渇望の色の吸骨種

序章

サーカス開演

 清水野しみずのひらくの座右の銘は「全力で無難に徹するべし」。


 この「無難」というのは何も手を抜くことじゃない。


 そもそも自分は元から人より色んなところが劣っているのだ。

 全力を尽くして全身全霊で心身を削って、ようやく人並みに達するわけで。


 そうやって必死で手に入れたいのが「無難」という評価なのだ。




 逸脱してはいけない。飛躍してはいけない。脱落してもいけない。


 その場で持てる力を全て注いで「無難」つまりは「まともだね」という評価を周囲のあらゆる人から頂戴しなくてはならない。




 努力して努力して、取り繕って取り持って、初めて「無難」を勝ち取れるのだ。


 何かある度に何もない時にも、足踏みをせぬよう勇み足にならぬよう。


 清水野展はいつもそうやって己を戒めている。





 二十五歳独身実家住まいのフリーター清水野展は、先日事故で両親を亡くした。


 今は葬儀の真っ最中だ。


 至る所に柔らかな白色の胡蝶蘭が咲き零れる、まるで故人の清廉な人柄を体現したと言うほど清貧さを醸し出す葬儀場。


 式場には両親を慕う人々が後から後から詰めかけた。


 展は気弱さの滲み出る垂れ目を隠す長い前髪を、左に流れるように右手で整えた。


 ちなみに小指のない左手を使うことは普段から無意識で避けていて、他人から目立つ時に動かすのは極力右手だけという癖がある。


 そして右手で髪を弄るその仕草は喪主という慣れない大役に展が神経質になっている証拠だ。


 着慣れない黒の背広が窮屈で息苦しい。先程から胃がキリキリ悲鳴を上げてやまない。


「お部屋白い、お花白い、蝋燭が白い……。胃痛が痛い心臓ねじ切れそう頭痛も痛い眩暈で目が回る……。

 僕は頑張る今日も生きてる無難に生きてる。僕は壁と同化できるぅ……」


 緊張のあまり自分でも意味不明なことを口走る。


 一番の不安要素は列席者に自分の心隈こころぐまを悟られないか――自分がこの悲哀の儀に相応しい面持ちで立っていられているのかどうかだ。


 葬式の間中、展は何度も呟いた。


「たくさんの人がこうして参列しているんだから、両親は、きっと二人とも慕われるにふさわしい人格者だったんだ……」


 そして誰にも聞かれないように唇も動かさず、口を閉じた舌先にだけ自分に分かる言葉を乗せて続けるのだ。


「だから僕も気を張って喪主を務めないと……。まっとうにお悔やみの言葉に応えないと……。足が震えてきた……じゃないよ僕、ちゃんと、しゃっきっとしろ僕」


 展の煩悶は葬儀真っ最中に、両親の死を悲しめない自分を発見して沸き立った。


 幼少期から今日に至るまで、両親に愛された実感をついに得られなかったと、くしくも今日になって気付いてしまった。


 卑賎上下に関わらず集まった列席者が一様に悲嘆の涙に暮れるのを前に、ひたすら肩身が狭かった。





 もっぱら悲しめないことの焦燥に駆られたこの葬式以来、展は原因不明の落ち込みに襲われた。


 それを心配した友人――冨合ふあいから「サーカスに行こう」と誘われた。彼のあだ名は『ファイ』だ。


「気分屋の僕から言わせてもらうと、君はちょっとかなり大分ネガティブを引き摺りすぎだよ。

 そもそも君が他人をどう思ったとて、この先、君の人生は君の物として続いていくんだからさ、いっそ開き直ったらいい。開き直って、楽しい事をしよう!」


 何とも楽観的な響きの励ましだが、彼なりに気分転換をさせようとしてくれたらしい。


 最初は「何故にサーカス? どういう文脈?」と疑問に思った。


 が、人に流されやすい展は、友人の気遣いのこもった気分転換の策にあれよあれよと言う間に乗せられた。





 大きな円錐形のサーカステント。


 テントに着色された黄色と紫のどぎつい縞模様を眼前に、展は思わず目を瞬かせた。チカチカする。


 テントの布をくぐり中に入ると、客席は中央舞台を取り囲むように配置されていた。


 展たちの席は舞台から十字に伸びる階段の脇だ。前過ぎず後ろ過ぎない丁度良い席。

 展は周囲の客にならっておずおずと着席した。


 開始前に早くも客の熱気に中てられていた。有名なサーカス団なのか。


 というかそれより怪訝に思うのは、酒類があるはずもないのに既に酩酊状態と思しき客も多数いる事だ。


「うおおおおおおおぉ……」とサッカーや野球を観戦しているようなどよめきが客席を波のように蠢いて広がる。


 泡を食ってステージに目を向けるも何の演目も始まってはいない。


 展が当惑して首を傾げる間に、観客席で自主的なウェーブが起きる。

 ウェーブと言うのは端から端へ順番に手を挙げていくあれだ。


 観客らは揃って空気の入った風船のような不思議な動きで腕をぽこぽこ上げ下げする。


 関節が曲がることを忘れたようにまっすぐ伸ばされた腕と、統率の取れた集団行動に、正直ついていけない。


 開演前にひっきりなしに発生する歓声と独特なウェーブ。


 どうやら熱狂的なファンで埋め尽くされているようだ。


 普段は陽気な友人第一号のファイも戸惑い気味だ。


「まさかここまで……僕ら、なんか場違いかな……?」


 その言葉を合図にしたかのようなタイミングで突如、暗転した。


 一斉に観客が口をつぐんだため一瞬にして視覚も聴覚も奪われた展は、思わず小指のない左手を庇うように右手で握り締めて身を硬くした。


