1章 異世界に転移する

1 少年の歌声

 紫煙が静かにまっすぐ空へ立ち昇るように、一筋の歌声が漂ってきた。


 周囲が聞くともなく聞く店内のBGMとは趣を異にする歌声。


 歌そのものに聞く者を選ぶ気位の高さが宿っている。


 潔癖なほど我の強い清らかさを芯に備え、融通の利かない素朴な調べを奏で続ける。


 分け隔てなく野を吹く夕風も、この歌声にかかれば歌を打ち消さまいかと気後れして避けていくだろう。


 早春の夕暮れ時。


 清らかに伸びるそれは聴くからに少年の歌声だ。


 少年の未発達の喉から発せられる高く低く自由自在に変化するメロディーが、人気のない街路の静寂を美しく密やかに乱す。




 一筋に届けられる歌声の出所は「売家」の看板が立てられた一軒家だった。


 歌を聞き留めた唯一の人間――歌声に選ばれたその男は、片腕でスーツケースを引き摺り、目を刺すような夕焼けをもう片腕で遮りながら売家の玄関を無遠慮にくぐった。


 タータンチェックの高級そうなスーツ姿で背を丸める道化じみた男はどこか陰気な気配を持ち、かつその己の陰気さも飄々と受け入れる食えない気質を感じさせた。


 例えるならヤモリのような男だった。


 ヤモリとは小さな体躯の無害な爬虫類。

 いつの間にか家に潜り込み我が物顔をしいているが、その実、自分がその家に染まらないのを知っている。


 家人に邪魔者扱いされていると解りながら「ちょっと失礼」とちゃっかり居座る剛胆さがその男に通じる。




 男は廊下の木床を革靴で踏み、歩みを進めた。


 天井から木屑と埃が翻りながら男の肩に落ち、粉塵が舞い男のYシャツとネクタイに模様を描く。


 外観から見て取れる印象より大分脆い家のようだ。


 ぎいぎい軋む床板を踏み締めて行った先に、人影。


 男はテーブル以外の家具がすっかり取り払われただだっ広いリビングを突っ切るようにまっすぐその人影に向かった。


 その人物は壁際に立てかけられたダイニングテーブルに寄りかかっていた。


 路上に漏れ出す歌の音源は彼だ。


 彼はまだ歌っている。

 男がやってきた足音も聴こえているだろうに、今も男が正面に立っているのに、無反応。


 周囲の全てが眼中にないのだ。


 彼はやはりその歌声が示す通りうら若い少年だった。

 高く瑞々しい歌声はまだ声変わり前の十歳前後だからだろう。


 家出少年さながらの風貌ながら、その薄い唇から紡ぎ出される音色はひっそりと温かみに満ちて、なおかつその調べは男の胸を穿つほど鋭い。


 だぼだぼのTシャツにハーフパンツ。

 少年の髪は毛量が少なく白髪が混じっていた。


 散々少年と評したものの肩のラインが華奢なことに気付くと、少女かもしれない、とも思えてくる。


 老若男女の特徴をボウルの中で丹念に混ぜ合わせた時、一番美しいマーブル模様を描いたそれをゼラチンで固めたら出来ました、みたいな子だ。


 歌がやんだ。


 正面に立つ男に気を遣ってやめたのではなく、単純に最後まで歌い終わったのだろう。


 それまで歌に没頭していた少年の視線が初めて、目の前の陰気な男を捉えた。


 男は一瞬、その目の強さに気圧された。


 彼のギラギラした大きな瞳には敵意が宿っていた。


 眼前の男に対してのみではない。彼を取り巻く世界全てへの敵意だ。

 反骨精神とそう呼んで差し支えないかもしれない。


 ――それでこそ男がここに来た甲斐があった。


 男が薄く微笑み、投げ掛けた。


「贅沢な才能の無駄遣いに飽き飽きしていないか?」


 男の抑揚のない誘い文句への返答は、切れ味の増した少年の無言の敵意。


「……」


「……」


 男は何とかめげずに、少年の前に膝をついた。


 少年の敵意が解け散ることを願って、小指のない左手をおずおず差し出した。


「私と一緒に来ないかい?」


 再び起伏に乏しい陰気な声の誘い。


 少年は警戒と敵意の顔つきのまま、屈んでいる男の背後を指差した。


 そこに男の持ち込んだスーツケースがあった。


 男は少年が興味を示してくれたことに喜んで、スーツケースをパカッと開けた。


