1-6

「第二王子殿下、今日も素敵だわ……!」

「婚約者であるラズベリル公爵令嬢のアダリーシア様と登校なさっている姿を先程お見かけしたの! ああ、また殿下の事をお目にかかれるなんて……!」

「お二人とも麗しい姿をなさっているし、本当にお似合いよね」


 声に耳を傾ける限りでは、どうやら話題の中心にいるのは先程のダイニオウジデンカらしい。有名人の姿を見に集まってくるのは別に悪い事ではないと思うのだが、ちょうどリーゼルの進行を防いでしまう位置にいるのは困ったものだ。さすがに、「どいてもらってもいいかな?」とは言えない。楽しく盛り上がった雰囲気を壊してしまうのは申し訳ない気持ちになる。どうしたものか。少しの間首を傾けて考えていた彼女は、ある名案を思いついた。

 道の端に寄ってから、彼女は膝を曲げたり伸ばしたりして準備運動を開始する。一通りそれを終えると、前方をじっと見つめた。もう少し下がった方が良さそうだ。リーゼルは人だかりに背を向けると、距離を取る。次に前へ向き直ったのと同時に、彼女は走り始めていた。小さかった歩幅は、前へ進むにつれて大きくなっていく。

 一歩、二歩、三歩。

 たん、たん、たん、と革靴が鳴る。リーゼルの体が斜めに傾く。あと一、二歩踏み出せばぶつかりそうなほど前を占領する集団との距離が近付いた次の瞬間、彼女は一つ息を吸って走る勢いをそのままに地面を蹴った。

 細い片腕が、空へと伸ばされる。靴底は、淡く黄色に光る。

 緩やかな放物線を描くように、小さな体は高く跳び上がった。

 背を反らす。視界一面が青で埋め尽くされる。今日はよく晴れているようだ。

 誰かの悲鳴が聞こえてきた。今度こそ正真正銘の悲鳴だった。

 両膝を曲げる。ゆっくりと、体が下へ落ちていく感覚。

 青一色だった景色に、だんだんと生徒が現れるようになっていく。誰とも衝突する事なく跳び越えられたらしい。あとは安全な場所に着地するだけだ。彼女は満足げに笑う。


 不意に。


 離れた場所に立つ、一人の生徒と目が合った。

 視線がかち合った、たったそれだけの事だ。だと言うのに、そんな小さな出来事だったにもかかわらず、彼の周りで悲鳴を上げていた生徒達の姿がリーゼルの目の前から消えた。彼以外、映らなくなった。まるで時が止まったかのようだ。彼女の頭から、全ての事が抜け落ちる。真っ白になる。

 世界に、二人だけ取り残されたような感覚がした。

 金色の髪が風に揺れる。綺麗な、緑がかった青色の瞳に光が灯り、大きく見開かれる。彼の薄い唇が、音を紡いだ。

「リー、ゼル」

 掠れた低い声だった。

 何かを言おうとする前に、彼女は気付く。集中力を切らしたら、魔法の効力も切れる。つまり。

 リーゼルの靴からほのかに放出されていた光の粒子が消える。浮遊していた彼女の体が一気に地面へ吸い込まれる。魔法をかけ直す間もなく、リーゼルは自身の背中に激しい痛みを感じた。視界がじわりと滲む。体中が、特に骨の辺りが悲鳴を上げているような気がした。どさ、という音が響いたのも同じタイミングだった。目の前がぐらぐらと揺れる。石畳の硬い感触が肌越しに伝わってくる。

 両手両足を広げた状態で仰向けに倒れ……いや、落下した彼女を人々が騒めきと共に凝視していた。いたたー、と呟いた彼女は、手のひらで背中をさすりながら上半身を起こす。

「リーゼルッ!」

 人混みの中から怒号が聞こえてくる。途端にざわざわと何かを囁き合ったり話し合う声が止んだ。生徒達が急に左右に別れて、人の通れるスペースを作り出す。

 そこから現れたのは、先程目が合った青年だった。癖のある短髪はところどころが跳ねていて(跳ねていると言うよりツンツンしていると言った方が正しいのかもしれなかった)、身長もリーゼルより高い。上質そうな灰色の布地のスラックスに覆われた長い足を動かしながら、青年が彼女の方へ向かって駆け寄ってくる。顔を青ざめさせていた彼は、リーゼルの前に両膝を折り曲げて屈み込む。目に涙の膜がうっすらと張られているのに、リーゼルだけが気が付いた。きっと、自分も彼と同じような顔をしているのだろう。しかしその顔は次第に赤く染まっていき、元々吊り上がっていた目元と眉が更に角度を広めていく。もしかしてこれは夢なのだろうか。そんなリーゼルの考えは背中の痛みによって否定された。

 他の生徒達から視線を注がれる中、青年が話し出す。

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