第9話 桜・クリスマス(3)

 私は人形に追いかけられていた。

赤いワンピースを着た巨大なプラスチック製の人形だ。あまりに巨大で頭が天井につっかえるので、顔は横に傾いている。傾いたまま、人形の顔がにっこり笑う。


『サリーちゃん、遊ぼう。もっと遊ぼう』


 長い物干し竿のような足が、ギクシャク動いて私を追ってくる。その動きはゾンビと変わりがない。四歳の私は恐怖に泣き叫びながら逃げている。自分の部屋に逃げこもうと二階の廊下を走っているが、なかなかたどり着かない。廊下はそんなに長くないはずなのに。

 やっと部屋のドアが見えた。私は部屋に飛びこみ、急いでドアを閉める。しんとした部屋の中で私はなんとか息を整える。

 これで大丈夫。きっと大丈夫。だってドアを閉めたもん……

 しかしなぜか背後に視線を感じて、私はおそるおそる振り返る。滝のように雨が流れ落ちる部屋の窓一面に、巨大なクマのぬいぐるみの顔が貼りついていた。黒い無表情な丸い目で私をじっと見つめるクマ。その口元だけがにんまりと笑う。


『みーづ・げ・だ!』


 私は悲鳴をあげて飛び起きた。

 朝だった。

 薄日のさす部屋の窓ガラスにクマは貼りついていなかったが、滝のような雨が流れているのは同じだ。しかも、寒い。もうすぐクリスマスなのだから当然だが、天気予報によれば、例の雨を降らせる分厚い雨雲の上にさらに寒気が入り込んで、今日は雪が降る可能性もあるという。

 しかし私は無言で出かける準備を始めた。今日は日曜だが全市合同模擬試験日なのだ。

 降りたければ降ればいいと思った。私は何も諦めないし、考えを変えることもない。

「この豪雨なのに、本当に行くの?」

 制服を着て朝食の赤いトマトパンを食べ始めると、呆れた表情で母が言った。

「行く」

 私は不愛想に答えてパンを飲みこむ。私は決めた。父には負けない。模試を受けて合格ラインの点が取る。そして王花学院を受けて名門園芸部に入るのだ。

「そうかい。じゃあ本番じゃないけど、がんばらないとね」

 祖母がビーツの真っ赤なスープをカップに注ぎながら、にこにこして言う。私はようやく味方ができた気がして、うん、と大きくうなずいた。

 大雨の中、傘をさして歩き始めると、すぐに菜々が雨靴で路面の雨をはじきながら走って追いついて来た。

 驚いた。菜々はこのまま高等部に行く気ではなかったのか。

「だってサリーもいなくなって園芸部もなくなったら、寂しいんだもん。だから、やっぱり一緒に模試を受けることにしたの」

 菜々が傘の端を上げて、笑いながら言う。

 うれしくなった。やはり友達も一緒なのはうれしい。勇気百倍に感じる。二人で激しい雨に大きめの傘で立ち向かいながら歩いていると、また二人分の足音がバシャバシャと走りながら近づいて来た。

 例の二人組だった。こちらはうれしくはない。むしろ気が散るので迷惑だ。しかし二人組は何も気にしていない様子で、いつもの緊張感のない笑顔で近づいてくる。

「やっぱりね。どんな暴風雨でも部長は模試に出かけると思ったよ」

 鈴木が言う。当然だ。それに特に強い暴風雨が続いているのは東西市でも東西学園を中心とするエリアだけだ。市の外れにあるにある模擬試験会場は、なんと晴れ予報なのだ。

 ただし、それを今口にするわけにはいかなかった。この会話もあの超高齢魔術師―伯爵はちゃんとどこかで聞いているに違いない。言えばまた雷でもなんでも落下させて、嫌がらせをしてくるだろう。

 しかし白玉が無邪気な笑みを浮かべて、私のかわりに言ってしまった。

「今日の模試会場付近の天気は晴れだから、あと少し我慢して歩けば大丈夫だよ。お腹がすくかもしれないけど、僕、模試が終わったらみんなでゆで卵を食べようと思って、たくさん持ってきたんだ」

 固まる私の横で、奈々が目を輝かせる。

「食べる食べる。あたしいつもテストの後はお腹すくから。ねえ、じゃあ久しぶりにあの丘に登って食べようよ、サリー。あの洋館のある丘、会場のすぐ近くだよね」

 洋館のある……丘……?

 いいよ、と鈴木も言い、白玉が満足そうにうなずく。

「じゃあ模擬試験の後は、みんなでピクニック……」

 ドン、という変な音とともに白玉の声が途切れた。

 振り返った私は、白玉の声がしていた場所に立派な雪だるまが立っているのを見て悲鳴をあげた。白玉は確かに色白でぽっちゃり系だが、まさか雪だるまになってしまうとは!

