第51話 この感情の行方
──立花伊織は怒っていた。
それは、けっしてゴブリンの顔が思った以上に醜かったからでも、ゴブリンソーサラーの放つ火球のせいで周囲が暑くなったからでも、ましてやゴブリンの顔が死ぬほど醜かったからでもない。
──その圧倒的な敵の数、それに伊織は怒っていた。
夕焼けだけで染まったわけではない橙色した空の下、瑛士と別れた彼女は、近くにいたゴブリンから倒す事にした。
こちらへと逃げてくる村人を追っているゴブリンは、瑛士が
そうして、近くでナニかを食べているゴブリンを切り伏せ、
逃げる人たち目掛けてファイアボールを放っているゴブリンソーサラーをローブごと断ち切り、
ゴブリンアーチャーが放った矢を躱しながら、胸を剣で一突きにする。
それでも減らない敵の数に、伊織は怒りを覚えた。一体、どれほどの数が居るのかと。この敵全てが、総じて自分が元の世界に戻る事への障害になっているという事に、腹が立って仕方なかった。
だから最初から怒っていたわけではないと、伊織は
一番近くに居た、一際醜いゴブリンの首を刎(は)ねながら、誰ともなしに言い訳をする。
(……そういえば、いつの間にか何とも思わなくなっちゃったな……)
勇者の剣に残った緑の異物を払って落とすと、伊織はふと思い出す。
あまり意識してこなかったとはいえ、立花伊織だって女の子だ。しかも世間が羨む女子高生だ。そんな彼女は弱虫で、虫すら殺せない人間だった。
彼女の弱虫は、緑の血を浴び断末魔を聞かされるたびに、心が悲鳴を上げるようにすり減っていく。もう殺したくないと訴える。
でも、それでは駄目なのだ。殺さないと、生き残らないと、大切なモノがあるあの世界には戻れない。
だから伊織は、その弱虫を無視した。
すると、自分でも信じられないほど早く順応した。何故、だかは分からない。だが分からないままで良いとも思っていた。それを知ったとして知らなかったとして、自分の最終目標は変わらないのだから、と。
今も命のやり取りに躊躇いを感じる。だがそれでも、自分はあの場所に戻るのだ。──いや、戻らなければならない。それは絶対に譲れないものだったから。
その
立花伊織の実家である古武術道場。その武術の本質は、往年から
その道場主──当代主だった父の教えを小さい頃から受けていた伊織は、命との向き合い方も学んでいた。殺さなければ殺されることを。だから心の殺し方も知っていた。心を殺さなければ、自分が殺されるから。
だが、幼い頃に教わった伊織はそれを認識しておらず、ただ身に宿しただけだった。
それがこの世界に来て、本人の知らぬ内に顔を出した。伊織にそれを教えた父親も、まさか娘がこんな目に遭うとは思ってもみなかっただろうが。
──そんな伊織だが、さらに腹が立つ事があった。
それは、ゴブリンの上げる声に怯え、ゴブリンソーサラーの放つ火の玉に身を震わせ、ゴブリンアーチャーの射った矢に心を揺さぶられている村人たちに向けた怒り。
自分の背に隠れるようにして、身を縮める村人たち。そこには、右も左も分からぬ伊織に向けた横柄さも、敵対心も、そして憎しみに近い感情もどれ一つも無かった。
(あんなに私を嫌っていた人達が、自分で自分を守れない人たちだったなんてっ!)
