番外編
第54話 ユーリル①
十九歳、春。ギアシュヴィール公爵邸は、今日も穏やかな陽気に満ちている。庭の隅で小さな花を揺らす木々は、ライシャ様のお気に入りだ。近頃は、その下で刺繍をしたり読書をしたりすることが多い。邸内に戻る頃合いを知らせるのは、側に控えている私ではなくオルバート様の役目だ。先輩を連れてゆっくりと歩み寄り、ライシャ様と目を合わせて微笑み合う。見ているこちらが胸焼けするほどの、甘いやり取り。私はそれに己の仕事の手応えを感じつつ、毎度眩しそうに目を細める先輩には半ば呆れる思いを抱いている。
どうも、先輩はライシャ様とオルバート様を神格化しているきらいがある。髪と目の色が変わっても、その気質には変化無し。随分とさっぱりとした前髪の下で、目元を微かに緩めている。しかし、そこに死の空気は皆無だ。ジャウラット教授との一件を契機として、先輩は心を新たにした気がする。外見はむしろ儚くなったのに、今のほうが晴れやかに見えるというのは何とも不思議だ。
ある日の早朝。専心している先輩を目の前にして、私は息を吐き出した。
「全然駄目です」
「全く?薄くなってない?」
「ばっちり見えてます」
肩の力をどっと抜いた先輩は、残念そうに首をかしげた。何でだろう、と呟いている口振りに悲壮感が漂うのは、本人も自覚しているからだろう。光を曲げて知覚を妨げさせるなど、この人にできるわけがない。
「ルツィア様から聞きましたけど、先輩、魔法の才能が無いってジャウラット教授に言われたんですよね?潔く諦めたらどうですか?」
「それは……そうだけど……」
先輩は気まずげに目を逸らした。できたら便利だろうし、と未練をこぼすのは、主人を思うがゆえに違いない。透明化の魔法を用いて、襲撃者を鼠取りのごとき勢いで捕らえるつもりだ。
先輩は人殺しはしない傍ら、拷問や誘拐は平然と行う。侵入者を捕まえたからユーリルの伝手で売ってほしいんだけど、と依頼されたときは、さすがの私も先輩の思考回路を理解できなかった。
この人はきっと一般的な倫理観を持っているだろうに、それはそれとして独自の判断基準に則って生きている。後者は家庭で育まれたのだろうが、果たして前者はどこで身に着けたのか。それを後天的に会得することが困難を極めるというのは、他でもない私が身をもって体感していることだ。野外研修のときといい、先輩には謎がある。
とは言え、私は先輩の秘密を暴こうとは思わない。それは弱みの露呈と同義だ。私にも、誰にも明かしたくないことの一つや二つはある。
差し込んだ朝日が先輩の顔を陰らせて、私は一瞬気を取られた。──ユーリ、と呼ぶ幻聴がする。
「先輩、そろそろ戻りましょう。もっと基本的な魔法から習得するべきだと思います」
「そうだね。一旦保留にしておく」
保留じゃなくて諦めたらどうですか、と言いそうになり、すんでのところで耐えた。この人が賢いくせに馬鹿なのは、今に始まったことではない。
それぞれの主人のもとへ向かい、私はライシャ様に朝の訪れを告げた。無防備なあくびを控えめに披露したライシャ様は、おはよう、と和やかに微笑んだ。おはようございます、と私が返すのを聞き届けてから、ベッドを下りる。ぐぐ、と伸びをするその体は、いつの間にか大人と遜色ない。
ここだけの話、ライシャ様はヴァルド学院で数々の学生を虜にしている。言わずもがな男子学生が多いわけだが、その視線を遮る作業に私がどれだけ腐心していることか。先輩は悪意が無ければ向けられる視線を気にしないので、純情な思いで見詰める学生を蹴散らすのは専ら私の仕事となってしまっている。あの人は微妙に危機感が足りないと言うか、別のところに意識を割いていると言うべきか。尤も、仕事を分担できているという意味では称賛に値するのかもしれないが。
ライシャ様が顔を洗っている間、私は服を選ぶ。今日はパステルオレンジのワンピースにしよう。ボトムの部分はシフォン素材なので、単色でも刺々しさは緩和されている。体を冷やすといけないから、ベビーピンクのカーディガンも添える。靴はアイボリーのパンプスで決まりだ。
