第5話 冬虫夏草
その転校生は秋も終わる頃になってから、東西学園中等部にやって来た。
中三である。しかもこんな、進路をどうするか最後のドタバタをしている時期に、転校?
しかし職員室にある掲示板に「本日3‐A転入一名」と書いてあったと断言する生徒もいて、噂は本当のようだった。
「よほどの事情があったんだね」
と、後ろの席の菜々がささやいてきた時、ガラリと教室の戸が開いて、三年A組担任の谷先生が入ってきた。谷先生はいつも不機嫌そうで話の長い中年男子だが、やはりこの時期の転入には違和感があるのか、いつもよりさらに眉間のしわが深い。
「……入れ」
谷先生が咳払いして言い、入り口の戸に、廊下側から誰かの白い手がかかるのが見えた。白くて細い手だ。続いて長い足が、そして……
「おおおおおおおおお!」
教室中がどよめいた。女子だけではなく、男子まで。
そこに、王子様が立っていた。ただの王子様ではない。光り輝く王子様。
サラサラのブラウンの髪。東洋人らしいのは分かるが、それにしても抜けるように白い肌、深いブルーの瞳、高貴さを漂わせる細い鼻梁と、笑みをたたえた唇。なによりその、一本一本の指先にまで気を配った、優雅な動き。
ありきたりな中学校の制服を着ているのが、信じられないほどだ。
彼は微笑んだまま教室中をゆっくりと見渡し、そして一点で目を止めた。私のところで。
私はあわてて周囲を見渡した。勘違いではなかった。今度はクラス全員の目が自分に注がれている。
「サリー……知り合い?」
目を見開いて菜々が言う。まさか。私は激しく顔を横にふって否定した。こんな目立つ人を見たら、たとえ見たのが赤ちゃんの時でも覚えているに違いない。……待てよ。私が赤ちゃんの時なら、相手も赤ちゃんか。
とにかく彼は、私とは縁もゆかりもないはずだ。私はごく普通の日本の家に生まれた、魔女の娘に過ぎない。しかしその王子様は、谷先生も含むクラス全員のどよめきをよそに、まっすぐに私の目の前に来ると優雅に一礼し、片膝をついた。
「やっとお目にかかることができました、姫」
はい?
私は思いっきり首を傾げたが、彼は優しく微笑んだだけだった。
「思ったとおり、美しく、生命力に満ちあふれたお方だ。あなたを我が妃として王宮に迎え入れる日が、待ち遠しくてなりません」
何の話だ。さすがにクラスの全員がポカンとするのが分かった。もちろん一番驚いているのは私自身だ。私はこれからフツーに中学を卒業して、春からはフツーに高校に通う(予定)。少なくともどこかの王宮で妃になるなどというファンタジーな計画は持っていない。
正直な感想を言えば、何だそりゃ、である。
しかしあまりにその微笑みが優しそうで、私はいつもの鈴木や白玉に対する時のような、何言ってんのアンタたち、的な態度をとることができなかった。
「あの……わ、私の名前は島田紗莉衣です。ふ、普通の中学三年生です。ひ、人違いですよね……?」
私がしどろもどろに聞き返すと、王子様は再び微笑み、それだけはよく見かけるタイプの有名メーカーのスマホをポケットから取り出すと、画像を選択して私に見せた。
「え……」
私が写っていた。ショートの癖毛を振り乱し、両足を踏んばってサツマイモ掘りする私。授業中に居眠りしかけて、よだれをぬぐっている私。そして登校中に鬼の形相で自転車をこいでいる私……
私は知らない間に誰かにストーカーされていたらしい。
「こ、こ、こんな写真、どこから……!」
私は怒りのあまり身を乗り出して王子様に質問したが、彼は動じることもなく、微笑んだままだった。
「もちろん、姫のお父様からもらいました」
「え、サリーのお父さんって……」
と菜々が言いかけたところで、ようやく自分の役目を思い出したらしい谷先生が、私と王子様の間に割って入る。
「とにかく、ナーガ君の席はあそこだ」
先生は窓際の一番後ろにある、空いた机を指さした。変わった名前の王子様は特に逆らうこともなく、微笑んで立ち上がる。
「あ、それから」
席に行こうとする王子に谷先生が手をさし出す。
「学校に持ってきたスマホは、放課後まで職員室で預かるきまりだ」
え、と初めて王子は微笑みを引っ込め、スマホを取り上げた先生を不思議そうに見返した。
サトゥガ・ナーガ王子、というのが王子様の正式名称だった。