 再び灯りがともった時、舞台上に制服姿の……おそらく中学生くらいの少女が煙のように現れていた。


 その大胆不敵な登場は一般客では勿論ないだろう。

 一見してサーカスの演者と分かる堂々とした佇まい。


 期待の色を帯びた静寂が舞台を包んだ。

 観客全員が息を潜め、舞台中央の少女の挙動を注視する。


 少女が身に纏うのはピエロのような派手で華美な衣装ではなく、むしろ普段街中で見かけるような地味な藍色の制服だ。


 長袖に膝下の藍色のスカート。

 一番厳しい中学校の服装容疑検査もあっさり通過するだろう無難な着こなしで。


 逆にそんな服をサーカス団員と思われる少女が着ていることが不可解だ。


 地味な衣服とは相反して特徴的なのはその髪色だ。


 赤茶にたっぷり白を垂らしたような淡いカプチーノ色の長髪を高く結い、背に垂らしている。


 それが地毛ではないかと言うほど少女に自然に似合うのは遠目からでも伺えた。


 少女の装いは奇抜には見えず、しかし瀟洒しょうしゃな気配。


 バレリーナのようにくるりと身を回転させ、見下ろす全方向の観客へ一礼。

 ポニーテールが少女の動きに合わせて美しく踊る。


 彼女の存在感が観客の胸の内に浸透し、場を支配する。


 彼女は注目を一身に浴びながら、展たちのほうへと歩いてきた。


 階段を上るそのローファーの靴音さえ計算され尽くした演者の振る舞いとしての凄みがあった。


「え、何? 何っ? こっち来るじゃん! うわぁ、うわぁ、ラッキー!」


 ハプニング嫌いでサプライズ好きのファイが、喜色満面で少女を見つめワクワクと待ち構える。


 一方、注目を浴びるのが苦手な展は今すぐ席を飛び出したくて堪らない。


 脳内で情けなさ全開の悲鳴を上げる。


 ――何でこっち来んの!?


 歩みを進める少女を追従して観客の視線も移動する。

 つまりは観客全員の注目がじわじわと展に向かってくる。


 これは流石に、無難に生きることをモットーとする展には荷が重すぎる。


 こうなっては逃げに徹するべしとトイレに立つ振りをしてなるべく気配を消し、逃げようとした。


 けれど、ファイが期待に胸を膨らませて、席に居座り続けた。


 こうなっては展も道連れ。

 どれだけ抗議しようが動けないのはいつものことで、残念ながら今日も例外ではない。


 えええ何でファイ、何で巻き込む!? 逃げたいんだけど!? おのれファイ……! あああ目が合った! 女の子と目が合った! 胃が、胃が引き千切れそう……! 今日は厄日だ……!


 少女がカツンと最後の靴音を立て、展の真正面で止まった。


 顔立ちを視認できる距離まで来ると、少女の外見から彼女が予想以上に幼いことに驚かされる。


 十二、三歳ではなかろうか、となると着ている制服は少女の自前の物――放課後学校から帰ってきてそのまま舞台に上ったようにも思える。

 いや、まさか。


「本日はお越しいただき誠にありがとうございます」


 怒鳴っているわけでもないのに、よく通る声。

 滲み出る迫力。

 瑞々しく軽やかで幼いが毅然とした余韻が残る。


 ぴんと張った弦のような緊張が少女を中心に広がっていく。


「おお……」


 感嘆の声は頭の中のファイから漏れたものだ。展はしっかりテンパっていた。


 何でこっち来んの……!?


 そう突っ込むのも二回目だ。


 テンパった挙句、両手を遠慮する意味合いのつもりでぶんぶん振った。


 普段なら人目につかないよう注意を払うはずの、小指のない左手を隠す心の余裕すら損なわれている。


 あああ、よりにもよって何で僕なの……!? 何の取り柄もない二十五歳アルバイター今日は何の特徴もない普段着の男の、一体どこに目をつけたって言うんだ……!?

 僕の無難が乱される! 周りの視線が痛いっ……! めっちゃ恥ずい! お客さんの注目が僕に、注目嫌ぁあああああ……!


 少女はさらりと零れたカプチーノ色の長い横髪を、細く白い指で掬って耳に掛けた。


「まずは、自己紹介をさせていただきます。私は『吸骨種きゅうこつしゅ』。名は、ユミ」


 彼女は展に語りかけながら、全客席に目を配った。


「お客様、吸血鬼はご存知ですか? 彼らは血を吸います。ですが私どもは『吸骨種』。吸骨種は人間の骨を吸うのです」


 ……なんだか特殊な設定だな。


 直前の緊張と焦りを不意に忘れた展は、彼女の声と語る言葉に飲まれて息を止める。


 不思議な口上を並べる彼女から目が離せない。

 瞬きする暇すら惜しいほどに。


「お客様、お名前は?」


「清水野……展……です……」


 予期せず言葉が釣り出された。


『ユミ』の問い掛けに人知の及ばない神秘の力が籠っているような気さえした。


 それほどまでに魅了された。


「清水野様。ではあなたの骨、いただきます」


 少女が顔を寄せた。


 展の前髪の隙間から覗く気弱な目を、中学生の少女に正面から捕まえられた。


 近付くとユミが頭の小さい、美人だと分かる。


 吊り目のきつさに反して、温和に下がった眉。

 つかみどころのない雰囲気。


 制服のスカートとリボンが彼女の動きに合わせてひらりと揺れた。


 ――あれ? 今、僕、何て言われた?


 健康的な桃色の唇が迫り、展の唇を――いや、口づけた奥に並んでいるをごっそり奪い去っていった。





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