10 邪悪の定義

 俺は、念のためにアデュレイに確認した。


「昼食後の時間、って言いましたよね? 朝食後じゃなくて?」


 アデュレイは慎重な手つきで薄焼きトーストにバターを塗り広げているところだったが、数秒だけこちらに目を向けて頷いた。


「言ったよ。間違いない。君は職務に忠実な人だ。」


 どうやら隅々まで均等な厚みでバターを塗ることに成功したらしい彼は、満足げに微笑んでバターナイフを置いた。それから、素早くウインクしてトーストを掲げてみせると、いい音を立てて一口齧り取った。


 洗濯しても取り除くことができなかった染みが残るテーブルクロスの上には、トーストの皿とバター壺のほか、てっぺんに新鮮なローズマリーを載せたハッシュブラウン、蜂蜜と生姜の甘酸っぱいドレッシングを添えた焼き蕪、そして保温用のポットカバーを着せられた陶製の紅茶ポットが並んでいる。先ほど、向かい側に腰かけて共に食事を取ってもよいと言われたが、これ幸いと朝食に取り掛かるほど呑気な気分にもなれない。


 昨夜は、眠りに落ちる直前まで悩んでいた。行くか、とどまるか。結局のところは、今も従者のお仕着せに身を包んでアデュレイに付き従っている。この結論でよかったのかどうか、わからない。何ひとつ思いどおりに進んでいないことだけは確かだ。


 暗澹たる思いで食卓を眺めていると、アデュレイが気遣わしげにこちらの表情を窺ってきた。


「朝食としてはこの程度が理想的だと思うけど、足りないかい? 別に代金を払えば、ゆで卵を付けることができる。頼もうか。」


 見当外れの提案に、俺は首を振った。


「いや、要りません。」


 周囲を見渡した。ホール内に長テーブルが十数脚置かれ、まばらに人が座って朝食を取っている。最も混む時間を外しているので、明るい日差しが入る窓から広大な敷地を眺めることができるこの席を占領するのも実にたやすかった。解せぬのは、なぜ俺たちが朝から王立病院の食堂で食事をしているのか、ということである。


「『蒼穹の猛き鷹』は、時間どおりには来ない。」


 俺の疑問を見透かしたように、アデュレイは言った。


「のこのこ午後に来てみたまえ、もう何もかも終わって鷹は飛び去った後だ。」


「なぜそのようにお思いになるので?」


 アデュレイはすぐに質問に答えず、齧りかけのトーストを皿の上でゆっくりと縦に裂きながら静かに微笑んだ。この様子をみて、俺もおずおずとトーストの山に手を伸ばした。いい匂いのするトーストに、手早くバターを塗りつけ、折り畳むようにしながら口に運ぶ。


「行き倒れの赤の他人のために、現役の傭兵が埋葬料を出す。これが普通のことだと思うかい?」


「行き倒れの赤の他人のために、酔狂な貴族が寄進することよりも稀なことだとは思います。」


「おや! 君は僅か一昼夜で、エインディア流の皮肉の言い方を学習したようだね。僕より優秀じゃないか。」


 アデュレイは愉快げに笑むと、細く裂いたトーストを口に運んだ。


「普通のことではないよ。傭兵の生活は容易ではない。仲間の家族のために金を出すならともかく、死んだ子供が憐れだからなんて贅沢な理由で金を差し出すなんて、まずありえない。つまり?」


 アデュレイは片眉を上げて俺に視線を投げて寄越した。


「ほら。つまり?」


「つまり…、彼女は傭兵ではない?」


「ありえない。」


 アデュレイは切り捨てた。


「彼女の旅装、雰囲気、連れていた男。総合的に判断して、彼らは『蒼穹の猛き鷹』のエリザとグランに間違いない。さて。」


 アデュレイは上品にナプキンで手を拭き、厳かに焼き蕪の解体に取り掛かった。


「他には?」


「赤の他人のご遺体ではなかった。」


「ありえるね。その場合、彼女は死に顔を一目見ただけでそれを悟ったことになる。」


「彼女、似ていますよね。」


 俺は食事の手を停め、急いで言い募った。昨夜から考えていたことだ。


「あの亡くなった少女と、傭兵の彼女は、顔も骨格も似ていると思いませんか。もしかして、自分の家族であることを隠しているのでは? 彼女は危険人物かも知れません。本当に、このままご遺体を引き渡していいのですか。」


