第43話 十八歳⑱

 十八歳、夏。ヴァルド学院に流れる空気は、どことなくぎすぎすとした嫌な感じに変わっていた。概要は単純だ。またしても、オルバート様とグリック殿下が対立の構図を取っている。去年と異なるのは、他でもないオルバート様自身がグリック殿下を敵視しているという点だろう。


 事の始まりは、一か月前まで遡る。すなわち、野外研修当時だ。ヴォルケとの戦闘中、俺は近衛騎士の一人から攻撃を受けた。と言うのも、俺はグリック殿下のすぐ側でナイフを構えてしまったからだ。俺がグリック殿下の命を奪うかもしれないと考えた近衛騎士は、ナイフを持っている俺の右手首を下から切り飛ばそうとした。結果としては、ユーリルの特別製グローブのおかげで浅い切り傷で済んだのだが。

 俺はこの出来事に反感を覚えていないし、仕方無かったと納得している。しかし、それを目の前で見ていたオルバート様はそう思えないようだ。俺が眠っている間に、オルバート様はグリック殿下と決定的に溝を深めた。ライシャ様は現場にいなかったから下手に口を出せないようで、オルバート様と共に見ていたユーリルはむしろオルバート様の味方だ。つまり、誰も止める人がいなかった。俺はと言えば、目覚めて以来グリック殿下と一度も話せていない。顔を合わせるも何も、野外研修から数日経った頃、グリック殿下は王城へ帰ってしまっていた。なお、それにはサイオン様も同行している。恐らく、王城では宝具の帯剣について議論が成されているだろう。もしグリック殿下が宝具を携えて戻ってきたら、俺はどうすればいいだろうか。


 不意にした何かの気配に、俺は廊下で足を止めオルバート様をかばった。


「リュード?どうし……」

「──よく気づいたものだ」

「!」


 突如、背後から声を掛けられた。正面に向き直ったはずだが、いつの間にか俺の後ろに移動していたらしい。ジャウラット教授は、底意地の悪そうな笑顔と共に立っている。驚かさないでいただけますか、とオルバート様はつっけんどんな声で文句を言った。

 今からは魔法学の授業なので、俺はジャウラット教授の研究室までオルバート様を見送るところだった。どうせ後で会うのに、わざわざ会いに来たのはどういうつもりだろうか。


「リュード・トークル。今日から魔法学の授業に出席したまえ」

「……」


 思わず、俺は反応を忘れた。予想外の指示だ。これまでは俺からジャウラット教授に接触するばかりで、ジャウラット教授のほうから俺に関わってくることはなかった。オルバート様の側にいられるのは、願ったり叶ったりだが。


「私が魔獣の加護を授かったからでしょうか?」

「そうだとも。君は魔力を保持しているのだから、魔法を使えるはずだ」

「……!」

「では、また後で会おう」


 ジャウラット教授は、上機嫌に研究室のほうへと去っていった。第三者の視野にいる場合、透明化の魔法は使わないようだ。考えてみれば、それが知れ渡るとジャウラット教授は国に目を付けられてしまうだろう。そうなれば、このような辺境の教育機関で研究に勤しんでいられない。


「リュード、この後の予定は大丈夫か?」

「はい、何もありません」

「なら、行こう」


 オルバート様もどこか嬉しそうだ。友人がいるとは言え、身内がいない状況で授業を受けるのは少し寂しかったのだろう。それに、現在はグリック殿下と喧嘩中だ。ツーヴィア公爵令嬢とツヴァイン侯爵令嬢も、どちらかの味方であると思われないためにオルバート様の側にいる時間を減らしているらしい。本当に、困った展開になっている。物語のシナリオと非常に類似しているのも気に食わない。


 研究室に着くと、すでに待機していた学生たちから視線を感じた。俺が参加するのは魔力を得たからだが、オルバート様の護衛としてだと思っている者もいるだろう。授業の準備をしていたのか、ジャウラット教授は直接屋外に出られるテラス窓から姿を見せた。


「やぁ、やぁ!今日は実技の練習だ。全員、外に出たまえ」


 裏庭といった風の空き地には、水が入った桶や焚き火がいくつも用意されていた。以前にも同じような授業があったのか、学生たちは各々の場所へと散っていく。


「リュード・トークル、オルバート・ギアシュヴィール。こっちへ来たまえ」

「ジャウラット教授。リュードに魔法を教えなさるのでしょう?私たちも構いませんか?」


 ジャウラット教授の呼び出しに反応したのは、ツーヴィア公爵令嬢だった。その隣にはツヴァイン侯爵令嬢もいる。三秒ほどの逡巡の後、ジャウラット教授は快く許可した。俺はてっきり断ると思っていたが、先日のツヴァイン侯爵令嬢の叫びが尾を引いているのだろうか。


