第4話 駐在員は事件現場で猫と暮らす(4)

 ミケが二階から降りてくると、姫川はタブレットでチャコと動画を見ていた。

「何を見てるんだ」

「猫動画よ。猫飼ったことないからね、いろいろ勉強しないと。食べちゃいけないものとか」

 ミケは自身のことを顧みたが、確かに食べていいものと悪いものの区別が怪しいところがある。

「言っておくけど、酒はもう勘弁だからな」

「わかってるわよ。小皿にちょっとしかあげてないのに、すぐ千鳥足になるんだもの。悪いとは思ったけど、笑っちゃったわ」

 そうだ。数日前、姫川は自分の飲んでいた日本酒を、小皿に注いでミケに渡した。日本酒には糖分も含まれているし、チャコも迷わず飲んでいたので、自分もそれに従った。四本足で、あそこまでまっすぐ歩けなくなるものかと、我ながらびっくりしたものだ。

「わかってると思うけど、毒物の許容量は、大まかに言って体重に比例する。人間との体重差を考えてほしい」

「私も言うけど、あんた中身は人間なんだから、その辺自分でも考えてほしいわ」

「…」

 ミケは言い返せなかった。


 姫川が猫動画のリンクを辿っていくと、捨て猫の動画に行きついた。

「保健所とか行政も頑張っているけれど、捨て猫は減らないのよねえ。この動画の人も、捨て猫を見つけては引き取り手を探しているようなのだけど」

 動画のタイトルには「紗栄子のお願い!捨て猫を引き取って!」とある。

 姫川が再生すると、動画にはやせ細った子猫を抱いたタートルネックのセーター姿の女性が映っていた。エフェクトを多用して、子猫のキラキラしたかわいらしさを強調している。引き取り手が現れてくれるように、見栄え良く加工しているのだろう。

「かわいそうにねえ。この動画の人みたいに、一匹でも救ってくれるひとがいると、野良猫の処分も減るのだけれど。…ミヤケあんた、ミケの記憶もあるんでしょ?捨てられたときのこと、覚えてる?」

 ミケは少し考えたが、ほとんど思い出せなかった。

 隣でチャコが目を覚ましたので、聞いてみた。

「なあ、チャコ。捨てられた時のこと、覚えてるか?」

 チャコは寝ぼけ眼で答えた。

「うん。河川敷の茂みの中に、段ボールとタオルだけで置いてきぼりだったよね。あたし達のほかに三匹いたけど、みんな死んじゃった」

「…ああ、そうだったな」

 そう言われると、思い出すことが出来る。ミケの記憶は、いつもこんな風に何かをきっかけに不意に浮かんだり、夢に見たりするのだ。


 捨てた人間のことは思い出せないが、俺たちが捨てられた時、確かに五匹いた。

 上空からカラスに攫われたのが二匹。箱から出ていって、そのまま川に落ちて流されて消えたのが一匹。

 どうしようもなくお腹が空いて、だけど茂みが深くて見つけてもらえなかったところに、芽吹大橋の上から俺たちを見つけて、箱ごと持ち帰った人間がいた。その人間がくれた、冷たい牛乳の味を覚えている。


「でもこの猫たち、おかしいね」

 動画を見ていたチャコが不思議そうに言った。

「…確かに」

 実は、ミケも見ながらずっと違和感を感じていた。

「どしたの?」

「ああ、ヒメ。これに映ってる猫なんだが…」



「ヒメちゃん、いますかー?」

 駐在所の呼び出しブザーとともに、呼び声が聞こえた。

「あ、静香ちゃんだ。今いきまーす」

 姫川は勢いよくコタツから飛び出した。ミケとチャコも後を追う。


「あ、いたいた。猫たちの様子見に来たよー」

 三宅将暉の妹・静香が、駐在所の扉の前に立っていた。

 ミケとチャコが駆け寄ると、静香は嬉しそうに二匹の喉を撫でた。

「やー、元気そうだねー」

「いま、お茶入れるから。大学の帰り?」

 静香は駐在所に足を踏み入れず、扉の前に腰かけた。

「うん、今日は大学でね。おおたかの森にまたおいしいケーキ屋さん出来たから、って学部のみんなと買いに行ったの。せっかくだからお裾分けしようと思って」

「あら、先に言ってよ。緑茶やめてダージリンにするわよぉぉ」

 あはは、と笑って、静香はケーキを手渡すと、姫川は室内のパイプ椅子から座布団を二枚外して、扉の前の三和土に敷いた。

 静香はあの事件のあと、ようやく大学に顔を出せるまでに回復した。そして実家の前まで自転車でやってくることもできるようになった。だが、室内にはいまだに入ることが出来ない。

 ミケは座布団を敷いて扉の前に座った静香の膝に乗ったが、その膝は小刻みに震えている。この震えが収まる日はいつかやってくるのだろうか。ミケは、精いっぱい静香の手の甲を舐めて慰めた。猫にできることなんて、さほど多くはない。