日本へは社会勉強のためにやって来たという。
出身国名はナーガラヤン。東アジアの高山地域にある、とても小さな国らしい。
もっともクラスで唯一その王国について知っていた鈴木によれば、確かに昔のナーガラヤンは、たどり着くのも大変な山中の貧しい小国だったが、今は全然違うという。高価な薬の原料となる薬草が国内で発見され、その薬草の量産に成功したナーガラヤンは、今では世界でも指折りのお金持ち。王家の一族が住む家はまさに大宮殿なのだそうだ。
「薬草って?」
菜々が昼食の弁当を広げながら言う。鈴木は息を吸い込んだまま、一瞬私を見た。
「冬虫夏草。特にナーガラヤンの固有種である青い冬虫夏草は珍しい薬効成分を豊富に含み、青いダイヤとも呼ばれているんだ」
どんな草なの、と菜々が首を傾げながら今度は私に聞いてくる。
「正確には草ではなくて、日本の山でもたまに見かけるキノコの一種だよ」
私は少しだけ知っていたので、説明した。
「冬には土の中で虫のさなぎなどを抱え込んで養分を吸い取り、その力で春に地上部のキノコの部分を成長させるの。昔はそれが、冬には虫なのに春になると植物になるように見えたので、冬虫夏草という名がついたんだよ」
なんだか気持ち悪い、と菜々が眉をひそめ、横で聞いていた白玉も、大好きなゆで卵を食べる手を止める。私は苦笑いした。
「そう思うのも無理はないけど、昔は不老長寿の薬とも言われて、かなり珍重されたらしいよ」
ついでに東洋の魔女がそろえるべき基本薬草の一つでもある。
でも、と私は真面目に考え込んでしまった。
「どうやって量産したのかな。あれはとても気難しい生き物なんだよ。冬に抱え込むさなぎや幼虫だって、何でもいいというわけじゃないのに」
「……実は、あの国にはちょっとダークな噂もある」
鈴木が身を乗り出し、声をひそめた。
「量産方法はもちろん企業秘密だが、取引や取材のためにナーガラヤンに行った外国人が、時々そのまま行方不明に……」
「何の話をしているの?」
いきなり背後からナーガ王子の声がしたので、私たちは弁当と箸を持ったまま硬直した。
振り返ると、ナーガ王子が優雅で優しい微笑みを浮かべ、私たちを見下ろしていた。
「ナ……ナーガくん………お、お昼はどうしたの……?」
なんとか愛想笑いでごまかして、私はたずねた。ナーガ王子は昼休憩になると、いつの間にか教室から姿を消していたのだ。
ナーガ王子はにっこり笑う。
「僕は一族の伝統料理しか食べられないから、外でコックが作ったものを食べたよ。学校の許可も得ている。あ、でもとてもおいしいから姫の口にも合うと思うよ」
姫。その言い方はやめてほしかったが、ナーガ王子がまた微笑んだので、私もついアハハと笑ってしまった。
そう言えば昼休憩に、校門横の駐車場に黒いバスのような車が止まっていたと、菜々が小声で教えてくれた。その車の中に調理設備や豪華なダイニングがあるのだろうかと、私はちょっと想像してみた。
王子は笑みを口元に残したまま、鈴木の方に視線を移した。
「僕の母国ナーガラヤンは、それは高い崖の上にあるんだ。車がなんとか通れる道もあるけれど、落下の危険がある場所は一つや二つじゃない。我が国を訪問した客人が、もし一人で散歩中に足を滑らせたとしても、崖下にはいつも深い霧が立ちこめていて、探す方法はないんだよ」
やはり聞かれていたらしい。ナーガ王子は青い瞳を見開き、鈴木に向かって身を乗り出し、じっと眺めた。
「君……詳しいね」
メガネの下で鈴木がどんな目をしているかは見えなかったが、顔は王子の方をずっと向いていた。
「うん、詳しいよ。ナーガラヤンは謎と神秘の国だからね。他の国では絶対に育たないナーガラヤンの青い冬虫夏草は、一体どういう進化をしたのか、考察している本も読んだよ。その作者は新たなナーガラヤンの本の取材中に……亡くなったけど。他にもいろいろ不思議な伝説があるので一度行ってみたいなと思って、調べたことがあるんだ」
「それは光栄だな」
ナーガ王子は微笑んだ。
「そうだ。それなら君をナーガラヤンで姫との婚礼をあげる時に招待するよ。ああ、君も、君も」
そう言いながら王子は、白玉と菜々に顔を向けた。ダメダメダメ。話がどんどんおかしな方向に進んでいる。私はなんとか止めようと声をあげた。
「あのー、王子。せっかく日本まで来てくれたのに、本当に申し訳ないけど……」