 鈴木があわてて傘を放り出し、雪だるまの雪をかき分けて中の白玉を救出する。白玉は雪だらけになっていたが無事だった。雪だるまの中にすっぽり埋まってしまっただけだったようだ。しかし、なぜ埋まったのだろう。

いや、そもそもなぜ雪だるまがここに……

 気がつくと雨はやみ、空にはぽっかり……無数の小さな雪だるまが浮いていた。徐々に大きくなってくる。いや、落下してくる!

「ぎゃああああああああ!」

 道のあちこちにドーン、ドーンと地響きを立てて落下する雪だるまにつぶされないように、私たちは悲鳴をあげて逃げ回った。雪だるま自体は柔らかく、車や家の屋根に落ちてもそれを壊すことはなかったが、人間より大きい雪だるまなのだから、落ちてぶつかってきたら、たぶん痛い。いや、絶対痛い。

 とにかくこんなバカげた空間を抜けて、早く模試の会場に行きたかった。私は逃げ回りながらも会場に向かう道を外れないように猛ダッシュする。菜々や鈴木、白玉も後に続く。

 いきなり前方から暴風と粉雪が吹きつけてきた。一気に周囲の景色が白くかき消されて、風雪の轟音と冷たさしか感じられなくなる。真っ白い世界の中で、どこが道で、どちらが進行方向なのかも判断できなくなる。ホワイトアウトだ。

 そのまま足元をすくわれ、私は暴風と共に吹き飛ばされそうになった。誰かが私を引きもどす。鈴木が片手で並木の枝をつかみ、もう片手で私の袖口をつかんでいるのだ。

同じように飛ばされそうになった菜々が、私のコートの裾をつかむ。その後ろに菜々のリュックの端をつかんだ白玉の姿が、そしてさらにその後ろに、こちらに迫ってくる雪だるまの大群がうっすらと見えた。

 こんな変な妨害で試験会場に行き着けないのは、絶対にいやだった。しかし枝をつかんだ鈴木の腕は少しずつずれていく。暴風の中で三人分の重みが重なっているのだ。

「うわああああぁぁぁ!」

 白玉の叫ぶ声が聞こえた。暴風に手を離してしまった彼は後ろに吹き飛ばされていく。

「みんなー、僕の分もがんばってぇぇぇー」

 白玉の声が小さくなり、彼は再び雪だるまの中に吸い込まれてしまった。

「きゃあああああぁ!」

 菜々も風圧に耐えられず、私のコートの端から手をすべらせてしまう。

「サリー、がんばってねぇぇぇー」

「菜々ー!」

 私は絶叫したが、菜々も雪だるま軍団の中に吸い込まれてしまった。

状況は変わらなかった。二人分の重さがなくなっても、その分風力がさらに強くなっているのだ。このままでは鈴木の手もすべって、全員雪だるまに埋まってしまうのは時間の問題だった。何かもっと、しっかりつかまれるようなものはないのか。

 何か……!


―あーあ、やっぱりまだ咲かないね。


 学校の正面口に置かれた園芸コンテナをのぞきこむ部員たちの声に、私は足を止めた。

 寒さと連日の雨で、学校の外にある花壇はパンジーもビオラもヒョロヒョロした葉が泥まみれで雨に打たれているだけという酷い状態だったが、唯一無事成長したのが校舎正面口の内側に置かれたコンテナのシクラメンだ。ただ薄暗いので、成長の速度は遅い。本当ならもう花が咲き始めている時期だが、まだ株元に米粒のような小さな蕾がいくつか見えているだけだ。

 ごめんね、と私は心の中で部員にあやまる。

 私の父が―あのワガママ伯爵が一方的に怒ってこんな大雨を降らせているのが原因で、後輩部員をがっかりさせている。どう考えても伯爵に迷惑をかけ続けられて怒るべきなのは私の方だが、部員が肩を落とす姿を見るのは、やはり悲しい。

 だから私は少しだけ、魔法を使った。ほんの二、三個でいい。花が咲けば、きっとみんな元気が出る。笑顔がもどる。

 だから……


 吹雪で周囲がまったく見えない状態は続いていた。

その粉雪で真っ白になった足元に、雑草の枯葉が揺れている。秋には歩道沿いに細長い葉と穂をこれでもかと茂らせていたイネ科の植物エノコログサ。いわゆる〝猫じゃらし草〟だ。

 歩道のタイルのわずかな隙間からも芽を出し、どんどん成長して増殖していくという夏にはとても迷惑な雑草だが、冬の今はわずかに残った枯葉も地面に貼りつき、暴風に吹き飛ばされそうになっている。

