6 摂理の魔眼

 アデュレイは右手を上げ、何もない空間に七芒星形と文字を描いた後、胸の前で見えない球体を抱えるかのように掌を向き合わせた。


「今から、この少女に対して行使された魔法の有無、種類、効果を突き止める。」


 普段の声よりも、幾分、低音で聞こえた。俺は何も答えず、沈黙を守った。ロバートも扉の近くまで退き、固唾を呑んでいる。


「魔導士は契約を交わした存在からエナジーを引き入れて奇蹟を起こすのだろう。神官もまた、信仰の力が導線になるのだろう。魔法使いは、そのようなアクセスはしない。図形や色が象徴するもの、あるいは数式、あるいは術式、あるいは音韻、あるいは時空間の座標、あらゆる手掛かりを寄せ集めて目指す領域のバックドアを探す。」


 俺は驚いて、目を丸くした。アデュレイは他でもない、この俺に対して魔法理論の解説をしているのだ。彼は頻りに俺を魔法使い扱いしていたが、そうだとすると、会ったばかりの素性の知れない同業者に自分の手の内を曝そうとしていることになる。


 お人好しなのか、自信家なのか、真意を測りかねるが、少なくとも馬鹿ではない。魔導士の魔法こそが正統という主張がさも常識かのようにまかり通る世の中で、独自の理論を構築して魔力を手にする人物が馬鹿であるはずがない。


「ここからは、瞬き厳禁だよ。この憐れな少女に魔法の痕跡があるかどうか。<摂理の魔眼>で視る。」


 彼の掌の間に白い光が凝縮し、複数の三角形が重ね合わされたように見えて、やがて純白の七芒星が浮かび上がった。七芒星から柔らかく照射された光は少女の遺体を包み、その瞬間、遺体は強烈な光に包まれた。まるで白く燃え上がったかのようだった。


 背後で、ロバートが短く息を飲む気配を感じた。それでも、神妙に声を抑えている。


「何ということだ……。」


 強烈な光から目を逸らすことなく、アデュレイは見つめ続けた。


「明らかに魔法を行使されている。これは、治癒魔法だ。恐るべき量の魔力が注ぎ込まれた。」


「治癒魔法ですって。」


 耐えられなくなったか、ロバートはアデュレイの左横まで進み、アデュレイの横顔と白い光を放つ少女を交互に見比べた。


「しかし、彼女は死んでいます!」


「そのとおり。すでに死んでいる。」


 アデュレイは腕を下ろした。その途端、光は消え、ただ魔法具の青白い光ばかりが素っ気なく寝台の上を照らしていた。


「彼女は死んだ後に治癒されたのだ。そのために、死因となった創傷はもとより、ありとあらゆる損傷が身体から消えた。その治癒魔法の効果が甚だしく、魔力が遺体に残留しているがゆえ、遺体の腐敗進行も遅いのだ。ちょうど心臓の辺り、特に注がれた魔力の量が膨大だった。そこが致命傷で間違いないだろう。恐らく、刺し殺されたのだ。ただの一突きで。」


「一体、誰が、何のために……?」


 強張った声でロバートが問うと、アデュレイは軽く眉根を寄せた。


「誰かはわからない――治癒魔法が使える者であるとしか言えない。何のために、それもまた説明するのが難しい問題だ。普通なら、死因がわからなくなることにより、誰が何の利益を得るのかを考える。あるいは、刺殺に使われた武器をこそ秘し隠したかったのか。それとも、死亡推定時刻を狂わせることこそ目的だったのか。」


 自分で言っておいて、アデュレイは首を横に振った。


「しかし、この場合は考慮に値しない。第一、被害者が行旅死亡人として処理されようとしているのだから、容疑者など存在しない。アリバイは問題にならない。ああ、」


 ロバートの困惑したような表情を見て、付け加えた。


「アリバイとは、現場不在証明のことです。業界ではこう言います。」


「業界?」


 ごく控えめな声で、ロバートは呟いた。俺も思った――一体、何の業界だよ!


 しかしながら、続くアデュレイの台詞は、その疑問に対する答えにはなっていなかった。


「殺害が行われたとき、自分はそこにいなかったということを証人や証拠で立証するのです。それが、アリバイです。容疑者がいれば、まずアリバイを確認して回ることが業界の常識です。」


「業界?」


「ここでそのアリバイが問題にならないとすると、普通は、刺殺であることを隠すのが目的かと考えます。」


 よほど自分の思考に囚われているのか、アデュレイは再度の追及を無視した。少女の遺体を見つめながら紡ぎだされる言葉はほとんど独白であり、返答を期待しているようにも見えなかった。


「仮に大聖堂の前で発見されたのが明らかな他殺死体であったなら、はなから殺人事件として取り扱われて、遺体の保管期間も行旅死亡人のそれより長く設定されたでしょう。その分、足が付く可能性が高まりますから、それを避けたという見方もできます。しかし、恐らくこれも違うでしょう。」


