた。
どんな言葉でも行動でも覆せない意思があった。
それでも俺は、嫌だ、と追い縋った。
「お兄ちゃんのところに帰ってくるって約束するから。絶対もう一度会えるから」
それなら行かないでよ。ずっと傍に居続けてくれたらいい。
「それは……できない。そうしたいけどできないの。
相手の人が猫嫌いとかじゃないんだ。そうじゃなくて、お兄ちゃんのこと知ったら絶対、一緒に住もうって言ってくれる、優しい人だし。
――ただどうしても……タイムリミットが迫ってるの。ごめんね」
開いた玄関の外から新雪が吹き込んだ。
雪風に背後から煽られた妹の黒髪がぱっと散り、その表情を隠す。
俺の頭を撫でる妹の手の温かさが遠のいていく。
温かで柔らかで幸せなモノたちが手の届かないところへ遠ざかってしまう。
妹は振り返ることもなく家を出た。
何かを目指して、まるで他に帰るべき場所があるかのように。
後には立ち尽くす俺と、レザー製の青い首輪だけが残った。
俺は切り裂かれた心を埋めるように、懸命に敵意の味を思い出そうとした。
張りぼてでもいい、生来備えていた敵意を搔き集めて、慎重さと警戒心を取り戻す。
哀怨の日々を敵意の糧とし、繕った敵意を己の盾にし、きっと生き延びて、妹が去り際一方的に告げた約束が叶う日を待つのだ。
どんなに苦しくても所詮は見知った地獄と割り切って、この家で妹を出迎えるその日を待つ……つもりだった。
数か月後、陰惨で底の知れない胡散臭い男が、この家を訪ねてくるまでは。
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