15 浄化の炎
場違いなほど美しい野鳥の囀りが、痛いような静寂を破った。ライオスは震える瞼を押さえて顔を背けたが、アデュレイは重ねて尋ねた。
「あなたが家令の報せを受け、私兵を連れて礼拝堂に来たとき、レディ・グレースの姿はありませんでしたね? ここにいる、この男が手当てを尽くした後、水場できれいに洗い浄めて大聖堂に運んだのですから。しかし、彼女以外の遺体は残っていたはずだ。」
「旦那様、お願いです。」
たまりかねて、俺は割って入った。アデュレイが全てを白日の下に晒さねば気が済まぬというのであれば、その前にどうしても俺の目的を果たしておかなければならない。それは即ち、儀式の魔法陣を壊すことだ。
「地下礼拝堂を私に浄化させてください。その後でしたら、私は旦那様のお知りになりたいことをお教えします。お約束します。」
アデュレイは少し驚いたようにまじろいだが、すぐにライオスに顔を向けた。
「このように申し出ているのですから、何とかお許しいただけませんか。口だけの男でないことは、ただいま証明します。」
それから俺を見て、首の動きでライオスを指した。それでも俺が動かないのを見て、左手で丁寧にライオスを指し示した。
「リー・リー? さあ、彼のご不調を癒してさしあげてくれ。胃もお悪いし、身体も硬くなっている。おまけに長年の睡眠不足だ。肌も荒れていらっしゃるね。彼の気分がよくなったら、きっと我々に立ち入りの許可をくださるだろう。」
この場でアデュレイは感知の魔法を使っていないはずだが、まるで医師のようにライオスの体調不良を看破した。俺は扉を離れて、ゆっくりとライオスに近づいた。ライオスは退きこそしなかったが、僅かに上体を後ろに引いて怯えを示した。
「我が君。」
左右の兵士は、主人の意向を窺おうと、ライオスと俺とを見比べていた。排除の命が下れば、即座に取り押さえにかかるのであろう。この場において、エリザもグランも俺の弁護はしなかった。当然だ。彼らは俺の能力について解説するほど、親しく俺を見知っているわけではない。
ついにライオスの目と鼻の先までたどり着くと、俺は両手を差し出した。掌を上にして、リアクションを待ち受ける。
「どうぞ。手を重ねてください。」
俺にとって、これは茶番だ。実はこのような手順を踏むまでもなく、扉の前から一歩も動かずにこの場にいる全員を治癒することもできる。念入りに行う完全治癒の場合は対象と接触しなくてはならないが、太陽のエナジーを導引して撒き散らすだけの簡易な治癒なら接触は必須ではないからだ。
しかし、儀式によって人生を引き裂かれた彼には、今ここで儀式による祝福が必要であるような気がした。時として、手順は無駄なものだ。だが、時として、整然と決まりどおりに進められるその手順こそが必要とされることもある。
ライオスは顎を引いて疑わしげに俺を睨んだが、逃げはせず、手袋を嵌めたままの手を俺の手に載せた。着衣の有無は治癒魔法に影響を与えない。俺はライオスを驚かせないよう、可能な限り静かに彼に活力を注ぎ込んだ。
俺は操作しない。支配もしない。ただ一本の葦となる。太く、頑丈で、まっすぐな葦だ。天空のエナジーを受けても燃え尽きることのない、無心で空っぽの葦だ。エナジーを生み出すのは俺ではない。それは原初からそこに在る。注がれるそれを、俺はただ受け取り流すだけでよいのだ。
乾いた海綿が水を吸い込むように、ライオスはエナジーを受け容れた。硬いものは砕けて溶け、荒れていたものは滑らかになり、澱んでいたものは押し流された。暗がりに隠れるものが陽光の下に誘い出された。緩やかな白い坂道をゆっくり、ゆっくりと上る。坂道の上に、誰かが手を広げて待っている…暖かな白い光と共に…それは…、
「グレース…!」
急に口を丸く開けて大きく息を吸い込み、ライオスは指と指の間を広げてパッと手を離した。目を見開いて俺を見て、
「妹が…。」
と、何かを言いかけてやめた。広げたままの俺の掌を見て、もう一度重ねようとするかのように手をさまよわせたが、緩く拳を握って両手を引き戻した。
ライオスは周囲を見回して咳払いし、指で目の縁を押さえて断言した。
「彼は本物だ。」
治癒の魔法を受けるとき、天空と回路がつながる。肉体を有する人であるのに、束の間、時空を超えるのだ。もしかすると、ライオスはいま人知を超えたものからメッセージを受け取ったのかも知れなかった。
「君たちはこの扉を護るように。グランはいっしょに来てくれるか。護衛を頼む。」
事を決めると、ライオスは素早かった。私兵に命を下す声にも、何だか張りが出てきたような気がする。隠し扉に向かう彼の背に、
「私も行く。」
と、エリザが付き従った。ライオスは私兵と共に待つよう命じたが、どうあってもエリザが引き下がらないと見て根負けしたようだった。ライオスと並んで俺が先頭に立ち、空間を浄化しながら進むこととした。後ろにアデュレイが立ち、最後尾にエリザとグランが付く。
