4 疵のない遺体

 アデュレイの選んだチャコールグレーの上着は、同系色の糸を幾重にも交差させて杉の葉のような文様を浮き立たせており、身動きする度に独特の光沢を見せて着る者の優雅さを際立たせた。


 その下に着る黒の胴衣とブリーチズはすぐ決まったが、タイを結ぶのに思いの外時間がかかり、


「もう馬車は帰しちまいましょうか。」


 多少の嫌みも込めて三回目にこう尋ねたとき、漸くアデュレイは鏡と睨み合うのをやめて俺の方に向き直った。どうやったのか、四枚の大きな花びらと二枚の小さな花びらを組み合わせたかのように見えるタイの結び目に手をやり、軽く引っ張ってみせる。


「どうだい、これから検死に向かう意気込みを複雑なタイの結び方で表してみたのだが?」


「非常に不謹慎だと思います、旦那。」


 俺は一蹴してアデュレイの身の回りの物を詰め込んだ鞄を持ち、諦め顔で玄関に向かった。喜んで同行したいわけではないが、この部屋に置いて行かれるのと天秤にかければ、外に出て情報を集める方がまだましに思えた。


 階下に降りると、先ほど訪ねてきた少年が案内してくれた。馬車は、タウンハウスの敷地の背後に設けられたミューズ(馬車を通すための路地)に待機していた。


 アデュレイは馬車に同乗するよう勧めてきたが、俺は固辞して馬車の後ろに立った。アデュレイが表向きは飽くまで従者として俺を扱うというなら、そういう体で貫かなくてはなるまい。十分な睡眠時間が取れた状態だとは言い難いが、別にこたえてはいない。何なら、馬車の横を随走してもいいくらいだ。


 馬車の後ろに立っていると、昼の町並みがよく見えた。タウンハウスの界隈においては、街路に面した石造り、あるいは煉瓦造りのファサードが連続して一つの壁面を成しているようで、堅固さや緻密さを醸し出す一方、空間が切り取られたかのような閉塞感もあった。ところが、馬車が城市の中央部分を脱すると、三階建て以上の建物は姿を消し、低い木造建築が目に付くようになる。これはつまり、住人の階級によって住む建物の高さや材質まで定められていることを示していた。


 馬車は、巨大なドーム型の屋根の左右に尖塔を従えた大聖堂の前を通り過ぎ、同じ通りの端にある、広大な敷地を持つ建物に近づいて行った。上部が半円形になった黒い鉄の門は威圧的で、御者に軽く手を振って門扉を開く門衛の顔はさらに威圧的であった。石灰を混ぜた煉瓦の塀は灰色に薄汚れて、寒々しい。四角い敷地を建物が取り囲むような造りは、どうやらお決まりの構成のようだが、富裕層が住む界隈とは異なり、敷地はあまり手入れされていなかった。下草は好き勝手に伸び、あるいは立ち枯れ、水の出ない噴水は泥の混じった水溜まりに秋涼の空を静かに映し出している。


 馬車が停まると、俺はすぐさま飛び降りてアデュレイのためにステップを広げてから扉を開けた。太い石の柱や、幅の広い階段とスロープを持つ建物の正面を眺めて、もしかして、これは万神廟として建てられたものではないかと思い、アデュレイに尋ねてみた。御者がいるので物言いにはよくよく注意する。


「ここに癒しの技を持つドクターがいらっしゃるのですか、旦那様。」


「そう、ここは王立病院だ。お前もついておいで。ドクターに紹介しよう。」


 アデュレイも幾分素っ気なく返し、後ろを振り返ることなく正面階段を上っていった。後から俺が追いつくと、歩調を緩め、首を伸ばして小声で囁いた。


「本当の癒しの技、つまり治癒魔法は魔導士の領分だ。途中で見えた、あの大聖堂に寄進をすれば千切れた腕さえも元通り。しかし、治療に大金を投じることができる層は限られている。だから、この病院のドクターは魔法に拠らない医療を試みているんだ。」


 俺は眉を顰めた。


「治癒魔法を使える者が、治癒しない? 意味がわかりません、旦那。魔導士といっても、結局、光の神の神官のようなもんでしょう? そんなら、信徒をことごとく救うべきでは?」


「君は善良だな!」


 アデュレイは嬉しそうに微笑んだ。善良だから言っているのではないと、否定したかったが、口を引き結んで我慢した。


「もちろん、魔導士のなかにも君のように思う人もいるだろう。しかし、教団の決まりにないことをするというのは、なかなか勇気の要ることだよ。」


「旦那、この建物はもともと万神廟だったんじゃないですか。」


「何だい、それは。」


「あらゆる種類の神々を一堂に祭った聖堂です。大きな都市には大概あるもんです。太陽神エリオースや医神ホラースは信者が多いんで、万神廟には必ず祭られているんです。」


「ほう!」


 アデュレイは、はしゃいだような声を上げた。


「その話、もっと詳しく聞きたいね。時間旅行者から学ぶことは多い。」


「そんな、時間旅行者だなんて決めつけられても、…」


 言いかけたが、アデュレイが後ろ手で押すように制したので口を閉じた。


 正面玄関の外にまで、年輩の男が迎えに出てきていた。身に着けている上着と長ズボンは、粗めのシルクに茶色い山羊の毛を交ぜ織りした物で、アデュレイのクローゼットを見た後だからそう感じるのかも知れないが、少々重く野暮ったく見える。しかし、太い眉毛の奥に微笑む瞳は実に優しげで好感が持てた。頬から顎に蓄えられた髭にもまるで威圧を感じなかった。


