第5話 タートルネックの女(1)
静香のマンションは、野田市の利根川とは逆側、江戸川の川沿いに位置していた。
間には国道16号が通っていたり交通量が多いが、利根川と江戸川をバイパスする利根運河沿いにサイクリングロードが通っており、静香はクロスバイクで駐在所にやってくる。
だが、今日は姫川たちのほうが静香のマンションにミニパトで来ていた。
「それじゃ、猫たちをお願いね。いたずらしたら怒っていいから」
姫川が窓越しに静香に軽く両手を合わせた。
「大丈夫よ、ペット禁止の物件でもないし。お仕事がんばってね」
チャコの前足を握ってバイバイをさせる静香に見送られ、姫川の運転するミニパトは本署のほうに走り去った。
ミニパトが見えなくなるのを確認し、静香は
「それじゃ、部屋に行こうか」
と、ミケとチャコに話しかけた。
姫川は、野田警察の本署の要請で応援に駆り出されることになっていた。駐在所を留守にせざるを得ないが、もともと何か月も閉鎖していた場所でもあり、戸締りをして札を出しておけばよいとの判断が下った。駐在所の扱いの軽さに姫川は立腹するだろうとミケは思っていたが、姫川は素直に応諾したように見えた。
だが、電話を切った後の姫川は、珍しく引き締まった表情だった。その顔つきから、姫川が受けたのは単なる応援ではないのかも、とミケは想像した。
静香は、自宅のある二階までバスケットを抱えて階段で登った。
マンションと言っても三階建てで、エントランスはない。兄である将暉の立場としては、セキュリティのためにエントランスくらいは備えたマンションを選んでほしかったのが本音だ。だが、そもそもこの街にタワーマンションのような物件はなく、アパートでないだけマシだと思わねばならなかった。何より、物件探しをしたのは、あのガサツな姫川だ。エントランスなんぞ検問くらいにしか思っていないに違いなかった。
ミケたちが部屋に入ると、そこから見える風景は、江戸川を見下ろすなかなかの眺望だった。何台もの自転車が、土手上のサイクリングロードを行き来しているのが見える。
「自転車が気になる?」
静香は二匹を抱きかかえた、そのままバルコニーに出て、一緒に江戸川を眺めた。
「そろそろ寒いのに、みんな走ってて偉いよねえ。でも、自転車って楽しいんだよ。息を切らしながら、何十キロも走ってると、なーんにも考えなくて済むんだぁ…」
これほどリラックスした静香の姿を、ミケはこのところ見た記憶がなかった。
サイクリングは、今の静香にとっては、精神的な意味でもリハビリ効果が高いのかもしれない。
「ヒメちゃんみたいに太りたくないしねえ…」
「…」
ミケは口をつぐんだ。
「さ、やっぱり少し寒いし、中に入ろうか」
静香はチャコを開放し、部屋に戻ってバルコニーの扉を閉めた。
コーヒー、コーヒー、と口ずさみながら静香がダイニングキッチンに向かうのを見計らって、チャコはミケのもとに駆け寄ってきた。
「お兄ちゃん、ちょっと来て」
ミケが返事する間もなく、チャコはワークチェアを踏み台にして、さっとデスクの上に飛び乗った。勢いでデスクの上の筆記用具やらなにやらが零れ落ちたようだが、ミケもその後を追った。
踏み散らかしたら怒られそうなものが机の上にはたくさんあったが、チャコはそれらを気にもせず「あっち。あそこの家。アイちゃんだよね、あれ」と顔を差し向けた。
ミケは促されるまま、マンションの筋向いの一戸建ての二階を見た。こちらからはその家のベランダは見えないが、東向きの小さな窓のカーテンの裏に何かが見える。少し動いたのを見て、それが黒猫の顔だとわかった。
「確かに、アイに似てるな…どうしてあんなところにいる?」
「呼んでみようか。おーい、アイさーん」
ミケが止める間もなく、チャコは大声で鳴き声を上げた。
「わわっ、どしたの!?」コーヒーを入れていた静香が慌てて戻ってくる。
散乱するデスクを見て、チャコを床に降ろす静香。
その向こうで、かすかに猫の鳴き声が聞こえた。
「誰かいるのかい!?誰か、助けておくれ!どうか、どうか…ここから」
ミケは叫び声の続きを聞き取ろうと耳を傾けたが、ギャッ、という叫び声とともに唐突に途切れた。
「あら?いま猫の声がしなかった?」
ミケは、不審に思った静香が再び窓を開けてくれることを期待したが、静香は、
発情期かしら、とつぶやいて、カーテンを閉めてしまった。
こういうとき、言葉の通じる姫川がここにいてくれれば。ミケは舌打ちした。
その後もミケとチャコは、静香のベッドでおとなしくしつつ、部屋の外に耳を傾けていたが、とうとう鳴き声の続きが聞こえることはなかった。
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