殺「哀」鬼
昔先生に怒られた―いや、問い詰められたぐらいだったかもしれない―とき、必死に我慢していたのに泣いてしまったことがある。
泣くな泣くなと心の中で叫び、我慢し続けていたのにあっけなく目が潤んで、頬を滑っていった。泣くなと叫んだ言葉そのものが、胸の中で渦巻く感情と言葉の混成が、目から溢れて流れ出したかのように。
私は溢れ続ける
いつも通りの声を出せるはずだったのに、泣くなと命じる意志が喉にへばりついてしまったかのような、みっともなく震えた声しか出せなかった。
何故泣くのかと先生に問われて、私は気にしないでくださいと応じる。この目から流れ落ちるものは、私の本意でなかったのだから。
それなのに先生は困ったような、呆れたような、そんな半笑いを浮かべた。「でも泣いているじゃないか」と。
たぶん、それからだ。私が泣くことを嫌悪するようになったのは。
泣いたら笑われる。泣いたら困らせる。泣いたら呆れられる。泣くのはみっともないこと。泣くのは弱いこと。泣くのは、いけないこと。
脅迫にも似た自分への言い聞かせは、ぐちゃぐちゃの心を守るための防御反応に近いものだったのだろう。それは確かに私を強くしてくれたけれど、同時に私を壊してしまったのだと思う。
感動的な話を読んでも、親族の死に行き会っても、今まで涙のかたちを取って目から流れ出してきていたものが喉から上に上がってくることはなくなった。
喉までやってきたら小さく口を開いて、ふう、と息を吐くのだ。どんなに微かな吐息でも、それと一緒に涙になるはずだったものは私の中から消える。
私はいつしか、泣けなくなってしまった。
△△▽▽
(・・・何でこんなこと思い出したんだろ。)
小さく息を吐く。その後に吸い込んだ空気は、私の淀んだ体内を綺麗にしてくれるかのような清涼さ。
思いっきり息を吸って、吐く。喉元までひたひたと忍び寄ってきた涙になるはずのものは、吐息と共に風に吹かれて消えていった。
風は吐息だけでなく私の髪にも激しく吹き付ける。肩を乗り越えた後ろ髪がフェンスに当たったところで気が付いた。かつての弱くてみっともない私を、思い出した理由。
(ここが、
昔は何か嫌なことがあると、よく休み時間に高いところにやってきていた。ぽっかりと開いた空を見上げて、冷たく吹く風に当たる。風の運んでくる空気を吸い込めば、身体の中に溜まったドロドロが少し薄まる気がしたからだ。
この高校は屋上が解放されていると聞いて、上ってきてみた途端にこれだ。ここには、あまり来ない方がいいのかもしれない。
でも、この場所には人がいない。人がいても、みんながみんな示し合わせたように知らんぷりする。高いところには馬鹿と煙と、ひとりになりたい人が上ってくるものらしい。
そんな馬鹿なことを思いながら、フェンスに沿って屋上を歩く。ぐるりと一周し終わって、興が乗ったからフェンスに囲まれた機械の周りも歩いてみることにした。
屋上よりもはるかに小さな四角形。いくつもあるそれを近い順に渡りながら、周りを一周。その途中に、屋上の外周を歩いているときには気にしなかった遠景が目に入って、足を止めた。
それが岐路だったなんて、思いもせずに。
しばらく遠い景色に意識を向けて、歩みを再開する。一周の始点に戻ってきたとき、立ち尽くす人の姿が目に入った。その人の姿形は麗しく鮮やかなのに、纏う雰囲気はどこか懐かしいもの。コンクリートと似たような、無機質な灰色の気配。
男らしく鋭い輪郭に、つうと一筋、何かが伝う。それは頬を通り過ぎて顎まで辿り着き、散々粘った後に堪えきれない様子で落ちて。
止まらない。
大気に薄められた灰色の中から溢れるドロドロの発露。何でもない様子の顔を横切る駄目さ加減の証明。
声をかけるべきいいやかけてはならないかけられない。
だって、私は嫌だったから。大丈夫と聞かれること。視線を向けられること。その存在を裏付ける他者の行動全てが、嫌だったから。
