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リーゼロッテ・ローズクオーツという文字列が記された紙は、孤児院前に置き去りにされた赤子の手の中にあった。その赤子が成長して今のリーゼルとなったわけだが。


 リーゼロッテ。


 前の世界と同じ名。曰く、神の元で生み出された時からその名前は決められていたのだとか。曰く、神から祝福を受けた唯一の名前だとか。だからか、彼女は自分以外にリーゼロッテという名前を持った人物と出会った事はない。……世界は想像以上に広いので、もしかしたらここにはリーゼロッテちゃん(くんの可能性も否めない)が何人もいるのかもしれないが。そんな名前があまり好きではなかった彼女は、生まれ変わる前も、そして今でも「リーゼル」と名乗っている。

 この世界では、リーゼロッテという名前がどのように扱われているのかは不明だ。しかし、誰かを救うのに必要になったりしない限りは、リーゼルという名前を捨てるつもりはなかった。

 彼女の記憶の中で、相棒が口を開いたあの日の事が鮮明に思い出される。リーゼルと同じ人間の発する音を紡ぐ、掠れた低い声。りい、ぜる。リィゼル。途切れ途切れながらも彼女の名前が呼ばれた時。あんまりにも嬉しかったから、思わずハグしちゃったっけ。恥ずかしそうにそっぽを向いた彼の事を、今でも覚えている。

 でも。

 もう呼んでくれる彼は、リーゼルの相棒は、いない。

 彼の名前も二度と呼べないのだろう。そう思うと、なんだか胸の辺りがずきりと痛んだ。

 痛みを払拭するように、彼女は意識を別の事へ向ける。会場にはあの後無事に辿り着き、入学式も先程終了したばかりだ。長い髭を生やした偉そうな老人が髭と同じくらい長く何かを喋っていた。貴族として高貴であり民衆を導くための優秀さを身につけてうんぬんかんぬん。真面目に耳を傾けてはいたが、あまり理解はできなかった。

 式が執り行われていた大広間には、まだ生徒が何人も残っている。授業は明日から開始されるため、今日は午前中で生徒同士が自由に交流を深められる期間となっているらしい。既に新入生が集まって会話に花を咲かせているようだ。

 耳をそっと傾けてみると、ご令嬢達の間では理解不能な単語が飛び交っていた。オチャカイ、ドレス、ダイニオウジデンカエトセトラエトセトラ……新しい呪文だろうか。それとも身分が上の人にしかわからない秘密の暗号か。意味を考えていても仕方ないので、彼女は会場から早々に立ち去る事を選択したのである。

 幼い頃から世話になっていた人物も見当たらなかった以上、ここにいる理由はない。学生寮にある自分の部屋へ行った方がいいだろう。靴音を響かせながら、リーゼルは歩いた。


 大広間を抜け、長く幅も広い階段を降りる。白い道を歩いていると、中庭らしい場所に辿り着いた。綺麗に刈り込まれた芝生が幾何学的な模様を描いている。花や果物の残骸が落ちてもいなければ、人が踏み荒らした形跡もない。こんな風に人の手が加えられた庭を見ると、ここは比較的平和な世界なのだ、と改めて思い知らされる。

 リーゼルが元いた世界では、大抵庭は自然のまま放置されていた。いくら綺麗にしても強盗やら何やらが侵入してめちゃくちゃにしていくと誰もが思っていたせいだ。しかし、この世界に彼女が産まれてからというものの、個人の家に押し入って金品を奪う人間や魔物の話を聞いたり現場に出くわして拘束した回数はかなり減った。具体的な数値を出すならば十六年に百回くらいか。前は一日に百回強盗事件が起きたらとてつもなく少ない方だったのだが。背後を警戒する事なく進めるのも、リーゼルにとっては新鮮な事だった。


 上着の内側についたポケットから、茶色の封筒を取り出す。中身の紙に書かれた文章に目を落とすと、彼女は小さく呟いた。

「五〇五号室かあ」

 学生寮はどこにあるのだろうか。同封されていた地図を見ようとしたその時、人の騒めくような声が彼女の耳へ届く。

 リーゼルは立ち止まって前を見た。いつの間にかものすごい人だかりができている。幅の広い道だというのに、全てが人で埋まってしまっていると言えるくらいだ。少女の甲高い悲鳴のようなものが聞こえてくる。一瞬何かトラブルが起きたのかと思ったが、そうではなさそうだった。

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