 まだ、残っていた気がした。

 私は吹雪の中で鈴木に一方の手の袖口を握られて、なんとかその場に踏みとどまりながら、もう一方の手でコートのポケットを探った。ポケットの底にふれた指先が、わずかに湿った粉の感触を伝えてくる。

 ハナサカの灰。

 日本の最も有名な魔術師の一人〝ハナサカ〟という老人が、枯れ木にまいて満開の花を咲かせ、通りかかった殿さまを喜ばせたという、あの伝説の〝灰〟。

 母の寝室に一年中咲いている真紅のバラの株元に置いてあった壺からほんの少しもらってポケットに入れておいた〈ハナサカの灰〉の残りにふれた指先を、私はなんとかエノコログサの枯葉につけようと手を伸ばした。

「うわ……!」

 私は風にバランスを崩してよろめいた。よろめいた私に引っぱられて、鈴木も並木の枝からついに手をすべらせてしまう。吹雪に押されて、私も鈴木も後ろに吹き飛ぶ!

「きゃああああ!」

 悲鳴をあげて目をつぶった私は、手に当たったものに無我夢中でしがみついた。

 もふっ!

 ……もふ?

 手に触れる、冷たくもなく歩道のタイルの固さでもないその感触に、私は恐る恐る目を開けた。

「え……」

 目の前に、吹雪の冷たさとは似ても似つかない夏のグリーンロードが生まれていた。

 おい茂るエノコログサのグリーンロードだ。暴風になぶられているのはつやつやした緑の細い葉と、ねこじゃらしに似た長いふわふわした緑の穂。そして勢いを増したエノコログサは、吹雪にひるむことなく歩道のタイルをはね飛ばしながら、あっという間に遥か先までグリーンロードを伸ばしていく。

 シクラメンの時もこれほどの勢いはなかった。灰を少しつけたら、いきなり鉢からこぼれるほど花が咲いて翌朝部員が腰を抜かした程度だ。やはり雑草の勢いはすごい。

「田島、この草をつかみながら模試会場までたどり着け!」

 そう背後で叫ぶ鈴木の声が小さくなる。振り返ると、草をつかみ損ねたらしい鈴木が私に向かって笑顔で手を振りながら、風に飛ばされて小さくなり、雪だるまに吸い込まれていくのが見えた。私は島田、そろそろ覚えろ、と怒鳴りたかったが、もう言っても聞こえそうにない。

 また一人になってしまった。

 吹雪の冷たい音と夏草のざわめきの中で、でも、がんばろうと私は決意する。もうすぐ豪雪ゾーンを抜けるはずだ。たとえ鬼の形相になっても草をつかみながら前に進む。あんな分からず屋の超高齢魔術師なんかに絶対負けないのだ。

 そうだ。伯爵は分かっていない。四千年以上生きた彼には、時間なんてどうでもいいのだろうけど、普通の人の私にとっては、今この時も、中学生活の最後の数か月も、とても、とても大事なものだった。それを、ただ私の態度が気に入らないというだけで、土砂降りの雨や吹雪でぶち壊し、あげく大事な模擬試験まで邪魔するなんて、ひどい。

 こんな人が自分の父親だなんて絶対認めない。

 私は吹雪の中で、草をつかんだまま立ち止まった。

 吹雪で真っ白になった空を、目を見開いて見上げる。この空のどこからか、伯爵は今も私を観察しているのだろう。だから伯爵に一言文句を言ってやろうと思った。なぜなら私は負けないが……とにかく腹が立って、くやしくて、情けなくって、そしてなんだか悲しくて、何かを叫びたくてしょうがなかったからだ。

「お父さんなんてっ……」

 私は真っ白い空に向かって絶叫する。

「大っ嫌いいいいいいいぃぃぃぃぃぃぃぃー……」

 白くうず巻く雪と、ごうごうと鳴る風の音に運ばれて、私の大声はどんどん遠く運ばれていく。

 どれくらい時間がたったのか。

 気がつくと、私の耳には自分の荒い息の音しか聞こえなくなっていた。周囲は静かだった。切り裂くような風も、冷たい吹雪もやんでいる。

 そしてなんだか暖かい。私は空を見上げた。

 いつの間にか、あの毎日空一面に垂れこめていた大雨雲が小さくなって、その向こうに青空が見え始めていた。青空はどんどん広がっていく。ほぼ一か月ぶりに、太陽の光が一面に降りそそぐ。

 なぜかは分からないが、この長い長い異常気象の魔法が解けたのだ。

 私はハナサカの灰の魔法によって残ったままの、雑草のグリーンロードを振り返る。

「サリー!」

 とけ始めた雪だるまから脱出できた菜々が、満面の笑みで走ってくる。その後ろから白玉や鈴木も、冬の青草を不思議そうに見ながら追ってくるのが見えた。


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