「今日もありがとう。髪もお願いしていい?」
「もちろんです」
着替えたライシャ様に座ってもらい、私はその背後に立つ。豊かな黒髪の上半分を束ね、下半分を左右で分けてホワイトのリボンと共に編む。それぞれ反対側に持っていき、ピンで留め、放置していた上半分も同じようにしてくるくると丸める。余ったリボンを蝶々結びにすれば、かわいいシニヨンヘアの出来上がりだ。
「わぁ、かわいい……。ありがとう」
「うなじを出したので、さり気なく見せるといいですよ」
「そ、そうかな?」
かぁ、とライシャ様はわずかに頬を染めた。この女性は純朴そうに見えて、実際は大人びたあれこれを考えている人だ。オルバート様や先輩が思っているほど、世間知らずのお嬢様ではない。歳が近く同性だということで話しやすいのか、私はしばしばライシャ様からオルバート様との進捗具合を聞かされている次第だ。オルバート様には気の毒だが、私は二人のファーストキスがいつかも把握している。無論、さすがに先輩には報告していない。旦那様とて、息子たちのあんなことやこんなことを聞かされても気まずいだけだろう。いや、ライシャ様たちは未だにキスしかしていないが。婚約して約十年、とても健全なお付き合いをしている。
廊下でドアが開く音がしたので、私はライシャ様に食堂へ行くよう促した。室外に出てもらえば、案の定、オルバート様と先輩もちょうど部屋を後にしたところだ。
「ライシャ、ユーリル。おはよう」
「おはよう、オルバート」
「おはようございます」
「リュードもおはよう」
「おはようございます」
先輩を見て、私はほっとした。どこからどう見ても、先輩以外の何者でもない。生者に死者の面影を感じるなど、暗殺者にあるまじき愚行だ。
野外研修の一件以来、私はおかしい。先輩に、兄さんの姿を重ねている。先輩のせいだ。先輩が、あのようなことをするから。
「何かあった?」
今だって、隠しているつもりなのに的確に見抜いてくる。
「何もありません。朝食の後、ライシャ様は奥様と過ごすそうです」
「分かった。オルバート様は昨日と変わらない」
「了解です」
並んで歩くライシャ様とオルバート様の後ろで、私と先輩は今日の予定を共有する。先輩は背が高いから、小声で言葉を交わすときはかがんで私に顔を寄せる。実は、私はその仕草が結構好きだ。誰に対しても一線を引いている先輩が、このときだけは近くに感じられる。これは恋愛や親愛では断じてなく、同僚としての付き合いやすさの話だ。
先輩は飄々としている。その中心にオルバート様がいるのは明確だが、その他の観点で何を考えているかは不透明な霧に包まれている。好きな食べ物や苦手な立ち回りはこちらの察するところであるものの、もっと根本的な、人となりとでも言うべき部分は全く見えない。だからこそ、旦那様は私にあの命令を与えたのだろう。
以前の私は、その気になれば躊躇無く先輩を殺せるつもりだった。請け負った仕事は確実に完遂する、そう教育されてきたし、そうでなくては生きられない。しかし、今は違う。兄さんを殺したときと同じく、先輩を殺すのをためらうのではないだろうか。そうなったら、先輩は何と言うだろうか。今の先輩は、全ての執着を精算したかのような雰囲気で生きている。兄さんと同様に、殺して、と私に言うのだろうか。命を託せないほど弱いのかと私が詰問したとき、先輩はそうではないと答えてくれた。ならば、兄さんと同じ表情で、殺されるならユーリルがいい、と請うのだろうか。それは、とても。
ちら、と私は先輩の横顔を盗み見た。相変わらず、神の啓示を前にしたかのごとく清純な目で己の主人を見ている。こういう様を目にしてしまうと、私はこの人がオルバート様を裏切るとは考えがたい。旦那様もそう感じているから、近頃は私に先輩の様子を聞いてこなくなったのだろう。裏切るなら自分だな、と我ながら冷めた思考をし、私は視線を前方に戻した。
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