 アデュレイは首を傾げた。


「彼女の髪には乾いた血痕がこびりついていました。刺殺された際、もちろん流血したのです。治癒を施した何者かは、それをきれいに洗い濯ぎ、ご遺体を浄めてから…、大聖堂の前に横たえたのです。清潔なシーツにくるみ、両手を組み合わせて、美しい姿で。着目すべきは、まさにこの点です。」


 なるほど、他殺体ではなく、行き倒れの死体に見せかけるだけなら、そこまでするのはむしろ不自然だ。だから、他殺であることをごまかすためにそうしたわけではないはずだと、彼は言いたいのだろう。


 そのとき、控えめなノックの音が彼の黙考を遮った。すぐに俺は右の壁際まで寄って、扉の前を広く空けた。ロバートが室内から応答すると、細めに扉が開き、脛の辺りまで覆う医療用のコートを着た女性が顔を覗かせた。恐らく看護師であろう。胸の前に書類を抱えている。


「失礼いたします。」


 まずアデュレイと俺に礼を執り、それからロバートに目を向ける。


「ドクター・ジョーンズ、ご遺体の確認をしたいという方がいらっしゃいました。お通ししてもよろしいですか。」


 弾かれたように、アデュレイとロバートは顔を見合わせた。まだ何とも返答しないうちに、


「失礼する。」


 看護師を半ば押しのけるようにして、灰色のローブを着た長身の人物が室内に入ってきた。フードを被っているので顔がよく見えないが、声の印象から女性と思われた。ひどく低い、掠れた声ではあったが、男声の音域ではない。ローブの裾は土埃に汚れ、足には革を何枚も重ねて強化した深靴を履いていた。彼女の入室とともに、乾いた汗と湿った革の臭いが僅かに忍び込んだ。


 部屋に入って二歩のところで、彼女は立ち止まった。遺体が横たわる寝台の方に顔を向け、暫し沈黙する。看護師は少しばかり驚いたようだったが、気を取り直してロバートに近づき、抱えた書類を差し出した。呆れたことに、あたかも自分も病院関係者であるかのような顔をして、アデュレイも脇からその書類を覗き込んだ。


「どうぞ、近くでご確認ください。」


 ロバートは書類を持っていない方の手で寝台の方を指し示し、看護師と共に俺の向かい側の壁際に退いて場所を空けた。一呼吸遅れて、アデュレイも二、三歩ばかり後退する。


 灰色のローブを着た女性は無言で寝台に近づき、遺体の顔を見下ろした。それから、手足に目を遣り、再び顔に視線を戻した。


 俺は声を出さないよう、顔の動きでアデュレイの気を引いた。アデュレイがこちらに気づいたので、女性の方に視線を投げて、それから再びアデュレイを見た。


――この登場の仕方は、いささか不審ではないですか。


 そう伝えたかったのだが、どうも意思の疎通に若干の誤解が生じたようだ。アデュレイは片方の手で自分の胸をひとつ叩き、任せておけと言わんばかりに片目を瞑ってみせると、


「いかがですか、お知り合いの方ですか。」


 大胆にもロバートを差し置いて、そのように声を掛けた。女性は振り向いた。


「あなたは?」


 低いが、深みのある声だ。横から口出しすることもできず、俺は気を揉みながら事態を見守った。


「私は、アデュレイ・ロラン・リシャール・ベルティエと申します。エルフェスのモンタレイユ侯爵の息子です。」


 名乗りを聞いて、彼女は顔を上げたが、すぐにまた面を伏せてフードの影を落とした。


「医師でもない方が、なぜここに?」


「私の従者が、知り合いかも知れないと言って遺体の確認をしたがったものですから。しかし、幸か不幸か、知り合いではなかったようです。」


 息をするように他人を巻き込んだ嘘をついたことに驚いて、俺は目を剥いた。何か言おうと口を開きかけたが、奥歯を噛み締めて必死で耐えた。彼女は俺の方にちらりと一瞥をくれた後、小さく一度だけ頷いた。


「私の知り合いでもなかったようだ。」


「人違いでしたか。どなたかの行方をお探しで?」


「あなたには関係のないことだ。身分のある方に申し訳ないが、先を急ぐ。」


 彼女はフードを取り払った。化粧気のない素顔が露になったが、俺の位置からはよく見えない。彼女は厳かに一礼した。その物堅さは、令嬢というより騎士のようだった。


「この少女を引き取る人が現れないなら、私が引き取ろう。」


 姿勢を正して、彼女はロバートに告げた。


「まだ子供ではないか。あまりに憐れだ。ここで関わり合ったのも何かの縁、私が埋葬の料金を持つ。」


 遺体を振り返ることはせず、彼女は元通りにフードを被ると、用は済んだと言わんばかりに大股で扉の方に向かった。

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