「えー、いいの、ホントにー⁉」
私の十倍以上の大声で菜々が叫んだ。白玉もうっとりした顔で王子を見上げる。
「ナーガ王子、いい人なんですね。僕は白玉。そこの鈴木君と同じく、神秘とか怖いのとか、全部大好きです。あ、招待してくれたお礼に、ゆで卵どうぞ」
白玉が小さくてふくよかな手に乗せて差し出したゆで卵を、王子は一瞬無表情にじっと見つめた。菜々が注意する。
「ちょっと、白玉。ナーガ君は伝統料理以外食べないし、だいたい王子様が、ただのゆで卵なんて口にするわけないじゃん」
それを聞いた王子はクスリと笑った。
「そうじゃないんだ。卵は嫌いじゃないよ。ただ……懐かしいなと思って……」
そう言って王子はゆで卵を受け取ったが、食べずに上着のポケットに入れた。
「じゃあ、サリーはお嫁に行くなら、高校進学はどうするの?」
その日の授業が終わり廊下に出たところで、菜々が当たり前のように聞いてきた。何もないのに転びそうになった。勝手に人の結婚を決定事項にしないでほしい。
「本当に結婚なんかしないから。全然そんな気ないし、なんでこんなことに……」
「あいつは、怪しい」
全力で否定する私の後ろで、呟きが聞こえた。私は目を細くして振り返る。
いた、二人組。しかし珍しく笑っていなかった。白玉はとまどった様子で私と鈴木を見比べ、その鈴木は眉間にしわを寄せたまま、じっと私を見ていた。
「怪しい?」
私が言うと、どこが、と菜々も続ける。鈴木はしばらく黙り込んだ。
「うまくは言えないけど……あいつも、あいつの国も分からないことが多過ぎる。あんなところに行ったら、絶対部長の身に良くないことが起きる気がする」
鈴木は真面目な声でそう言ったが、急に菜々はうれしそうに私の耳元に顔を寄せた。
「鈴木はやきもち妬いてるよね。サリーはお金持ち王子様のナーガ君と、日本男児の鈴木と、どっちが好き?」
体中の力が抜ける気がした。どちらもそういう対象じゃないから、と私は言ったが、菜々が信じた様子はなかった。
「ま、それはそれとして」
と、菜々は少しだけ真面目な顔になって言った。
「あたしもサリーが遠くに行っちゃったら嫌だから、結婚しない方がうれしいけど、それならそれで早く言わないと。ナーガ君はすっかりその気だよ。その気もないのに黙っているのは良くないと思う」
黙っているのではなく、言おうとしているのに、なかなか言わせてもらえないだけだが、早く伝えるべきなのは、私もよく分かっていた。
「うん、言う。次は必ず言うよ」
「……本当に言えるのかな」
少し冷たい声で、鈴木が言った。
「どういう意味?」
私はムッとして聞き返す。今日の鈴木はなんだか意地悪だ。
「だって、あの王子に対する時だけ、部長は態度が違うじゃないか。いつもは斧でぶった切るように何でも言うのに、いきなり結婚するなんて言われても、すぐに言い返さないで、何一緒になってヘラヘラ笑ってるんだよ。その気がないなら、すぐに言えばいいじゃないか。はっきりしない田島なんて、田島じゃない」
私は、カチンときた。腹が立つのは本当のことを言われたせいだというが、そんなことはどうでもよかった。私の苗字は「島田」だが、それもどうでもよかった。とにかく腹が立ったので、言い返した。
「だから、次はちゃんと言うと言ってるでしょ。鈴木だっておかしいよ。何の証拠もなく誰かを怪しいと決めつけるなんて、刑事の息子がすることじゃないよね!」
「……証拠があればいいんだな」
抑えた声で鈴木が言う。話が変な方向に転がったと思ったが、もう止められなかった。
「あるなら持ってきてよ」
「……分かった」
鈴木は一人でさっさと歩きだす。白玉はさらに困った様子で私と鈴木を見比べたが、すぐに鈴木の後を追った。
菜々がため息をつく。
「それにしても……どうしてサリーのお父さん、こんな話を勝手にまとめちゃったんだろう。サリーのお父さんって、確かずっと行方不明だったよね」
私はうなずいた。
「ナーガ君のことで何か連絡はあったの?」
「全然」
もう十年以上帰って来ていないし、今後も帰ってこなくてかまわない。いくら見かけが美しいからと言って、四千年以上生きている、しかも間違いなく迷惑な性格の魔術師と、誰がかかわり合いになりたいと望むだろうか。そんな物好きは……
