第10話 桜・クリスマス(4)

 なんとか模擬試験には間に合ったが、私は全科目の試験が終わると、またすぐ走って会場を後にした。


「どこにいくの?」


 菜々が目を丸くして後を追ってくる。


「怒鳴りこんでやるの!」


 質問と答えが合ってないなと思いつつ、私は走り続ける。

 よく分かった。無視やその場しのぎだけでは、伯爵という災害はなくならない。むしろ悪化していくだけだ。今度こそ決着をつける。伯爵の方こそ間違っていることを、声を大にして言ってやる。それで親子の縁が切れても、知るもんか。


「でも、サリーはお父さんの居場所を知っているの?」


 菜々が後ろを走りながら聞いてくる。私は立ち止まり、同じように立ち止まった菜々を見た。なぜ話が通じたのだろう。しかし確かに菜々なら、私が怒鳴りこむのは伯爵のところしかないと分かっている気もした。

 そして私はもう、伯爵の居場所を知っていた。それは菜々にも関係のある場所だ。


「あの洋館だよ、丘の上の」


 私はやっと思い出した。夢の中に出てきた洋館。その窓から見える庭園がどこだったか。

 私はあの館の中を見たことはないが、外から見たことはあるのだ。まだ小学六年生の頃、いつも登下校の時に遠くに眺めていた丘の上に見える白い洋館を一度近くで見ようと、菜々と二人で丘の上まで登った。

 洋館のまわりには、美しいイングリッシュガーデンが広がっていた。色とりどりの花々に彩られ、薔薇のアーチの向こうでは、庭師らしいつなぎを着た老人と館の住人らしい上品そうな老婦人が楽しそうに何か話していた。映画の世界のようなその風景を、私と菜々はフェンスの外からうっとりと眺めたものだ。


 ただ……

 三年ぶりに見るイングリッシュガーデンは、記憶とは少し違っているように思えた。

 どの草木も枝が伸び放題になっていて、地面には落葉もたまったままになっている。その向こうに見える洋館もカーテンは引かれたままで、人の気配は感じられない。


「誰もいないのかな……」


 あまりにも静かなその様子に、当たり前のように後を追ってきた鈴木がつぶやく。隣の白玉がフェンスの扉をつかむと、簡単に扉は内側に向かって開いた。


「勝手に入っていいの?」


 庭園に足を踏み入れた私に、後ろから菜々が気後れした様子で聞いてくる。私はうなずいた。夢の中で見た館から見える庭園は、確かにここだった。もしまだあの老婦人がいるのなら、伯爵はここにいるのか、いないのならどこに行ったのか、聞かなければならない。

 そう思って庭園の中を歩き出した時、茂みの向こうに見える館の大きな木の扉がきしみながら開き、くるぶしまでのドレスにショールを巻いた、あの老婦人が現れた。


「あなたは誰?」


 老婦人が私をじっと見て言う。私は緊張してごくりと唾を飲みこんだ。しかし言わねばならない。


「私はあいつの……伯爵の娘です。ここに来ていたはずです。私は伯爵に一言……いえ山ほど文句を言ってやりたくて、ここに来たのです」


 老婦人は小さくうなずきながら私の話を聞き、最後にほんの少しだけ笑った。


「確かに伯爵はこの館に来ていたし、ええ、今もいますよ。そして私も一方的な伯爵の話だけでなく、ご家族の話も聞かないと、どちらの味方もできないと、ずっと思っていたの。だからあなたが来てくれて、とてもうれしいわ。ただ……」


 老婦人は困った様子になり首を傾げた。


「文句を言っても、今の伯爵には通じるかどうか……」


 どういう意味だ。

 とにかく私は老婦人に招き入れられるまま中に入り、あの夢の中で見た螺旋階段をかけ上がり、伯爵がいるという夢の中で見た部屋のドアを開けた。

 あ……

 私は立ち止まり、そのまま動けなくなった。後ろから走ってきた菜々が背中にぶつかる。さらにその後ろに鈴木と白玉もぶつかる音がする。それでも私は動けなかった。ただ目を見開いて、部屋の一点を見つめた。


「何、これ……」


 菜々が後ろから消えそうな声でつぶやく。後ろの二人はぽかんと口を開け、声を出すのも忘れているようだ。

 部屋の中央に浮く黒い雨傘の下で、小さな赤ん坊が体を丸めてくるくると回り続けていた。髪は銀色で、半開きの瞳は紫。

これって……伯爵?


「ばぶぅ!」


 雨傘の下でくるくる回りながら、その赤ん坊は不機嫌な顔で騒ぎ始めた。


「ばーぶ、ばぶばびぶうー!」

「ここ、これが本当にあのサリーのお父さん? 本当に?」


 私の肩口からおびえた様子で菜々が聞いてくる。私も信じたくないが、確かに短い頭髪はよく見ると銀色で、赤ん坊に合わない薄紫の不敵なまなざしも、伯爵の目そのものだ。


「うん……たぶん。お父さんと言うより、みんな〝伯爵〟と呼んでるけど。サミュエル・島田・ド・サンジェルマン伯爵。四千年以上前から生きている稀代の大魔術師。ま、私から見ればただのド迷惑な超高齢者だけどね」


 ぶっぶぶーっ、とまた赤ん坊が不満そうに騒ぐ。違うと言いたいようだが、気にしない。


「く……空中浮遊!」

「す、すごい!」


 後ろで、あいかわらず二人組がずれたところで感動している。


「それにしても……なぜこんな姿になったんですか?」


 私は恐る恐る老婦人にたずねた。

 私が夢の中で見た時、まだ伯爵は大人の姿で、ミルクティーを飲みながら偉そうに自分勝手なヘリクツをしゃべり続けていた。確かに感情が高ぶると大人の姿が崩れて幼児化してしまうという特技(?)を持ってはいるが、まさか赤ん坊にまでもどってしまうとは。