「アデュレイ卿! わざわざお越しいただき、ありがとうございます。」


「いつでもお呼びくださいと申し上げたのは私ですよ。お気兼ねなく、どうぞ。」


 アデュレイは俺の方を振り向きつつ、自分の帽子やステッキを押し付けてきた。一瞬遅れて、俺は、気の利いた従者なら自ら取りに行くところなのだろうと思いついた。今後も暫くは従者として過ごすつもりなら、こういったことを一つ一つ覚えていくよりほかない。


「そうだ、紹介しましょう。新しく雇った従者です。リリウ、ご挨拶して。」


「初めまして、ドクター・ジョーンズ。お会いできて光栄です。」


 打ち合わせもなく挨拶を命じられて焦ったが、アデュレイが俺の名を告げたので、反応を窺いつつゆっくりと上体を傾けて礼を執った。


「ロバート・アンドリュー・ジョーンズです。どうぞ、気安くロバートと呼んでください。」


「そんな、滅相もない。」


「緊張しなくても大丈夫。医者だとて、無闇にあなたの喉を覗き込んだり苦い薬を口に流し込んだりしませんよ。」


 まるで患者をリラックスさせようとしているかのように、ロバートは場を和ませる冗談を言った。それから、物問いたげにアデュレイに目を向け、


「あなたがお連れになっているということは、彼は……?」


 と、そこで言葉を切って、二度、三度、慌ただしく瞬きした。


「ロバート先生、ご心配には及びません。彼については、全く問題ありません。」


 アデュレイは莞爾として笑み、次いでとんでもない発言をした。


「彼は、私が魔法使いだということを知っています。何も隠す必要はありません。何なら、彼も魔法を使えますよ。何だか、とても恥ずかしがり屋らしくて、まだ見せてもらえずにいるのですが。」


「おお、そうなのですか!」


 あまりに驚いたので、手に持っているアデュレイの帽子をうっかり床に取り落とし、さらにうっかり踏みつぶしてしまうところだった。ついでに、うっかりステッキもへし折る勢いだったが、ロバートが驚嘆の隠せない視線を俺に向けて、


「奥ゆかしい方なんですね。」


 などと頷いているので、全ての「うっかり」を諦めて苦笑いするしかなかった。この善良の塊に見える医師を脅かすには忍びない。


「ロバート先生は、それぞれの医師が独自に行っていた診断方法を、初めて明確な体系にまとめて論文を発表なさった賢者でいらっしゃる。そのロバート先生にして、手に余る領域があってね。」


 アデュレイは俺の方を振り向いて、ひょいと肩をすくめた。


「それが、魔法の領域だ。魔導士に鑑定を頼むと、いささか面倒臭い。それなりの報酬も考えねばならないしね。その点、私はロバート先生の偉業をお手伝いするという、その喜びだけで馳せ参じることができるのだよ。」


「本当に、いつも感謝いたしております。」


 ロバートは頭を下げて礼を述べたが、俺は胡乱者を見る目つきでしげしげとアデュレイの横顔を見た。


 この男は、面白そうなことで暇がつぶせるなら何でもいいのではないのだろうか。


 喉までそう出かかっていたが、俺が指摘するまでもなく、アデュレイは自らあっさりと言ってのけた。


「私が好きでしていることです。こちらが感謝しなくてはならないくらいですよ。何しろ、わからないことを解き明かすのは大いなる快感ですからね。」


 ひたすら恐縮しているロバートに、アデュレイは水を向けた。


「ところで、ご遺体はどちらに?」


「霊安室に安置しています。応接室にご案内して、ご説明だけしましょうか。」


「さて。ご遺体の状態は、私が直視できないほどなのですか。」


「いいえ、極めてよい状態です――よすぎます。」


 困惑したように、ロバートは首を振った。


「今、息を吹き返していたとしても、私は驚かないでしょう。こう言っては何ですが、彼女には死ぬ理由がないように見えます。」


「霊安室に行きましょう。」


 アデュレイは一歩進んで、ロバートの肩に手を置いた。


「死ぬ理由があったのかどうか。ご遺体に直接尋ねてみなければ。」


 そのとき、足元を風が吹き抜けた。夕暮れの忍び寄る気配を感じ、秋の日の短さに、俺は人知れずたじろいだ。

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