第55話 ユーリル②
野外研修の後、先輩は毎日私のもとへ通った。まだ自分も本調子ではないだろうに、私の重傷を己のせいだと考えていたのだろう。お互い様、という言葉はあの人の辞書に無いらしい。とは言え、やることと言えば窓の開け閉めと花瓶の水替えくらいだ。たまにライシャ様が持ってきた果物を剥こうとしたが、私がやると言えば素直に手を引いた。なんだか、先輩に世話を焼かれるのは癪だった。本当は、私が先輩の世話を焼きたいくらいだったからだ。魔獣の加護のおかげで回復が早いなどずるい、血の海に倒れた先輩を目にしたとき、私は真っ白な脳裏でべったりとした絶望を覚えたというのに。
ある日、私は昼間にも関わらずうとうととしていた。何もすることがなく、暇潰しと言えば誰かと話すか寝るかだった。その日は先輩がまだ来ておらず、ライシャ様とオルバート様は授業中で、昼寝以外の選択肢が存在しなかった。普段なら、本気で意識を手放すことなどしない。就寝中の急襲を危惧するのは、暗殺業に関わる者の常識だ。だが、この日は連日の手持ち無沙汰にかえって疲れてしまったのかもしれない、自分でも不思議なほどに深い眠りに就いた。
──私は、夢を見た。兄さんと二人、まるで普通の人かのように街を歩く夢。
「ユーリ、これ、おいしいよ」
今思えば、夢の中の兄さんが差し出してきた林檎飴は、一年生の春休みにライシャ様が食べたいと言ったものだったのだろう。夢は記憶の整理だと言う。なればこそ、あの夢は私の記憶と願望が無秩序に混ざったものだと解釈するべきだ。
幼い頃の私は、兄さんと一緒に家族から逃げたかった。尤も、逃げたのは私一人だったが。兄さんは、逃げる直前に死んだ。いや、最初から、兄さんは私だけを逃がすつもりだったのかもしれない。兄さんが私に授けたペンダントの中には、私の分の身分証明書しか入っていなかった。
夢の中の幼い私は、兄さんと手を繋ぎ、賑やかな街で無邪気に遊んでいた。黒に近い茶髪に朱色の双眸を持つ、優しい、優しい人。親の代わりに私を育ててくれて、生きるために人を殺す技術を教えてくれて、逃がすために私を守ってくれた。仕事のやり方も、夜の過ごし方も、生き延びるための全てを兄さんが与えてくれた。歳が離れた私は足手まといだっただろうに、ずっと側にいてくれた。ユーリ、と私を呼ぶのは、世界でただ一人。
幸福で残酷な夢に囚われていた私の意識は、目元に触れる何かの感触で現実へ連れ戻された。
瞬きをしたら、目尻から涙がこぼれた。視線を移すと、すぐ隣の椅子に誰かが座っていた。その人は、私の目元にハンカチをそっと当てていた。私の視界はにじんでおり、それが誰かは分からなかった。だから、聞いた。
「……兄さん……?」
そのときの私は、まだ夢の中に足が浸っていた。記憶を忘れ、兄さんが生きている気分になっていた。次いで思ったのは、逃げないと、という警告。私に優しく触れるのは、兄さんだけだ。それでも、もしもこの人が兄さんを騙った他の誰かとしたら、私は今すぐ身を起こさなければ殺されてしまう。
しかし、起き上がることは叶わなかった。と言うのも、力んだ私に気づいたのか、その人の手が私の視界を遮ったからだ。
「大丈夫。おやすみ」
「……」
短い、たったの二言。だが、安堵を誘う響きがあった。私は、呆気なくもう一度眠った。それが先輩の声だと気づいたのは、再び目が覚めた後だ。
夕日が差し込む窓のカーテンが吹き込むそよ風で揺れており、先輩が来ていたのだと知った。声を掛けてくれれば起きたのに、と思ったところで芽生えた、違和感。就寝中、誰かと話した気がした。点と点が繋がるのは一瞬の出来事だ。先輩を兄さんと見間違えたのだと気づき、私は愕然とした。
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