 イケメンの大人の姿のままでいてもらうために機嫌を取り続けるのが大変で、と母もぼやいていたが、その母からも、赤ん坊までもどったという話は聞いたことがない。

 老婦人は頬に手を当てて、ため息をついた。


「分からないわ。今日は朝からずっと怒っていて、雨傘の下でくるくる回りながら子供の姿で歌を歌い続けていたの。もっと降れ、雪も降れ、雪だるまも降れ、みんなみんな降っちまえ。でもいきなり雷に打たれたように動かなくなって。そう、そういえばその時変なこと言ってたわ。だい……だーいー……きー……きー…………」


 きっと私が空に向かって叫んだ時だ。大嫌い、と。

 意外だった。まさか私の言葉にこれほどの威力があるとは思わなかった。分かっていたら、もっと早く使ったのに。

 老婦人は申し訳なさそうに肩をすくめる。


「そして丸くなって、こんな姿になってしまったの。お気の毒に。どうしたら元の姿にもどるのかしら」


 元にもどす?

 くるくると回る赤ん坊を見上げながら、私は思った。

 元の姿にもどす必要があるのだろうか。

 もうずっとこの赤ん坊の姿のままでいい気がした。伯爵が赤ん坊になったことで、変な雨雲による異常気象の魔法もとけた。このまま魔法が使えず、言葉も話せないなら、この先私はおかしな妨害を受けることもない。恩着せがましい説教を聞くこともない。平和な人生を送れるのだ。そうだ。もともといないも同然の人なのだから……


「それってたぶん部長が、お父さんなんて大嫌いーって叫んでた頃じゃないかな」


 鈴木が余計なことを言いだした。吹雪の中で雪だるまに埋まっていたくせに、風に乗って私の叫びは聞こえたらしい。


「大嫌いって娘に言われたショックで赤ん坊になったのなら、大好きって部長が言えば、元にもどるのかな」

「ばーびばぶぅ、ばぶぅ!」


 会話の意味は分かるのか、赤ん坊がその通りと言わんばかりに大声で騒ぐ。

 冗談じゃない。私は鈴木の方に向き直った。


「無責任なこと言わないでよ。それでもし元にもどって、また豪雨や吹雪になったらどうするの。本番の高校入試も受けられなくなったらどうするの。また変な婚約者見つけてくるかもしれないし。サツマイモ栽培だって邪魔されたし。鈴木だってマンドラゴラの声を聞いて死にそうになったじゃない。それでも元にもどせというの?」


 予想に反して、鈴木と白玉はなぜかうっとりした表情になった。


「あれは……でも僕たち初めて本当の不思議な現象を体験して、大変だったけど感動したというか」

「怖かったけど、うれしかったというか……」


 二人にまともな意見を求めた私がバカだった。


「あのね……」


 ずっと私たちの話を聞いていた老婦人が、ふいに言った。


「もしかしたら、この方は……ずっと寂しかったんじゃないかしら」


 私たち四人の顔を見回して、彼女は少し苦笑したように見えた。


「もちろん、いい歳した大人がいくら寂しいからって、何でもしてもいいことにはならないわね。それはそう。でも……私は分かるの、伯爵の寂しさが。だってこの館を見て。私が子供の頃は、それはもうにぎやかで、家族も仕事する人もたくさん出入りしていたけれど、今はもう私一人。両親も夫も亡くなって、会社もたたみ、子供たちも巣立ってしまった。庭が荒れているのは、長雨のせいばかりじゃないのよ。最後まで残っていた庭師も歳をとって、この丘の上まで登って来れなくなってしまったの。あなたたち二人は……」


 老婦人は私と菜々を見て、微笑んだ。


「見覚えがあるわ。三年前、まだ庭がきれいだった頃、門の外からのぞいていたでしょう?」

「はい。本当にきれいで、それで私たち中学では園芸部に入ることにしたんです!」


 菜々が身を乗り出して言い、私も一緒にうなずく。しかしすぐに、いくら素敵でも、こんなに広い庭園の中にあるこんなに広い洋館で、たった一人で暮らす生活を想像して、何も言えなくなってしまった。

 老婦人はその庭園を窓から眺めた。


「伯爵もまた、一人だと感じているのではないかしら。四千年以上も生き続けるって……それが事実なら、それだけでもとても孤独なことだと思うの。だってみんな彼のまわりを通り過ぎて、先に死んでしまうんですもの。それなのに……やっと家族ができて、せっかく帰ってきたのに、家に入れないなんて。百年以上前に少し縁があっただけのこの館を訪ねてきて、そのままぐずぐずしてるなんて、なんだかかわいそうに思えるのよ」


 確かにそうかもしれない。数千年も自分だけ長生きするなんて、幸せなことではないのかもしれない。私には想像もできないほど孤独なのかもしれない。しかしそれは魔術を極めたという彼なら、覚悟のことではなかったのか。

 しかし伯爵のことだから、そんな先々のことは深く考えないまま魔術を極めて、永遠の命を得てしまったのかもしれない。……ありえる。

 どちらにしても私に責任はない。


「でも、それはやはり伯爵自身が悪いと思います。十年も自分からどこかに姿を消していたら、家族に忘れられても当然です」


 ばぶぶぶぅーっ、と赤ん坊が抗議するように騒いだが、私は無視した。それはそうね、と老婦人もうなずく。


「どうして伯爵は何年もいなくなるのかしら。じっと一つの所にいるのが苦手なのかしら。それにしても十年は長いわ」

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