あれだけ嫌っていたのに、いざとなったら平気で助けを求めるその根性が気に食わなかった。
自分の身くらい守れる力があるのなら、自分がわざわざ、魔王という意味の分からない存在を討伐する為に召喚される事は無かったろうに、と。
だがこれは、伊織の勘違いだ。この世界の人族はそこまで弱くはない。普段であれば、武装した大人ならゴブリン位は倒せる力は持っている。そして今回、村を襲ってきた魔物の大半は、普通のゴブリンだ。
とはいえ、さすがに多勢に無勢。しかも家も田畑も家畜も燃やされて心が折れ、さらにはゴブリン以外の魔物も居る。村人だけでは、どうしようも無かったのだ。
(ほんと、あの時女神様に頼った私を褒めてあげたい)
もし自分一人ではどうしようも無いと女神に泣きついていなければ、孤独感に苛まれて周囲の村人に助けを求めていたのならば、この人たちの誰かと魔王討伐へと向かっていたかもしれない。
そんな有り得た可能性に、伊織は人知れず恐怖していた。そんな事にでもなっていたのなら、間違いなく元の世界には戻れていなかった。それだけははっきりと言える。
手前勝手に違う世界に連れて来た女神には、今でも怒りを覚えている伊織だったが、瑛士を連れてきた事だけは、お礼の言葉の一つくらいは言ってもいいかなと思っている。瑛士のあのやる気のなさと弱さには、怒りを通り越して辟易しているが。
(だけど試合に間に合わなければ、絶対に許す気は無いわ)
文字通り、伊織の未来が懸かっている
伊織は全国でも有数の実力者だ。だとしても、優勝出来るかと問えば、伊織は首を横に振る。それほどまでに、全国には伊織を超える猛者が居るのだ。彼女らを押さえて優勝する為に、伊織は己に猛練習を課した。それでも埋まらない差を感じていた。そんな時、この世界へと無理やり召喚された。強くならなくては、いけないのに。」
だがこの世界に来て、自分は強くなったと伊織は感じていた。
それは、この世界に来る前の強さとはまるでベクトルの違う強さだったが、それでも強さは強さだ。
その強さは、この世界で戦って得たもの。瑛士によって得た力。だからこの世界に来る事が無ければ、伊織が得ることの無かった力だ。この力が有れば余裕、とまではいかないが、かなりの確率で優勝出来ると伊織は踏んでいる。だがそれも、高校総体までに帰れればなのだが。
──そんな立花伊織だが、焦っていた。
今の自分の肩に、思いもよらないほどの他人の命の生き死にが委ねられていた、からでは無い。
伊織は知っている。人ひとりが背負えるモノはそれほど多くないことを。それは、最愛の父が教えてくれたことだ。
だが、彼らの許しを得て委ねられたわけではない。本来、命を預かるというのは、その人の許可があって初めて成立するものだ。なのに、今の伊織が委ねられている命たちは、許可を得たわけではなく、ただの事の成り行き。だというのに、自分の肩に、思った以上の命が乗っているという事実。
だけど立花伊織は、その事について焦っていた訳ではない。
──やるべきことに迷いが無かったから──だ。
あれほど冷遇された村。
あれほど忌避してきた村人たち。
そんな人たちを助ける義理も道理も自分には無いと、伊織は思っていた。むしろ、勝手に召喚された自分こそ、最大の被害者であるとさえ思っている。
それなのに、自分の肩に無遠慮に乗ってきたそれらを、自分は必死に救おうとしている。その事に、伊織は焦っていたのだ。
こんな自分が居たのか。これではまるで、瑛士の言っていた勇者そのものではないのかと。
聞けば聞くほど、聞かされるほどに、自分とは真逆の存在だと知った。私はそんな品行方正な人間では無いと。
だが彼は言った。自分がソレなのだと。
そしてそれが正しかったと示す様に、逃げて来た村人たちは伊織を頼り、救って欲しいと嘆願してきた。
ゴブリンの頭を刎ね飛ばしながら、チラリと木陰に身をひそめる村人たちに視線を送る。
そこに居た、ゴブリンの集落から救い出したミックの怯えた表情の中、それでも解るくらいの目の輝き。ミックから伝わる相反する感情は、それを肯定している様だった。
(私はそんなのじゃない!)
自分は望んでこの世界に来たわけじゃない! 望んで勇者になったんじゃない!
伊織は否定した。否定したかった。
もし仮に魔王討伐が無理だったとしても、女神に嘆願して元の世界に帰してもらおうと伊織は考えていた。そして、ある程度経過したところで、やはり無理でしたと言うつもりだった。
なのに、それではまるで、自分はこの世界に居なければいけない人間では無いか。何時になるかは分からない魔王討伐を果たさなければならないじゃないか。
──その焦りが彼女の判断を鈍らせた。
「くっ!?」
ナイフを突き出してきたゴブリン。普段の伊織ならばなんて事の無い、
腕に走る微かな痛み。小さい、ほんの小さい傷。しかし、この戦いで初めて負った傷だった。
だがそれを気にする暇は伊織に無い。次々と、まるで親の敵でも取るかの様に、襲い掛かってくる数多のゴブリン。
あの村に本当に親でも居たんじゃないか?と、伊織は無駄な思考を働かせる。そうでもしないと、焦りという形となった、勇者の重みに潰されてしまうと思ったから。
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