第11話 桜・クリスマス(5)



「旅に出ていたのよ。世界中をまわる旅」


 その声は、いつのまにか一つだけ開いていた窓から聞こえた。黒いスライムのようなものが窓から部屋に流れこんできたかと思うと、黒のマントと真紅のドレスに身を包んだ人間の形になる。ドレスだけでなく唇も爪も靴も赤。真っかっか。認めたくないが、母だ。


「あ、ゆで卵嫌いのおばさん……」


 白玉がゆで卵をお断りされた過去を覚えていたらしく、恨めしそうにつぶやく。


「どうしてそんなに長い間、世界を旅する必要があるんですか?」


 鈴木は大真面目な声でたずねたが、母には愚問に聞こえたらしく、つまらなそうに目を細めて腕組みをした。


「もちろん、世界中のみんなの願いをかなえるためよ。彼は人々の小さな願いをすべて魔法でかなえて幸せにしてあげることが、強大な力を得た自分の最大の使命だと考えているの。困っている人々、助けを待ちわびている人々は世界中にあふれているし、今もそんな小さな願いを見つけるために飛び回っていて、実際とても忙しいわ。滅多に帰ってこないのはそういう理由。まあね……確かに見当違いのかなえ方も多くて、しかも感謝しないと不機嫌になって幼児化を始めてしまうという、かなり迷惑で面倒くさい部分も……アハハハ」


 説明が一部正しくないと言わんばかりに両手両足をバタつかせ、ばーぶぶぶーっと騒ぎだした赤ん坊を見上げ、母はごまかすように笑った。


「そんな部分は……全然ないけど。でも、赤ちゃんまでもどってしまったのは初めて見たわ。よほど重量級のショックが彼を打ちのめしたのね。ということは……」


 いきなり母は私を赤い爪で指さした。


「やっぱりあんたが原因だと思うわ、サリー」

「あたしは関係ないもん」


 私はしれっとして言った。事実だ。散々子供に迷惑をかけてくる親に大っ嫌いと叫ぶくらいは普通だと思う。大体、伯爵の行動はすべておかしい。十年ぶりに帰ってきたら家族の様子が期待通りではなかったからといって、普通ここまで変な嫌がらせをするだろうか。ただ玄関のドアを開けて、ただいまって言えばいいだけじゃない?

 しかし母の目は細くなったままだった。


「それでも原因はあんたなのよ。だってこの人にとって本当に一番かわいくて一番気がかりで一番幸せになってほしい人は、一人娘のあんただけなんだもの」

「あら、伯爵は世界中の人々の願いをかなえて幸せになってほしいんでしょ?」


 私は言い返した。どうも母はすべての責任を私に押しつけて伯爵に謝らせ、丸く収めようという魂胆らしかった。そんなのずるい。母も最初は面倒くさい伯爵がもどってきたことを認めたくなくて、気づかないふりをしていたくせに。


「そ、それは仕事。娘は娘よ」


 母は顔を引きつらせながら笑った。


「伯爵が……お父さんがあんたをどれだけ特別に思っているか、あんたは気がついていないだけ。あんたが友達を救うためにスノーホワイトを人数分くれるようお願いした時も、ちゃんとくれたでしょ。それにえーと……前に帰ってきたのは、あんたが四歳になったばかりの頃だけど、小さなあんたを喜ばせようとしてお気に入りのチカちゃん人形を人間の大きさに変えてくれたし、クマのぬいぐるみを二階の窓からじゃないと顔が見えないくらいの、世界で一番巨大なぬいぐるみに……」

「そしてあたしは恐怖に泣き叫んだ。今でも時々その悪夢にうなされるもん」


 等身大の人形や窓いっぱいに広がるクマのぬいぐるみの顔なんて、どんなホラーだ。

 そうだ。……あの時私は泣き叫んで、言った。

―お父さんなんて大嫌い。もう二度と帰って来ないで!

「……あの時、あんたは伯爵に魔法をかけたのよ。十年過ぎても解けない、世界一の魔術師でもどうにもできない魔法を。だから伯爵は娘に会いたくてもどって来たものの、家に入ることはできなかったの」


 母は言った。それから伯爵に聞こえない小声で、確かにあの時は人形の腕力が強すぎて壁は壊れるしクマの重みで家は傾くし、もう大変だったけど、と早口で言った。


「ホホ……とにかくね」


 母は咳払いして、とうとう本音を言い出した。


「あんたが『ごめんね、パパ。帰って来てくれてありがとう。本当は大好き』とでも言えば、すべては元通りになるのよ。いくら面倒くさい人でも、これ以上よそのお宅に迷惑をかけることはできないし、それに今も、世界中に彼の魔法を待っている人が本当にたくさんいるの。この姿のままにしておくことはできないわ」


 それでも黙っている私を見て、母は眉をひそめ、もう、誰に似たのか強情なんだから、とため息をついた。

 もちろん私は納得できなかった。小さな子供が泣き叫んで言った言葉を、なぜ今になって謝らないといけないのか、全然分からない。ただ、よそのお宅に迷惑はかけられない、とか、世界中に彼の魔法を待っている人がいる、という言葉には言い返せず、黙っているほかなかっただけだ。

 それとも、本当にこれは私の強情なの? 私が一番分かってないの?