思い出されるかつての記憶。どうして放っておいてくれなかったのか。どうしてあんな顔で私を見たのか。世間一般の善良と優しさという名の、私に対しての屈辱と悪意。
目が合う。切れ長の目が大きく開いて、恐怖とも絶望とも怒りとも取れて取れない感情が現れて、いつの間にか彼は私の目の前にいた。乱暴に首が掴まれフェンスに背中が当たる。手の筋が、やたらくっきり見えて。
「何で・・・。」
彼の手を濡らすもの。ひとりのとき、わけもなく溢れ出る名前のない感情とかたちを持てない言葉。
「気にしないで。」
首に巻き付いた手には、いつまで経っても力が入らない。一先ずその手を無視して、頬をこする。手に付いた水滴を払っていると、彼も今気づいたかのように頬を拭った。
お互いに残った痕跡が赤い目だけになったとき、首から手が外れた。彼はそのまま不思議そうに、自分の手を見つめて。
「時々訳もなく、我慢できなくなるときがある。」
手を開く。閉じる。赤い目が瞼に一瞬隠れて、また現れる。
「そんなとき他の奴に出くわすと、無性に殺したくてたまらなくなる。」
「声なんかかけられたときは最悪だ。騒ぎに気付いた奴が俺を引き剥がさなかったら、本当に殺してた。」
その言葉は私に向かったもののはずなのに、どこか独り言のよう。だから私も何も言わずに聞いていた。だって独り言に、返事は必要とされないから。
「医者は『対象選択型』とか言ってたな・・・。対象となる条件は・・・言わなくても分かるよな。」
ほんの少し顎を引いて返答。自分がその行動を取ってしまったということは、客観的な言葉としてでさえ認めたくない気持ちは分かる。
「
「なあ。」
「なんでだ。何で俺は、お前を
独り言が問いに変わる。明確に、私に向かって放たれた言葉。私はあなたじゃないから、よく分からないけどと前置いて。
「あなたは、我慢できなくなった自分を殺したくなったことはある?」
「な・・・。ああ・・・そういうことか。」
まだうっすらと赤い目で、彼はひどく鮮やかに笑った。
「なあ。お前はそのままでいてくれよ。初めて会った、名前も知らない奴に頼むことじゃないってのはわかってる。でも、お前はそのままでいてくれよ。」
私も、わらう。
「・・・いいよ。」
でも、これだけは言っておかなくてはなるまい。
「私たち、同じクラスですけど。」
「・・・・・マジ?」
「ここで嘘つく必要性、ある?」
「・・・ないな。」
私たちは、笑った。目の赤さが、気にならなくなるまで。
夕焼け色の風が、笑いと共に吐き出されたふたり分のあれこれを連れて行ったのを感じながら。
▲▲▼▼
屋上のドアを開けると、すっかり見慣れた背中が見えた。屋上をぐるりと囲む高いフェンスに指を引っかけて、下を眺めている。ドアの開く音に気付いたのか、振り向いて。
「・・・よう。」
「こんにちは。」
声はいつものように平坦で、震えてなどいない。白目の部分がうっすらと赤く染まってもいない。それが、普通だった。ここで会うようになってから、こいつが泣いているところなど数えるほどしか見ていない。
それにこいつは涙を流すとき、いつも顔を伏せる。震えた声で、何でもないように会話を続ける。それが暗黙の了解事だったから、俺もいつも通り会話を続けて。
ふいに会話がぷつりと途切れたときにひそやかな嗚咽を聞くと、俺も妙に我慢できなくなってくるのだ。
(
言葉にならない声。かたちになれない感情。
肋骨を突き破らんばかりに、胸の内側から飛び出そうとする何か。
(
(駄目だ。耐えろ。)
それが何かも分からないのに、心の中でせめぎ合う。それを表に出してはならないと、閉じ込めようとする。
(
(考えるな。別のことを考えなくては。)
(駄目だ。駄目なんだ。絶対に、駄目なんだ。)
胸の内側でぐるぐる渦巻いて。胸の内側から出ようと叩きまくって。押し込めようと抑えつけて。
それは、別の出口を見つけて溢れ出した。
