8 忌むべき名
確かにスピードの出る馬車をと注文した。が、これほど揺れると誰が思っただろう。
危険な熱病に罹患して痙攣でも起こしたかのようにがくがく揺すぶられ続け、目的地に着く頃にはすっかり嫌気が差していた。車外に立っていてこれなのだから、車内のアデュレイは調理前のヒレ肉のように叩きのめされているのではないかと思ったが、存外、平気な様子で顔を見せた。
「次は、四つの車輪が全て同じサイズの馬車を頼んでくれたまえ。」
そして、開口一番に嫌味を言うことも忘れなかった。
「ここから、どうします?」
とりあえず嫌味の方は無視して、俺は眼前の目的地を見渡した。王立図書館だ。広大な敷地が三つのゾーンに分けられ、それぞれに傾斜屋根を持った煉瓦色の建物が整然と並んでいる。馬車は前庭の奥まで入り込むことができたので、俺たちはちょうど中央ゾーンのひときわ大きな建物の前で降車したのであった。
「面会の予約をしているのだ。行こう。あまりお待たせしてはいけない。」
馬車が走り去って行くと、アデュレイは機嫌よさげにステッキを小さく振り動かしながら歩き始めた。俺は、アデュレイの身の回り品を入れた鞄を持って、急ぎ付き従う。
「王立図書館の最高権威は宮中伯のベルナルド卿だよ。何しろ、天才なんだ。誰もが匙を投げた蔵書の整理をやり遂げたばかりか、保管規則を整備して、書籍を整然と分類したのだからね。この蔵書目録に、どれほどの価値があることか。領地を持たないのに宮中での地位を得た所以だよ。今では、秘府を任されている。」
「秘府?」
「王族しか閲覧できない図書が納められた保管庫だ。とにかく、この都市の図書の校訂について、彼に全権があると言っていいだろう。」
「今から、その方に会うんですね。」
「そう、そう。今朝、面会の申し入れをしたからね。」
「今朝? そんな暇ありましたっけ?」
「君の目の前で書簡を出してみせたじゃないか。〈疾風の白鷹〉を差し向けたろう?」
俺はあんぐりと口を開けた。彼のサロンから飛び立った魔法の白鷹は、伝書鳩代わりに差し向けられたのだ。
「魔法が使えることを吹聴するのはご法度じゃなかったんですか!」
「うん? 彼は大丈夫だよ。僕は彼の弱みを握っているからね。」
アデュレイは無邪気に恐ろしい発言をしてのけると、視界に入った警備兵を意識してか、急に人差し指を口元に当てて目配せを寄越してきた。俺は信じられないものを見る目つきでその所作に応えたが、その後は石を飲んだつもりで口を引き結び、黙々と歩を進めた。館内はどの部屋も天井が高く、静寂のあまり靴音すら反響する。ともかく静かにしておくに越したことはないだろう。
簡素だがしっかりした斜文織の、暗灰色のローブを着た司書が案内に付いた。案内がいなければ、広大な館内で間違いなく迷ったはずだ。書棚に塞がれていない壁にも窓が少なく薄暗い上に、絵画や彫刻で格調高く内装を整えてはいるが、案内板などはない。到底、開放的に多くの訪問者を迎え入れる雰囲気ではない。恐らく、ここは図書館というよりも研究所なのだ。
案内役の女性は上品なマホガニー材の扉の前まで俺たちを導き、先触れのため入室した。すぐに出てきて、
「恐れ入りますが、先にミスター・ベルティエのみお入りください。」
そう言い置いて立ち去って行った。俺たちは顔を見合わせた。
「俺はずっとここで構いませんから。」
アデュレイの帽子とステッキを受け取りながら、俺はしおらしく告げておいた。実際、従者が室外で主人の用事が終わるのを待つなど、至極当然のことだろう。
「そうはいかない。僕は、君をベルナルド卿に引き合わせたかったのだから。」
「はい?」
俺は思いきり眉根を寄せた。それには構わず、
「いいね、うろうろせずにここで待っているんだよ。すぐに呼ぶから。」
小さい子供か愛馬に言い聞かせるようなことを言って俺を指差すと、アデュレイは急いで入室した。言われずとも、歩き回って行方を晦ますつもりはない。少なくとも、今はまだ。
あいにく、俺の耳は地獄耳だ。会談の席から外されたところで、この程度の距離なら、扉に耳を押し付けるまでもなく盗聴することができる。それゆえ、室外に置き去りにされても退屈することはない。
「アデュレイ卿。」
美声が聞こえた。深みのあるバリトンは、たった一言で聴く者の注意を惹く。これがベルナルド卿とやらの声だろうか。
「お久しぶりです、ベルナルド卿。突然の話で、申し訳ありません。」
「こちらの方こそ、ご無沙汰しています。今日は私に会わせたい方がいらっしゃるとのことですが、ひとつ、確認しておきたいのです。」
「ええ、もちろん。」
「厄介事ではありませんよね?」
声に若干の緊張が含まれた。
