9 ガーディアス家の火災

 初めに三角形の均衡を崩したのはアデュレイだった。背を反らして辺から外れると、卓上を見渡して茶碗を手に取った。


「お尋ねになっても無駄かと思います。記憶喪失らしいですからね。」


「記憶喪失?」


 漸く、俺に向かって引き絞られていた弓の弦が緩んだ。アデュレイは頷き、一口だけ紅茶を飲んで、話を続けた。


「今日の夜明け前にね、この男は舞台衣装みたいな目立つローブを着て城下をうろうろしていたのですよ。当然、城兵に見つかって尋問を受ける羽目についていましたから、たまたまそこを通りかかった私が、助け船を出すことにしたのです。何しろ服だけは着替えさせた方がいいだろうと思い、家に連れて帰って、ちょっと話を聴いてみたら、これがとんでもなく面白い話でね! 本人が言うには記憶喪失だそうで、確かに都市生活に関する知識は欠落しているようですが、昔のことについてはやたら詳しい。ここでいう昔というのは、『光の教団』の暦以前の話ですからね! いやはや、この人をこの中途半端な知識のままで放り出したら、あっという間に教区警察だか武装協会だかに捕まって袋叩きですよ。かわいそうでしょう? そのようなことになったら?」


 ベルナルドは怪訝な顔をしていた。その表情からみて、少しも同情した様子はなく、


「すみませんが、お尋ねしても?」


 聞き惚れるほどの上品な抑揚でそう尋ねた。アデュレイは鷹揚に頷き、茶碗を受け皿に戻して聴く姿勢を取った。


「ええ、もちろん。」


「それで、なぜ、この方を私のもとに連れてきたのです?」


 長い睫毛の向こうから、ちらちらとこちらに視線を投げかける。


「聞く限り、あまり私でお役に立てることはないように思いますが?」


「とんでもない! お聞きしたいことが山ほどありますよ。当初は彼を交えた歴史談義をしたくて面会を申し込んだのですが、その後、さらに事件が起きました。ご存じですか。今日はちょっと大変な日ですよ。」


 どのような事件が起きたか当ててみよと言わんばかりに、アデュレイはやや前のめりに上体を傾けて、両手の指を膝の間で組み合わせた。しかし、そのような煽りにいちいち付き合うつもりはないらしく、むしろベルナルドは片手でテーブルの端を押すようにして僅かに距離を取った。


「もちろん、存じています。その手の事件は、私が真っ先に知ることになるでしょうね。公示人は街角に立つ前に、その原稿の最終校閲をここで受けるのですから。大体、わかりました。」


 ベルナルドは鼻白んだ様子で首を振った。


「あなたはその情報を私から得ようとしているのですね、アデュレイ卿?」


「私たちがただの野次馬だとお思いになったのなら、それは大いなる誤解だと申し上げておきます。私たちには、事件の詳細を知りたいと思うに足る、十分な理由があるのですよ。」


 なぜか俺まで知りたがり屋の一味のような言われようをされていると思ったが、再び注意を引くのも憚られたので、アデュレイの滑らかな弁舌を遮るような真似はしなかった。アデュレイは、城兵から聞いた話、検死の状況、病院で出会った傭兵二人組について順序良く語った。ベルナルドは面白くもなさそうな様子で聴いている割には、要所要所で質問を挟み、何事か考えを巡らしている風情であった。


 話に一区切りが付くと、ベルナルドは小さく唸った。


「あなたがスノーデン卿の事件に関心を持つのは、検死をしたご遺体の死と何か関連があるとお思いになるからなのですね。」


「関連があるかどうかはわかりません。その見込みを得るためにも、もう少し情報が必要です。」


 ベルナルドは左手の指先で顎を撫でるようにしながら考え込んでいたが、やがて人差し指で軽く顎を叩くのを最後に、手遊びをやめた。


「公示人から正式に公示されるまで、必ず内密にお願いします。」


「無論。ご迷惑はおかけしません。」


「昨夜の火事は、スノーデン卿の私有地内にあるオランジェリーで発生しました。その温室でシトラスやオレンジを栽培していたので、燃料に引火したらしいとの検証結果が出ています。この火事でご夫妻は亡くなりました。逃げ惑った様子がないので、焼死する前に煙で意識は失われていただろうと推測されています。」


 淡々と語った後、ベルナルドはその印象的な瞳でじっとアデュレイを見つめた。


「ご夫妻のほか、従者六名の焼死体も発見されました。このオランジェリーは、ただの温室ではなく、宿泊もできる別邸だったのでしょうね。それで、ある程度の人員が配置されていたのでしょう。全員、亡くなったのでもう話は聴けませんが。」