いた。私の母だ。しかし、顔だけは本当に良かったの、と以前言っていたから、それ以外の取柄はやはりなかったに違いない。
―ごくたまーに人恋しくなるらしくて、魔女会議にも顔を出すのよ。でも顔はともかく結構ワガママで自己中を絵に描いたような性格だから、誰とつき合っても長続きはしないの。魔女界では有名な話よ。
有名な話なのにつき合ってしまったということは、つまり母は、とっても見かけに弱いタイプだということだ。そして残念ながら、私も多分その血を継いでいる。
しかし、明日は必ずナーガ王子に言おうと決めた。それが確かにナーガ王子のためだ。そうしたらきっと私にも、いつもの生活がもどってくる。普通に言いたいことを言える、誰ともケンカ別れしたりしない、いつもの生活。
けれどその日、鈴木は帰り道の途中で白玉と別れた後、家に帰り着くことはなかった。
鈴木は消えてしまったのだ。
「いつもは僕の家に少し寄っていったりするんだけど、昨日は鈴木がすごく真面目な顔で、ちょっと調べたいことがあるから帰るって……。だから、昨夜は鈴木の父ちゃんからも色々聞かれたけど……別れた後のことは分からないんだ」
翌朝登校してきた白玉は、悲しそうに私や菜々にそう言った。鈴木が行方不明になったことはもう知れ渡っていて、私や白玉の周囲にはクラス全員の人だかりが出来ていた。
「おーい、席に着け。チャイムとっくに鳴ってるぞ」
教室に入ってきた谷先生が言い、全員が席に戻って行く。同じように席に戻ろうとするナーガ王子と、目が合った。
「大変なことになったね。早く見つかるといいね」
王子はやはり微笑みを浮かべながら、私に言った。私はついつい愛想笑いを返しながらも、心の中では別のことを思い出していた。
王子が食事のために来させた黒い大きな車。あの中なら人一人くらい簡単に隠せるのではないか。誘拐できるのではないか。
それからまた、何の証拠もなくそんなふうに決めつけるのは良くないと自分で言ったことを思い出して、自己嫌悪になった。ナーガ王子が鈴木を誘拐しなければならない理由なんて、何もない。それなのに私が証拠と言ったから、鈴木はその証拠を探して……きっと行方不明になったのだ。
「おい、島田。島田!」
ホームルームが終わって廊下に出かけた谷先生が、小声で私を呼ぶ。鈴木のことに違いないと思って廊下に出ると、壁にもたれた先生が眉間にしわを寄せて私を見ていた。
「鈴木のことも心配なんだが……おまえ、確認しておきたいんだが、本当にあの王子様と結婚するなら高校進学は」
「絶対に結婚なんかしません!」
谷先生に非はないのだが、思わず目を吊り上げて言ってしまった。
そしてその声は、やはり教室の中にまで届いてしまったらしかった。落ち着かないままその日の授業が終わり、菜々と学校を出ると、最初の角を曲がったところで黒いバスのような大型車が止まり、ナーガ王子が降りてきた。
「やはり僕との結婚をためらっているんだね」
晩秋の風に美しいブラウンの髪を散らしながら、ナーガ王子が言った。ためらうというより全然する気はないのだが、王子の寂しそうな微笑みを見ると、やはり斧でぶった切るような言い方で断ることはできなかった。
「と……とにかく日本の法律では、十五歳では結婚できないんですよ」
私が言うと、ナーガ王子はうれしそうに笑った。
「それなら大丈夫。ナーガラヤンの法律では十五歳でもできるから」
違う違う。また話がずれたと私は思ったが、口ではアハハと笑ってしまった。これでは鈴木に、本当に言えるのかと疑われるのも当然だ。
ま、いいや、とナーガ王子は肩をすくめた。
「今日はね、そういうことじゃないんだ。まず、もっとナーガラヤンについて姫に知ってもらおうと思って。僕が日本で借りている館の今夜のディナーに招待したいんだけど、二人とも来てくれるよね」
え、とさすがに私は隣の菜々と顔を見合わせた。証拠はないが、やはり危険な気がする。
「こ、今夜はもう家で夕食を作ってくれているので……」
「うちも……」
二人でやんわり断ると、王子はまた微笑んだ。
「そっか、残念だな。……白玉君はすぐ車に乗ってくれたけど」
今度こそ私と菜々は目を見開いてしまった。
「し、白玉⁉」
なぜそんなに簡単に乗ってしまったのだろう。無二の親友の鈴木が、怪しいと言っていたのを忘れたのか!