 取り出したのは赤いヒールに、黒いドレス。

 膝下丈のミニドレスには星屑のようなキラキラ反射するスパンコールが縫い付けてあった。


 どうだ、と自慢するように男がニタァと笑うと、少年が初めて口を開いた。


「おい不法侵入野郎。急に出てきておかしいんだよ。あんた自分の悪人面、鏡で見てみろよ」


 その第一声は歌声とは似ても似つかない、ドスの効いた掠れ声。


 何日も洗っていないであろう髪を頬に貼り付かせたまま、少年はとげとげしく吐き捨てた。


 男は心が折れかけた。が、持ち堪えた。


「面妖な……! いや、そうではなく、ごほん。

 君はどうやら生活に困っている。ガスも水道も電気も通っていない古びた家に独りぼっちで住んでいる十歳の少年など現代日本にはそうそういないだろう。

 そこで、その、私と共に来てくれるなら安全を保障し、当面の生活費を出そう」


「胡散臭い。無差別誘拐犯ですって自己紹介のほうがまだ納得できるくらい胡散臭い」


 少年が間髪入れず切り捨てた。


 男は想定外の少年の警戒を覆すべく、とっておきの誘い文句を叫んだ。


「っ、き、君はダイヤの原石だ!! 君の歌声はこんなあばら家に捨て置くべきじゃない!」


「人んちをあばら家呼ばわりかよ、失せろ不審者」


「……」


「……」


 少年は嫌悪感を前面に出し、逃げ出す算段をつけたのか、野生動物のような慎重さで腰を浮かせた。


 その反応に男は凹む。


「うぐっ、面妖な……! やはり私が敏腕スカウトマンを演じるのは無理があったか……」


「……何なの、あんた」


 挙句、十歳の少年に直接問われてしまう。


 男は「ごほん」と一つ咳払いをした。


「少年、察してくれ。私に人を懐柔する面妖な手練手管はない。ただ君の歌声に魅了されただけのちっぽけな男だ。

 君の歌には分裂した心をも叱咤激励し、癒して溶かす力がある。

 世界に通じる歌声だ。少なくともその片鱗を私は感じた。

 それほど素晴らしいという意味だ」


 少年は鉄壁の警戒の隙間に、戸惑いに揺れる顔を一瞬覗かせた。


 彼は先程の鋭さと打って変わって、もごもごと言い訳のような呟きを漏らした。


「……これは……さっきのは妹が作った歌で……。俺はただ真似しただけで、俺が褒められることなんて何も……」


 男は少年の戸惑いに頓着せず、自身の確信を言葉に出来たことに満足気な微笑みを刻む。


「しがない作詞家の私が君のために曲を作り、君がそれを歌って、その姿を舞台で見られたならば、私はそれ以上を望まない」


 それが男の偽らざる欲だった。


「そこで提案だ。ここに君だけの、あしながおじさんがいる。つまり私だ。私は是非とも君の要望を叶えたい。君は何か望むかね?」


 少年は初めて瞳に期待の光を灯した。

 夜道の蠟燭のような見落としてしまいそうな小さな火だ。


 少年は相当の逡巡があったのだろう、視線を伏せ数秒熟考した。


 そして、幼く薄汚れている彼は男の提案に応えた。


 その芯にある子供らしからぬ気位の高さを自ら手折って、硬い表情で若干たどたどしく男に申し出た。


「……俺には、年上の妹がいるんだ。咲来サキって名前の子。妹は今の俺が唯一大切に想えるモノで、詩や歌をたくさん知ってて、俺たちはこの家に二人で住んでた。


 それで、でも、妹は出て行った。行方不明だ。

 けど出て行く時、この家に帰ってくるって約束した。約束したら守る子だから絶対帰ってくると思ってた。だからずっと、もう何か月も待ってる……。


 けど、いい加減、自分で探しに行きたい気分になった。あんたが俺の人探しを手伝うって言うなら、ついて行ってやってもいい」


 男は少年の決意を咀嚼してふっと息を吐き、仄かに笑った。


 左に流れる長めの前髪から、案外柔らかに目尻の下がった黒目が、奥底に切実な望みを湛えて少年を見つめる。


 男はまだ警戒を残す相手との精一杯の握手として、少年の指先だけを緩く握った。


「それではお互いに、交渉成立のようだね」





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