第49話 十九歳③
シチューの匂いがする。母さんが作る、俺が一番好きな料理だ。五歳の俺は、小さなスプーンで一匙をすくって口に運んだ。
「リュード、おいしい?」
「うん」
嘘だ。この日、俺は味など全く分からなかった。父さんからの課題で頭がいっぱいで、母さんを殺す方法ばかりを考えていた。
この世界の俺は、山の麓の小さな家で生まれた。町から少し離れた、静かな三人暮らし。父さんは毎日いる時期もあれば、仕事が入ったと言って数ヶ月間帰ってこない時期もある。反対に、母さんはほとんどの時間を家で過ごす。俺は父さんがいるときは暗殺術を習い、母さんしかいないときは一般的な勉強や処世術を教えてもらった。と言っても、多くは家事の手伝いをしている時間だったが。
前世の記憶を持つ俺は、二人の言うことに極力反発しないようにしていた。親のことをどこか他人のように見ていたから、逆らえば殺されると本気で考えていた。しかし、それと同時にこうも思っていた。父さんと母さんは、たった一人の子供である俺を精一杯愛してくれている。特に父さんの教え方は厳しかったが、罵倒されることは一度も無かった。教わったことを実演できたとき、二人はきちんと俺を褒めてくれた。
「今日は一緒にお風呂に入ろう。父さんには内緒ね」
「うん」
多分、母さんは自分が殺されると分かっていた。そのうえで、俺が殺すタイミングをできる限り多く作ってくれていた。無防備に背中を向けたり、近くに座ったり。包丁はまな板の上に置きっぱなしだったし、断ち切りばさみもテーブルに放置されていた。凶器はそこら中にあった。全部、母さんが用意してくれていた。
「リュード、おいで」
いよいよ寝る時間が迫ったとき、母さんは俺を手招いた。困ったような笑顔だったのは、俺がいつまで経っても決心できずにいたからだと思う。父さんは、翌日に帰ってくる予定だった。父さんが帰ってくるまでに、俺は母さんを殺さなくてはいけなかった。
「リュードは父さんにそっくりね。才能があって、頑張り屋さんで、すごく優しい」
「……」
「はい、母さんからプレゼント」
そう言って、母さんは俺の首にペンダントを提げた。五歳の俺には不相応な、大粒の琥珀がはめ込まれたそれ。母さんが肌身離さず身に着けている、とても大切なものだった。
「父さんがくれたんだよ。母さんは怖がりだけど、父さんの目と同じ色があるから安心できる。今は、リュードともお揃いね」
「……」
「大丈夫。母さんも父さんも、これからどんなことがあっても、リュードのことが大好きだよ」
ベッドに入る前、母さんはホットミルクを作った。そして、飲む前に一瞬だけ席を外した。俺は、その間に睡眠薬を溶かした。苦しんでほしくなくて、たくさん、たくさん入れた。もしかしたら、溶けきっていなかったかもしれない。それでも、母さんは全部飲みきった。
「母さん、母さん」
「何?」
「大好き」
「ありがとう。母さんも大好きだよ」
ベッドに入ると、母さんはすぐに眠った。そっと抜け出した俺は、キッチンから包丁を持ち出した。もうためらわなかった。涙で母さんの顔が見えなくなる前に、その細い首を力一杯に切りつけた。
本当は、母さんを殺したくなかった。
「――本当の母親は別にいるんだろう?それなのに、そんなことを思うのかい?」
俺は、目を開けた。奥行きも分からない奇妙な空間の中、目の前にはジャウラット教授だけがいる。母さんは、いない。己の両手を見てみれば、五歳ではなく十九歳の大きなそれだ。
あたかも、あの頃に巻き戻ったかのようだった。シチューの匂いも、母さんの温もりも、全てが現実味を帯びていた。ジャウラット教授は、この記憶を盗み見たらしい。なんて幸せで、残酷な夢だろうか。
「前世の家族のことは、全く覚えてません。現世の俺にとっては、あの人だけが母親です」
例えばあの人が生みの親でないとしても、関係ない。俺にとって、母さんは唯一無二の存在だ。俺が殺したのは、母さん以外の何者でもない。
ジャウラット教授は、不思議そうに首をかしげた。その長い髪はさらりと流れ、どこか穏やかな声色で言葉を紡ぐ。
「親の記憶が無いぼくには、到底理解できないようだ」
「……まさか、記憶喪失ですか?」
「その通り!きれいさっぱり、何もかも」
ジャウラット教授は両腕を広げ、大仰に叫んだ。ただし、二言目には失意の表情をしてみせる。まるで、がらんどうの己を信じたくないかのようだ。だらん、と両腕から力を抜き、何の感情も宿していない双眸で俺を見ている。
ここはどこかと俺が問うと、恐らく魔力の中だとジャウラット教授は答えた。曰く、君が魔力を暴発した結果生まれた亜空間だろう、と。床も壁も見当たらず、自分が立っているのか座っているのかさえ定かでない。ただ、ここには俺とジャウラット教授の二人しかいないことだけは分かる。オルバート様たちを巻き込まなくて良かった。最悪、飢え死にするまでここからは出られないかもしれない。
「先程の注射の中身は、何ですか?」
「魔獣の臓物の混合物だ。魔獣が体内に持てる魔力は、体の体積に依存する。そして、人は魔獣を取り込むことで、その性質を獲得することができる」
一息に言い連ねるや否や、ジャウラット教授は自身の上衣をまくり上げた。――その腹部では、赤黒い臓器が根を張っている。明らかに、縫合によって後付けされたものだ。なぜ、と俺が問いかけると、分からない、という返事が来た。
「ロディヴィー・ツヴァインは、過ぎた力を求めたあまり自我を失った」
「……自覚はあったんですね」
「本当のジャウラット教授と学院長から全て聞いたよ。あとは、日記や研究記録を読み返して知った」
「髪と虹彩の色を変えたのは、シドラ・ジャウラットとして生きるためですか?」
「違う、違う。ぼくが目覚めたとき、すでにこの色だった。――今の君もそうだろう?」
言われ、俺は髪を結っていた紐を解いた。――ぱさりと視界に飛び込んだ横の髪は、信じられないほど白く染まっている。思わず、右手で目元を押さえた。ポケットから手鏡を出し、見る。鏡は問題無く機能し、水色の虹彩がこちらを見詰め返していた。根元まで真っ白な髪、透き通るほど真っ青な目。違う。俺は、こんな色ではない。父さんと同じ、黒髪と琥珀色の虹彩をしていたはずだ。父さんと同じ、母さんが好きな色だった。鏡を見る度、父さんのことを思い出せた。母さんと父さんがくれた、この世界の俺の色だった。
落ち着け、と俺は息を吐いた。ツヴァイン侯爵令息は、魔獣の性を手に入れる代わりに色と記憶を失った。俺が記憶まで無くさずに済んだのは、取り込んだ体積がごくわずかだったおかげだろう。オルバート様を忘れることに比べれば、この程度、どうということはない。どうせ、父さんと母さんには二度と会えない。色を無くしたところで、今更何も変わらない。父さんと母さんは、俺が殺した。
「……君は、なぜ自分が生まれたのか、考えたことはあるか?」
顔を上げれば、ジャウラット教授の姿はにじんでいる。目を瞬くと、俺の頬には滴が一つ。泣いている、そう自覚するのに、俺は少しの間を要した。
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