 ケーキと紅茶をお盆に乗せて、姫川が戻ってきた。二人の間にトレイを置いて、姫川も腰かけた。

「ヒメちゃん、ほんとにドテラがサマになってきたよね」

「何とでも言いなさい、時代は在宅ワークよ」

「こらこら、駐在員さんでしょ。ちゃんと巡回してるんだよね?」

「ちゃんとやってるわよ。毎回、フジさんのところで時間食うけど」

 静香は「あちゃー」と言いながら頭を抱える仕草をした。静香も、あのおばさんには痛い目にあっている。


 頭を抱えたまま、静香は姫川に尋ねた。

「…兄さんのことだけど、やっぱりまだ見つからないのかな」

 弱気が漏れた。姫川は静かに首を振った。

「まったく、どこをほっつき歩いてるのかしらね。妹がこんなに頑張ってるって言うのに」

 兄の三宅将暉は失踪し、まだ発見されていない。ミケの体に将暉が入ったとき、三宅将暉の体にはミケが入ってしまったのだが、直後に着の身着のままいなくなったらしい。人間の体に猫が入っていることを考えると、すぐに目立って保護されていそうなものだ。

「私はいいの。授業もここのところ、最後まで出られるようになったし。ヒメちゃんのくれた自転車のおかげで、体力もだいぶ戻ってきてる。だけど、兄さんはきっと、まだ辛いんだろうって思うと…」

 みるみる、静香の表情が曇っていく。

 静香は、両親を殺されて兄の心が壊れてしまったのだと思っているのだ。本人が目の前にいるとも言えず、ミケはただ、静香の顔を見上げることしかできなかった。


 おもむろに姫川がミケを抱え上げ、静香の眼前に差し出した。

「静香ちゃん。ここだけの話だけどね、これはミケじゃなくて、。事情があって、ミケと体を交換してるの」

「…ヒメちゃん?」

 静香は困惑気に姫川を見た。

「で、ミヤケの体にはミケが入ってて、中身が猫なもんだから、そのへん好き勝手うろうろしてるの。だから、これがあなたのお兄ちゃん」

 そうか、信じてもらえなくても、近くにいると思わせることで、安心感を与えることはできる。ミケは、姫川の心配りに感謝した。

 が、姫川はミケをそのままさらに持ち上げて、ミケの下半身を静かに見せつけ、

「安心して、ちゃんとオスよ」

 とのたまった。

 ミケは身をよじって姫川の手から逃れたが、静香は

「あはは、やだ、もう」

 と爆笑していた。

 兄として、この笑顔が見られたことを果たして喜んでいいのかどうか。ミケは苦虫を嚙みつぶしたような顔をした。

 ひとしきり笑った後、静香は姫川を意味ありげにみつめた。

 「…じゃあ、ヒメちゃんはいま、お兄ちゃんと同棲してるのね」

 「…ん?」

 「だって、一緒に暮らしたり、一緒のお布団で寝たりしてるんでしょ?」

 その発想はなかった、という顔の姫川。

 すっかり猫の姿に慣れ切っていた自分に気づかされた将暉ミケは、慌てて姫川の手を離れ、そのままスタスタと急ぎ足で駐在所の奥に引っ込んでいった。

「おぉいっ!なんだその反応はっ!!」

 大げさにわめき散らす姫川の声と、それを見ながら爆笑する静香の声が聞こえる。

「ミヤケぇッ!」



 ◇◇◇


 黒猫のアイは、橋の下で寒さをしのいでいた。

 コンクリートの堤はもう十分冷たいが、それでも日が当たればそれなりに暖かくなる。北風がしのげて、かつ日の当たる場所を見つけては移動しているが、日が暮れれば、河川敷の藪の中で枯草にでも潜るしかなかった。

 正午過ぎの日光が、自転車道のアスファルトを温め始めたのを確認して、アイは土手の天端に登った。枯草が多く、しのぎやすそうな場所はないだろうか。もしくは、堤の外の民家に、過ごしやすいところはないだろうか。それとも、先日の集会場所だった、車の処分場はどうだろうか。


『黒猫だって、人間にはモテるだろう』


 先日、ミケに言われた言葉がなかなか頭から離れない。

 嘘だと身をもって知っているが、中には物好きもいたりしないだろうか。

 自分をこの生活から連れ去ってくれる、優しくて、餌と寝床を与えてくれる人間が、いつか現れたりしないものだろうか。

 それが絶望的だということも、アイはよく知っていた。

 アイの知る限り、この橋を徒歩で渡る人間は少ない。自動車にしろ、自転車にしろ、みんな猛スピードで過ぎ去っていく。他には、捨て猫を飽きるほど見てきている、近所の人間しかいない。ごくまれに引き取ることもあるが、すべては面倒を見切れないということもよくわかっていて、捨て猫と距離をとって生きている。それもまた適切な距離感だということはわかっているが、つらく感じる日もある。


 そんな時、ふと、堤の下に誰かが車を停める姿が見えた。

 中から出てきたのは、人間の女だ。

 タートルネックといったか、暖かそうな毛糸の服を着ている。

 女は迂回しながらも、明らかにアイの位置を意識して、土手を登ってきた。

 猫に慣れた人間は、猫と正面から向き合わない。目線をそらしながら少しづつ近づく。この女も、きっとそうなのだろう、とアイは思った。

 殊勝な心掛けだ。

 今日も肌寒いことだし、少しくらいなら膝の上に乗ってあげてもいい。

 彼女が運命の飼い主だなんて期待は、していないけれど。

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