 ナーガ王子は伯爵を仙人だと言った。そんな四千年以上も生きて、癇癪を起して赤ん坊の姿になってしまうような訳の分からない神様相手に、本気で腹を立てる方がおかしいの? 謝って丸く収まるのなら、そうするべきなの? でもやっぱりそんなの、変! でも……でも……

 だんだん混乱して、頭がぐるぐるしてくる。

 助けは意外なところからやって来た。


「部長が謝る必要ないよ」


 隣にいた鈴木が、珍しく少し迷惑そうな声で言った。


「部長も僕たちも被害を受けたのは確かだし、たぶん本当は、伯爵は単に家に帰りたくて、でもまた泣き叫ばれたらどうしようと心配で、うろうろしていただけだと思う。僕の父親も堅物だから何度か大ゲンカしたことあるけど、その後仕事から帰ってくると、玄関先でうろうろしてるの見たことあるもん。……うん、あれは相当面倒くさい」


 くるくる回っていた赤ん坊が、雷に打たれたように硬直する。


「あ、でも、僕自身は伯爵にありがとうって言いたいんです」


 急に大真面目な表情になって、鈴木は宙に浮かぶ伯爵の方に向き直った。

「伯爵。僕たちが死にそうになった時、伯爵が部長に何か薬を渡して生き返らせてくれたんですよね。ありがとう」


 白玉も菜々もあわてて言う。


「僕も、伯爵。命を救ってくれて、ありがとう」

「本当は超イケメンなんですよね。命を救ってくれてありがとう!」


 それから鈴木と白玉は声を合わせ、満面の笑みで続けた。


「ずっと幽霊もUFOも見たことなくて、小学生の頃からその手の話題に全然入れなかった僕たちに、初めて不思議な体験をさせてくれて、ありがとう、伯爵!」


 伯爵は「ありがとう」の言葉に反応するように、どんどん風船のように膨らんだ。パンパンになり、もう小さな赤ん坊の体型を続けることは難しくなっていた。一緒に宙に浮く雨傘がくるりと回転すると赤ん坊の体はついに、ボンッと爆発。目の前には細身のコートを着た、銀色の髪にアイドル顔の少年伯爵が立っていた。


「何を言っているんだい、キミたち。あの程度のことでそんなに感動するなら、いつでもまた体験させてあげるよ」


 それから伯爵は鈴木に、少し冷たい薄紫の目を向けた。


「そうだね。キミは鈴木という苗字を変えたら完璧だ」


 鈴木が笑顔のまま、え、と言葉に詰まる。伯爵は白玉がうっとりした表情で差し出したゆで卵をファンからのプレゼントのように受け取り、さらに隣の菜々に笑みを投げた。

菜々は胸の前で両手を組み、目をうるうるさせている。


「やっぱりサリーのお父さん、カワイイ!」


 伯爵は満足そうにムホホホホと笑い、ステッキ代わりにしていた雨傘を再びくるりと回すと、ようやく大人の姿にもどった。つまり、キレイなお父さん、という感じだ。


「では素直な君たち三人の友人に免じて、娘が私にスノーホワイトの礼を言わなかったことは許してやるとしよう」

「いえ。娘さんは……サリーは言ってると思います」


 いきなりしれっとした声で、鈴木が言い出した。


「サリーは僕たちを救おうと急いでいたので、お礼の声が聞こえにくかっただけではないでしょうか」


 菜々も言う。


「こんなキレイなお父さんが帰って来てうれしくない娘はいません。サリーは照れてるだけだと思います」


 鈴木の言っていることは事実だが、別に照れてはいない。しかし、伯爵は世紀の大発見をしたように息を吸い込みながら目を見開いた。


「そうだったのか、わが娘よ!」


 伯爵はいきなり私を抱きしめ、頭をパンパン叩いた。


「おまえは優しい子だから、友達の命を救うことを優先したのだな。父を見て照れるとは、何という心の清らかな娘なのだ。いいとも、いいとも、いーですとも。それでこそこの地球史上最強の大魔術師サミュエル・島田・ド・サンジェルマン伯爵の唯一にして最愛の」


 話が長い。そして、頭が痛い。


 私は十年も会っていない父親に抱きしめられて、体中がムズムズしてしょうがなかったが……我慢した。伯爵には見えない方向から、母も鈴木も白玉も菜々も、反撃するなと必死の表情で私に向かって両手を合わせ、お願いしてきたからだ。


「カレン。私の赤の女王。今日の晩御飯は何だい?」

 上機嫌で伯爵が言う。母もオーホホホと笑う。


「もちろん超絶激辛真紅の麻婆豆腐よ!」


最悪! しかし伯爵はさらにご機嫌な表情になった。


「私の一番好きなメニューだ!」


 そして伯爵はストレスいっぱいの私を抱きしめたまま部屋にいる全員を見回した。


「ではステキな我が家に帰る前に、君たちの願いを一つずつ叶えてやろうではないか」


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