隠し扉の向こうの空間には窓がない。まだ殺人の名残も生々しく異臭が残る。ただ空気を吸うだけでも具合が悪くなりそうなので、俺は先達として神聖魔法の明かりを出現させた。明るく輝く球体が俺の前方を浮遊し、暗闇を照らすと同時に辺りを祓う。さほど力を持たない死霊や魔物程度であれば、近づいてもこないだろう。地下へと続く階段を下る行程は、闇に飲み込まれていくようで陰鬱であったが、これで幾分気も晴れるというものだ。
階段を一番下まで降りると、左右の壁に絵が描かれていた。もちろん、祝福された絵ではない。先の大戦の、それも悲劇的な部分を描いたものだ。魔物が人や動物を襲う絵で、それも通路の奥から階段の方に向けて展開していく内容なのであった。この壁画が意図するところは、つまり通路の奥の広間に一際強大な魔王が存在し、そこから魔物が溢れ出して人を襲うという構図なのだろう。
「浄焼します。」
宣言するなり、俺はライオスの許諾を待たず、壁に触れた。白く輝く炎が両側の壁面と通路の床面を一瞬にして嘗めて消滅し、それとともにこれらの悪趣味な壁画も消え失せた。ライオスも特に俺を咎めはしなかった。誰に止められても実行するつもりであったが、これはむしろ一同の希望に沿う行為と見えた。
「あなたの神聖魔法は非常に強い。」
いよいよ通路を進み始めるとき、ライオスが低い声で話しかけてきた。
「光の教団なら、神官長クラスだろう。いや、神殿長かも。あなたのような方が世に埋もれていたとは驚きだ。」
「光の教団については詳しく知りませんが、太陽神の神殿で、私は一介の神官でした。」
俺は前方に注意を払いつつ、慎重に答えた。
「代々神官の家系で、私の妹もまた神官でした。私は家族を護ろうとして、修行に励み、魔王との対決に堪える神聖魔法を編み出しましたが、それは神殿の意向に逆らうものでした。結局、私は神殿を敵に回し、家族も護れなかった。ただ滅び去るのを拱手傍観していただけだ。何一つ誇るもののない、敗残の徒です。ここでまた、レディ・グレースをお救いすることもできず、恥の上塗りをしてしまいました。せめて、後始末だけでもさせていただきたく志願した次第です。」
これを聞いて、二、三歩も進む間、ライオスは黙っていたが、
「では、私とご同類というわけだ。」
まっすぐ前方を見据えながら、そう呟いた。ほんの少し、同情の色の滲む声音だった。
通路の最奥に辿り着いた。その空間の大きさは、初見の者を圧倒する。背後からはエリザの短い呻き声が聞こえた。天井は遥か上にあった。距離がありすぎて、俺の神聖魔法の明かりでも照らし出せない。この地下礼拝堂を設計した者は、出現する魔王が巨大であることを想定していたに違いなかった。
石の床には七芒星が描かれているが、これほどおぞましい七芒星形は見たことがない。血液を混ぜた顔料で描かれ、この国のものではない文字が書き込まれていた。俺には読めるが、その文字を音読しようものなら、魂が穢れそうだ。それぞれの辺には血の跡が残っていた。
「皆さんはそこで立ち止まってください。魔法陣を踏んではいけません。それ以上、近づかないで。」
一同を背後に留めて、俺は星形の上方に位置する円形の魔法陣の際に進んだ。ライオスたちと向かい合わせに立ち、床の七芒星を指差す。
「この七芒星の角、それぞれに遺体が置かれていました。」
星形の中央部分にも血の跡があり、儀式用の短剣と古い書物が落ちていた。書物は、通常の本ではない。人の皮で作られた魔法書だ。そうと聞けば気分が悪くなるだろうから、敢えて一同に伝えはしなかったが、気味悪い本であることは言わずとも知れようというものだった。
「その本が落ちている場所にスノーデン卿夫人が立っていらっしゃいました。そして、そこに寝かされていたレディ・グレースの胸に短剣を振り下ろしたのです。」
皆が俺の指差した箇所に注目している間に、神聖魔法を展開した。まず召喚されたものが出現する円形の魔法陣に素手で触れ、それから七芒星の一角に触れる。白い炎がこの広い空間を嘗めるように広がり、床と、壁と、天井までも這い回った。
今や、一同は天井の高さを目の当たりにして実感した。それは高所にも関わらず紫水晶を埋め込んで装飾を施されていたが、俺は容赦なく焼き滅ぼした。最も抵抗が強かったのは魔法陣であった。それも痕跡を留めぬよう徹底的に拭い去った。知識を残せば、誰かが継ぐかも知れない。そのようなことは、決してさせない。
浄化の炎が消え去った後、誰にでもわかるほど空気が変わっていた。俺は正面の壁を離れて前進し、微かに残った儀式用短剣の痕跡を靴底で踏みにじった。そして靴を上げれば、本当にもう、何も残っていなかった。
「旦那、」
俺はアデュレイに目を向けた。アデュレイが返答するように首を傾げるのを見て、
「旦那様方。この空間の浄化も済みましたので、ここで白状いたします。」
ライオスたちに向けて頭を下げた。
「スノーデン卿夫人を害したのは、私です。」
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