振り向いたそいつの、僅かに覗く瞳。そこに映る俺の頬には光るもの。
伝い落ちた涙が口に入る。ほんの僅かな塩の味。乱暴に拭っても、それは止まらない。止まる気配もない。
それでも俺は、そいつの横に並ぼうとして歩を進めた。
「これ以上前に出ると、見えちゃうかもよ。」
そいつはそういって、俺の頬に伝う涙に手を伸ばした。風に冷えた指が頬に触れて、涙の一滴を掬い取って。
(
必死に抑え込んでいた何かが、涙の形で溢れたそれが、暴れ出す。痛いほどに胸を叩いて、俺を食い破ろうともがく。
後退る。冷たい指が頬から離れて、指に乗った涙の雫は形の良い爪を伝って滴り落ちた。
「ねえ。」「止めろ。」
暗黙の了解事。共にあるためのルール。初めて会ったその時に感じたそれが、再び芽吹いてしまう。
「
「止めろ!!!」
がしゃんとけたたましく音が鳴った。小さく息をつめたそいつの首には、いつかと同じように俺の手が回っている。あのときと、初めて会ったときと違うのは、俺の手から力が抜けないこと。
「何でだ!! 何でだよ!!」
(
「そのままでいてくれって言ったのに!! お前なら大丈夫だと思ったのに!!」
(
「何で、なんで条件を満たした!! 何で俺の、殺人対象になった!!」
(
「何でなんだよ!!!」
苦しさに顔を歪めて、それでも口元だけは微笑んで。
「だって・・・あんまりに、苦しそう、なんだもの。」
かすれた小さな声。風に吹き飛ばされてしまいそうなその声は、妙に大きく耳に届く。
「あなた、は・・・私とここにいるよう、に、なってから・・・よく泣くように、なったよ、ね。」
「やめろ・・・。」
「あなたが泣くのは、我慢できなくっ、なったとき・・・。」
「だまれ。」
「じゃあ、あなたは・・・っなにを、我慢してた、の・・・?」
「もう、だまれ・・・。」
手から力は抜けてくれない。もう無視できないほどに、殺意は俺を突き動かしている。その癖頭のどこかは妙に冷静で、校庭で部活をやってる奴らがこっちを指差して何やら言っているのを捉えていたりした。
「私はね、言いたか、ったけど、言えなかったこと。」
「泣いちゃダメって、思う意志。」
「ぐちゃぐちゃの、心の中身。」
「それが、涙になるの。それらが、胸の中に入りきらなくなったときに・・・泣いてしまうの。」
ここに誰かが来るまでそう時間はかからないことは分かっていて、冷静な頭のどこかが手を離させた。
咳き込みながらへたりこむそいつの目が、哀しみ以外の理由で潤んでいるのを見下ろし踵を返す。サムターン錠のつまみを横に。すぐそいつのところへ戻って、しゃがみ込む。
懲りずに俺の頬を拭うそいつの腕を捕まえて、身体と一緒にフェンスに押し付けた。
もう、新しい涙は流れてこない。
「教えてよ・・・あなたの涙が、何なのか。」
ふざけるなって言いたいぐらい、その笑顔は綺麗だった。
確かにこいつは俺が始めに願ったとおり、そのままでいてくれた。俺が願ったときのまま―俺が殺したい、こいつのまま。
「殺意、だ。」
俺と俺の周囲を取り巻いていた奴らは、とんでもない思い違いをしていた。俺の殺人対象は『俺が泣いているところを見た人物』なんかではなかったのだ。
俺が泣いていたのはこいつと違って、発散できない殺意の慰めだった。泣いているときは殺意に溢れた状態だったから、そこに来た奴を殺そうとしただけの話だったのだ。
こいつと初めて会ったときに
俺の方向性も何もなく暴れまわっていた殺意は、こいつへ向かって収束した。向かうべき方向を見つけた殺意は、もう涙として流す必要が無くなった。だから、俺の涙は止まったのだ。
指に、ゆっくり力が籠っていく。いつかこいつに言ったように、
首を絞められていても続く呼吸。吸うと吐くの繰り返し。俺は、文字通り必死に呼吸を行うその口をそっと塞いだ。俺の
ずっと。
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