 アデュレイは一瞬、蕪から視線を上げて、また皿の上に視線を落とした。


「君は、彼女が何か企んでいるというのだね? なぜ?」


 俺は瞬きし、急いで答えた。


「俺にそれを訊くんですか。旦那だって、彼女が嘘をついているかも知れないと思っておいでなんでしょ。嘘をついてまで手に入れたい遺体って、何なんです。」


「では、どんな風にご遺体を利用すると?」


「それは…、わかりません。」


 俺は唇を引き結び、少しの間、目を閉じた。すぐに目を開き、首を振り振り、陶製の紅茶ポットに手を伸ばした。立ち上がって、まずアデュレイのために、それから自分のために紅茶を注ぐ。


「ここまで関わりあったのですから、せめて埋葬が終わるまで旦那が責任をお持ちになるべきです。」


「おかしなことを言う。」


 アデュレイはナイフの先で蕪のかけらをひとつ、皿の端に寄せた。


「君こそ、まるであのジェーン・ドウの遺族であるかのように埋葬に熱中している。」


「そんな…!」


 俺はショックを受けてあんぐり口を開けた。


「そんなわけないでしょう? あの場に俺を連れて行ったのは旦那ですぜ? 俺がわざわざ病院の霊安室に押しかけていったわけじゃない。」


「そうだね。だって、君は、」


 アデュレイの表情から笑みが消えた。ナイフとフォークを構えたまま、真顔で俺の瞳を凝視する。


「光の教団が身元不明の死体でも引き取ってくれると信じていたのだからね。まさか皮剥ぎ人なんて商売があって、身元不明の死体は彼らがいいようにするなんて夢にも思わなかったのだろう?」


 俺は絶句した。アデュレイは何でもないことのように、首を傾げて着席を促した。


「ともかく掛けたまえ。まだ食事は済んでいない。」


 俺の着席を待たず、アデュレイは再びナイフを動かし、蕪のかけらをひとつ、皿の端に寄せた。


「『蒼穹の猛き鷹』のエリザとジェーン・ドウは血縁者である可能性がある。」


 俺はアデュレイから目を離さないようにしながら、慎重に着席した。また、ナイフが動き、蕪のかけらが皿の端に寄せられた。


「ガーディアス家の長女、レディ・エリザベータ。幼少期から静養中。姿を見た者がほとんどいない。」


 そこでひょいと顔を上げて微笑むと、蕪を口に運び始めた。


「最大の謎は、君の記憶喪失だね。」


「えっ?」


「君が自分で気づいているかどうかは定かでないが、君の振る舞いは、記憶を失った人のそれではないよ。」


「はい?」


 俺は苦笑しながら首を振った。


「どういうことです? 旦那は記憶喪失の専門家か何かですか。」


「そのような権威ではないが、僕の魔力感知をかわしたからといって、君は油断しすぎだ。魔法などに頼らなくても、わかることはあるのだよ。僕は構わない。君は、僕を利用してくれていい。」


 謎めいた言い方をして、アデュレイは丁寧にナイフとフォークを皿に並べた。


「一番大事なことがわかっているから、十分だ。記憶を取り戻したと、君が自分でそう思ったときに、僕に教えてくれたらそれでいい。」


「一番大事なことって何です?」


 顎を引きながら、用心深く尋ねると、アデュレイは屈託なく笑んだ。


「君は邪悪ではないってことさ。」


 信じられない発言をした。彼は自分が何をしゃべっているのか、本当に理解しているのだろうか。誰かが邪悪であるとか、邪悪でないとか、そのようなことを論じる前に、邪悪の本質について切実に考えを巡らせたことがあるだろうか。


 目を見開いて、この賢いのか愚かなのかわからない人物を凝視していると、


「そのハッシュブラウンでも片づけたらどうだい。」


 俺の肩越しに少し遠くを見ながら、アデュレイは呟いた。


「そろそろ食事を切り上げなくてはならないようだよ。」


 振り返らなくても、俺にもわかった。俺たちを目指して、誰かが近づいてくる。恐らく報せが来るのだろう。ここに到着した時点で、受付に心付けを渡して頼んでおいたのだ。『蒼穹の猛き鷹』が到着したらすぐに知らせてほしいと。


「旦那のお見立てどおりでしたね?」


 そう言うと、アデュレイは、満足げな笑みを浮かべた。

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