「火事の第一報は?」


 アデュレイは素早く尋ねた。


「すぐ早馬を出したらしく、夜明け前には王城に報せが届きました。スノーデン卿が所有している国際倶楽部は、当分の間、閉めるという決定も速やかになされました。」


「たしか、ご長男はラザラム卿でいらっしゃいましたね。ラザラム卿が、その決定をしたのですね。」


「そういうところでしょうね。」


「どう思う?」


 いきなりアデュレイから話を振られて、俺は目を見開いた。


「えっ? はい? 私ですか?」


「今の話を聞いて、何か思い出すことはないか? もしかして、君はこの火事の犠牲者かも知れないぞ。事故のショックで記憶を失った人の話を聞いたことがある。」


「そんな…、いえ、違うと思います。」


 俺はアデュレイとベルナルドの顔を交互に見比べた。この場で目立ちたくなかったのに、実に不本意だ。


「特に思い出すことも…、ありません。」


「それは残念。」


 アデュレイは両手を上げて、あっさりと切り上げた。それから、ベルナルドの方に向き直った。


「家系図が見たいですね。」


「スノーデン卿の…、ガーディアス家の?」


「もちろん。」


 アデュレイは肩をすくめて、何も企んでいない人のように微笑んだ。ベルナルドは一瞬、眉間を縮めたが、短く溜息をついて立ち上がった。窓際の席に腰を下ろすと、左手でペンを取り上げ、素早い筆さばきで何か書き始めた。


「三代前からでいいですね?」


「十分です。」


 何をしているのだろう。まさか、家系図をこの場で作成しているのか?


 内心、驚いてアデュレイに目顔で問うと、背もたれに背中を預けてゆったり寛いだままの姿勢で首肯した。


「不思議に思っているのかい? もちろん、いま、家系図を思い出しながら書いてくださっているんだよ。彼は天才なのだ。一度目にした文章や図画は決して忘れない。」


「お世辞をおっしゃっても、何も出しませんよ。」


 手を停めることなく、ベルナルドは素早く横槍を入れた。


「お世辞を? 誰かお世辞を言う人がいたかい? 気づかなかったな。君が言ったのか?」


 アデュレイが身を起こして、とても驚いた素振りで訊いてきたので、少し面倒臭く思いつつも付き合ってやることにした。


「いいえ、旦那様。ベルナルド卿は謙虚な方なのだと思います。」


「うん? そうだね、彼はとても謙虚だ。この完璧な記憶力だけでも大したものだが、彼の才能はこれにはとどまらない。」


「本当に、勘弁してください。そのようなやり方で私を急かしているのだとしたら、まるで逆効果ですよ?」


 今度も手を停めることなく、ベルナルドはそのように割って入ったが、突然、書くのをやめて顔を上げた。まっすぐ俺の眼を見つめて、


「あまりにひけらかすと、ここでの地位が台無しになるのです。どうか、余所で私の話をしないようにしてください。私も…、」


 視線の痕をゆっくりと引きながら、ベルナルドは書き物に戻った。


「あなたのことは他言しませんから。」


 それから、ぎこちない沈黙の時が訪れた。紙の上をペンが走る音だけが聞こえていたが、やがてベルナルドはペンを置いて立ち上がった。


「書けました。」


 その家系図を取り上げて近づいてきたので、俺は茶菓を脇に寄せてテーブルの上にスペースを作った。ベルナルドがそこに紙を広げながら告げる。


「亡くなったガーディアス家の当主、スノーデン伯爵は享年五十四歳。夫人は一回り年下で、四十二歳。名門キャンベル家のご出身です。」


「彼は伯爵なのですよね。直接お話をしたことはないが、城内に私有地を持ち、領地も豊かで、大変な資産家だと話に聞いています。しかし、夫婦そろってサロンでダンスをするより、聖堂で説教を聴く方を選ぶ、物堅い人柄なのだとか。」


「物堅い。物は言いようですね。」


 ベルナルドは睫毛を伏せて冷笑した。


「私には、教団に取り入りたい人のようにしか見えませんでしたがね。」


「あなたがそうおっしゃるのなら、そうなのでしょうね。」


 アデュレイは真顔で応じると、家系図に見入った。


「子供が…、三人? 令嬢がいらっしゃったのか。知らなかった。」


「三人のお子様のうち、二番目の男子は、幼いころに事故で亡くなっています。ですので、現在、男子は一人。スノーデン卿が亡くなったとなると、全てをこのラザラム子爵が継ぐこととなるでしょう。妹御のレディ・エリザベータは幼少期から病弱で、温暖な地で静養中と聞いたことがあります。もう十八歳の令嬢ですのに、ご結婚の話はおろか、社交界にデビューする話さえないのは、やはり病弱だからだろうと専らの見解です。」


「レディ・エリザベータ。」


 アデュレイはゆっくりと呟いた。


「レディ・エリザベータ。十八歳。静養中。なるほど。」


 それから、突然、顔を上げた。ベルナルドに笑みを向けて、


「亡くなった従者のリストなども、ご覧になりましたか?」


 首を傾けて尋ねた。その先を察したか、ベルナルドは諦めたような表情で溜息をつき、やれやれと言わんばかりに首を振った。

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