王子は微笑んでうなずいた。
「ゆで卵おいしかったよ、一緒に車で鈴木君を探そう、と言ったら、やっぱりゆで卵を好きな人に悪い人はいないねって喜んで乗ってくれたよ。彼はいい人だね」
いい人というか、お人好しというか……
私と菜々はもう言葉もなかった。
「と、とにかくじゃあ、白玉と話してみてもいい?」
私が恐る恐る聞いてみると、王子はうなずき黒い車に向かって指を鳴らした。
車のスライドドアが開いて、二人の男たちが現れた。いかにも民族衣装ふうな黒地に金の縁取りのある筒形の帽子と、長いマントをまとっている。彼らは私たちに向かって一礼すると、車の中へと手を向けて促した。
私と菜々は顔を見合わせた。気はすすまなかったが、一歩だけ車の中に踏みこむ。
入ったところもまた黒かった。ふかふかの黒い絨毯に金色の柱と天井が美しい、いかにもお金持ち風の空間。ただ、その奥は……
「え……?」
私は思わず立ち止まった。車の奥にはただ、青く光る埃のようなモヤモヤとしたものに床から窓、天井までおおわれた、青い洞窟のような薄暗い空間が広がっていたのだ。
何……これ……
よく見ると、外から差し込むわずかな光に反射して、空中にも大量の青い粉のような何かが漂っているのが分かる。
「これが僕ら一族の、大事な食事をするところだよ」
いつの間にか私の真後ろに来ていたナーガ王子が、うっとりとした声で言った。
こんなところで?
それも気になったが、今は白玉のことの方が先決だと思い出す。
「白玉はどこにいるの?」
私が振り返って尋ねると、王子はクスリと笑った。
「いるじゃないか。目の前に」
私は慌てて、もう一度薄青い空間に目を凝らした。
青いモヤモヤしたものが溜まる床に、よく見ると同じ青の大きな繭のような塊があるのに気づいた。大きさは小柄でぽっちゃりした中学生一人分くらい……
「何、あの繭……」
「繭じゃないよ。菌糸だ。大切な栄養源を、菌糸が幾重にも取り巻いて抱え込もうとしているのさ」
それは冬虫夏草が、冷たい冬を越すために、虫のさなぎを株元に巻いて抱え込む、あの菌糸の状態を言っているのだろうか。そんなはずはない。こんな巨大なものを抱え込む冬虫夏草なんて聞いたことがない。いくら他にはない固有種だとしても……
やっとその楕円形の塊の端の部分に、菌糸が薄くなっているところを見つけた。何かが透けて見える。薄闇に目を凝らす。
白玉が目を見開いたまま、凍りついた表情でこちらを見ていた。顔中に菌糸を貼りつかせて。
ドンッ!
背後でいきなり響いた音に私は飛び上がった。振り向くと、菜々が目を閉じ床に倒れている。
「菜々!」
わたしは叫ぼうとしたが、なぜか声が出ず体も動かなかった。目の前で微笑むナーガ王子の顔が二重に揺れる。
沈んでいく体と意識の闇の底で最後に聞こえたのは、バンという車のドアが閉まる音だった。
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