1-4

城のすぐ近くの街、と言うだけあって、そこはかなり賑わっていた。大きな家がたくさん建ち並んでいる。石畳の道は通るたびにこつこつと軽やかな音を立てた。大通りからは、香ばしい匂いがする。ここまで来て、彼女は初めて足を止めた。今、試練の時。道中で出くわしたゴブリンやらモンスターやらよりも強いものがそこに鎮座していた。

 焼きたてのパンである。

 大通りの両脇に並んだ二軒のパン屋から、すごく、とても、いい匂いが空気に乗って襲撃してきた。バターの匂い。ぐぎゅるるる。リーゼルの腹からモンスターもびっくりの唸り声が響いた。思わず食欲をくすぐる香りの漂う方へ向かいそうになるが、その思いを払うかのように首を振る。ここを通り抜けなければ、学園に辿り着けない。この場で誘惑に負けたら、まず間違いなく遅刻するだろう。パンを食べながら走るのは論外だ。

 パンに限らず、食べ物は焦って口に詰め込むべきじゃない。

 ゆっくり口に詰め込むべきなんだよね。

 そんな持論を展開させながら、彼女は苦しげな表情を浮かべて思考回路を働かせる。では、どうするべきか。一つの答えを出したリーゼルは大きく息を吸ってから呼吸を止める。嗅覚を遮断してしまえ、という考えであった。腹の中で食欲に取りつかれたまま暴れ回るモンスターを必死に無視しながら、彼女は大通りを全力疾走する。口の中に貯めていた息を吐き出し、呼吸を再開したリーゼルは荒く肩を上下させながらも顎を上へ向けた。

 灰色の石壁の向こう側に、大きな建物が見える。城といい勝負だ。この壁は何十回も叩かなければ壊れなさそうだが、あの建物はそれよりももっと強い耐久性を備えていそうだった。でっかいドラゴンに襲われても大丈夫そう、と内心で呟いた彼女の脇をいくつものバシャが通り過ぎていった。生徒が乗っているのだろうか。この様子なら遅刻はしていないのだろう。安堵したように息を吐くと、リーゼルはのんびり歩き出した。

 入り口と思わしきところへ繋がる道は、なだらかな上り坂になっている。ウマによって動く色とりどりのバシャの後を追いかけるようにして進んでいくと、すぐに建物が近付いてきた。鉄製の細い柵でできた門の前には、二人の男が立っていた。年はパウルと同じ、四十代ぐらいだろうか。門番みたいだなあ、と彼女は思う。実際に門番である。バシャが多い中でそのまま歩いてくる者は珍しいらしく(と言うか恐らくリーゼル以外の生徒は全員バシャを使用していると思われる)、二人はじろじろとリーゼルを眺めていた。

 上着のポケットの中から事前に渡されていた入学証明のバッジを取り出す。小さく丸い金属製のプレートの上に球状の黄色い石が取り付けられているものだ。シンプルなデザインで割と気に入っていたのだが、ここで手放さなければならないらしい。名残惜しく思いつつも、リーゼルは門番のうち一人にバッジを手渡す。彼が何か呪文を唱えると、黄色い石は淡く光り輝いた。なんでもこの石には学園長の魔力が込められており、特定の呪文を唱えるとそれに反応して輝くらしい。緑のドレスを着たマナー講師の女性がそう言っていたのを思い出した。便利な仕組みだ。リーゼルが前の世界で頼れる相棒と共に所属していた冒険者ギルドのペンダントを彷彿とさせる。あのペンダントも中央の窪みに嵌め込まれた大きな宝石に魔力が込められていた。回想に浸っているリーゼルを他所に門番の二人は頷き合い、門の向こう側を手で指し示す。通っていいようだ。ありがとうございます、と頭を下げてから中へ入る。

「なあ、あれが特待生の平民なのか……?」

「らしいな。魔導士長に認められたとの事だが、本当のところはわからん。案外汚い手を使ったのかもしれんよ」

「そんなアイデアを考えつく事ができるような顔には見えなかったけどなあ。しかし一体いくつなんだろう」

「はは、下手したら十も超えてないお子様かもな。確か名前はなんだったか————」

 そんな声が背後から聞こえてくる。なんだかあまり良い印象を抱かれていないみたいだ。身分がかなり意識されているこの世界では当然の事かもしれない。

 当然の事なのかもしれないが、それはそれとして、リーゼルは十六歳である。十歳ではない。十歳未満でもない。……学園に通う貴族の少女や少年達もリーゼルを疎ましく思う可能性は高いだろう。

 だけど、まあ、許してほしい。

 リーゼルがここの生徒になる事は、この世界を救う事に繋がるのだから。

 彼女は今に至る経緯を思い返してみる。パウルに頼まれて街へ買い出しに行った時、『偶然』悪人に襲われているところに出くわして助けたのが『たまたま』王宮魔導士長で、普段は使わないが『奇遇にも』両手が買い物袋で塞がっていたせいで使わざるを得なかった魔法を見られてその強さを見込まれ、王立魔法学園への入学を熱心に勧められる。あまりにもでき過ぎた流れだ。ダメ押しと言わんがばかりに、入学を勧められたその日の夜に見た夢で、彼女は白い空間の中にいた。

 言わずもがな、『神託』である。学園へ入学せよという命令を受けたリーゼルは、熟考の末に魔法学園への入学を受け入れた。こんなわざとらしい偶然を挟み込むなんて神様らしくないなあと思う。なんなら、孤児院からパウルが自分を引き取ってくれた経緯も偶然と片付けるにはちょっと難しい気がした。前回はもっとこう、自然な流れで進んでいた記憶があるのに。やはり多少の無理を通さないといけないくらい、この世界はまずい事態に陥っているのかもしれない。

 早めに何が起きているのか探って、向き合って、どう動くべきか自分なりに考えないと。顎に手を当てながら、リーゼルは決意を新たに一歩先へと進む。後ろから門番の声が耳に届いたのはその時だった。


「そうだ、思い出した。リーゼロッテ・ローズクオーツだよ」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る