「ご理解いただきたいのですが、私は今の地位に満足しています。これ以上、何も望んでいません。本に囲まれて生きていきたいだけなのです。厄介事はごめんです。」
一体、今までこの二人はどういう付き合いをしてきたのだろう? はたで聴いていて、未だ見ぬ人物に同情を禁じえなかった。
「もちろん、ご懸念には及びませんよ。」
アデュレイは苦笑交じりに応じた。
「そうですか。」
「ええ、そうですとも。むしろ、彼の話を聴けば、あなたは歴史の研究が捗るといってお喜びになると思いますよ?」
やにわに、扉が開いた。
「入っておいで?」
アデュレイが、扉を開いて俺を差し招いたのだった。扉を開くアデュレイの向こうに、呆然と立ち尽くす人物がいる。声から推察する以上の、特筆すべき美貌だった。この部屋に到るまでに見かけたどの彫刻よりも芸術的だ。白皙の面、束ねることなく肩まで伸ばした金髪、姿勢のよい長身、どれもいっそ作り物めいていた。身に着ける白いローブは光沢を抑えた金糸で花を描き出すダマスク織で、軽く上に羽織った淡灰色のコートも同色の糸で縁取られている。飾りと言えば腰を緩く締める刺繡の入った帯くらいのものだが、この美貌に他の何かを付け足す必要があるとも思えなかった。
「私の従者ということになっているんですよ。さあ、入っておいで、リリウ。」
鋭く息を吸い込む音が聞こえた。白い面が蒼褪めて、具合が悪そうに見えた。
「それが、その方の名前ですか。」
「そうですよ。あまり聞かない名前ですが、リ…、」
「黙ってください!」
強引に制止した後、彼は深呼吸して額を手の甲で拭った。
「大変失礼しました、アデュレイ卿。私は非常に取り乱しているようです。」
「ええ、そのようですね…?」
「ともかく中にお入りください。」
彼は着席を促した。応接室の壁紙はそれそのものが絵画であって、メグメールに去る精霊たちを描いているようだった。壁際には古いがよく手入れされたキャビネットと書棚が控え、天井のシャンデリアには魔法の明かりが輝いていた。中央に置かれたテーブルには歪みのない硝子が嵌め込まれており、うっかり指紋や飲み物の滴で汚すことがためらわれるほど完璧に拭き上げられていた。広く取られた窓の前には、オーク材の書き机もある。アデュレイを待つ間に書類仕事をしていたのだろう、その卓上には真鍮のペンが転がり、数枚の紙を隠すように重い本が載せられていた。暖炉にはまだ火は入っていない。そこまで寒くはない。
「先程は失礼しました。ベルナルド・ローラン・ティオス・ダンドレイです。」
着席をためらっている俺に、ベルナルドは弱々しく笑顔を向けた。
「お初にお目にかかります、ベルナルド卿。私は、…」
「さて、お荷物をお預かりしますね。今、人を呼びます。」
遮られた。ベルナルドが机上のベルを取り上げて振ると、先ほどの司書が現れた。荷物を預け、着席し、ほどなく茶菓が運ばれてくるまで、アデュレイとベルナルドは天気の話などしていた。芝居の台本を読んでいるようで、どことなくそらぞらしい。俺は仕方なく、目の前の美形を眺めて感心する作業に没頭した。
秀でた額は知性的だが、その目は黄金色で夜行性の猛獣を想起させる印象があることに気が付いた。してみると、優雅な仕草は隙のない獣のしなやかさなのかも知れなかった。どの角度から見ても、どのような表情を浮かべても、見事に均衡のとれた目鼻立ちは非の打ち所がないものであったが、他方、一切の気取りがなく、本人にとってみれば、己が容姿に向けられる称賛など目の前の焼き菓子の焼き加減ほどにも興味がないものなのではないかと思えた。
完全に他者の気配が去ると、不意にベルナルドは何もない空間を左手の指でなぞった。恐らく、文字を書いたのではないかと見えた。それも、今は日常で使われることのなくなった文字だ。意味するところは、空。
「この部屋を護りました。ひとまず、何を話しても安全です。」
そう呟いて、彼は目を閉じて溜息をついた。それから、やおら上体を俺の方に向けると、鋭い視線で切り込んできた。
「それでは、事情をお聞かせ願えますか。なぜ、魔王の名前を名乗っているのか。」
「ええ?」
質したのは俺ではない、アデュレイだ。彼はベルナルドと俺の顔を交互に見て、瞬きした。
「魔王の名前ですって。じゃあ、リ、」
「おっしゃらなくて結構。」
何度目だろう、よほど耳にしたくないのか、またしてもベルナルドはその名を遮った。
「それは人魔大戦の後期に出現した、強大な魔王の名前です。私は禁書も目にしたことがあるのです。間違いありません。」
片や追及、片や好奇、二人分の視線に追い詰められ、俺は困惑して眉根を寄せた。何と答えたら満足だというのだろう。到底、見当もつかなかった。
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