 目の前には、水を並々に張った桶がある。次の瞬間、そこから水の帯が立ち昇った。しゅるしゅるとジャウラット教授の人差し指の先へ伸び、逆三角形の渦を形成する。去年の夏に見せてもらったオルバート様の魔法よりも精度が高く、辺りには一滴の水滴も落ちていない。くるくると旋回し続ける水は、まさに魔法という表現しかふさわしくないほどに美麗だ。


「さぁ、リュード・トークル、やってみせたまえ。魔法の基本は分かっているだろう?」

「ど、どうすれば魔力を混ぜられるんでしょうか?」

「そんなものは感覚でしかない」


 本気で言っているのだろうか。教える気が微塵も感じられない。見かねたのか、オルバート様が俺の隣に立ってくれた。俺が真似できるよう桶に向かって手をかざし、体の内側から魔力が放出されるイメージだ、と教えてくれる。俺は呼吸を整え、体内の魔力を想像した。どこかに密集しているのか体中を循環しているのかは不明だが、前世では後者の仕組みを採用している作品が大半だった覚えがある。この世界における魔力に関しては、体内で生産されているのではなく、外界から取り込まれているという定説がある。俺は呼吸と共に魔力を取り込み、血流と共に右の手の平へ集まっていくイメージを描いた。球状になったそれを水中に落とし、溶かそうとする。すると、水面が盛り上がった。ゴボ、ゴボ、と膨らみの数がどんどん増えていく。俄然できる気がしてきた。あとはここから水を取り出し、宙に浮かせるだけだ。俺は一息に力を込めた。


 ──バシャンッ、と高く上がった水しぶき。


「……」


 ボタッ、ボタッ、と髪の毛先から水滴が落ちていく。


「お……オルバート様!!申し訳ございません!!」


 俺は絶叫した。オルバート様は俺と共に頭から水をかぶり、紺色の髪も深緑色のローブもびちょびちょに濡れてしまっている。桶から半分の水が失われたから、掛かった量はすさまじかったはずだ。やってしまった。使用人が主人を汚すなど、言語道断だ。俺は懐からハンカチを出し、オルバート様の顔を優しく拭っていった。駄目だ。あまりの失態に手が震える。オルバート様が虚弱体質なのは幼少期の話とは言え、風邪を引いてしまわないだろうか。今度こそ魔獣の加護が過剰に働き、またしても重篤な容態に陥ってしまうのではないだろうか。一体、俺はどれだけの過失を。


「りゅっ……リュード、大丈夫だ。このくらい、すぐに乾く」

「駄目です!坊ちゃまは寒さに弱いんですから……!」

「その呼び方はやめてくれ……!」

「二人共、落ち着きなさい。魔法で乾かしたほうが早いわよ」

「本当ですか!?」


 救いの手を差し伸べてくれたのは、ツヴァイン侯爵令嬢だった。え、ええ、と引きながら肯定が成される。そこで、俺ははっと我に返った。ツーヴィア公爵令嬢は、まるで小動物のじゃれ合いを前にしたかのような雰囲気をこちらに向けている。ジャウラット教授に至っては、あっはっは、と腹を抱えて大笑いしている始末だ。君は聡いのか馬鹿なのか分からないな、ととんでもない評価を口に出している。久々に、俺は己の頬が赤く染まるのを感じた。魔法の失敗はもちろん、冷静さを欠いて取り乱してしまったことも恥ずかしい。


 ツヴァイン侯爵令嬢に連れられ、オルバート様と俺は焚き火に近づいた。他の学生も見守る中、ツヴァイン侯爵令嬢は手の動きでその周囲から何かを抜き出し、俺に流し込んだ。むわりと服の間を抜けていくそれは、熱気だ。なるほど、炎で熱されている空気を別の場所まで誘導したのか。数分間されるがままでいると、俺の服と髪は一通り乾いたようだった。


「まだ湿っているかもしれないけれど、ハンカチで拭くよりはましでしょう?」

「はい。ありがとうございます。オルバート様にもお願いできるでしょうか?」

「ええ」


 ツヴァイン侯爵令嬢は、伊達に侍女を名乗っていない。目上の者だからとオルバート様を優先せず、侍従である俺を一番手にすることで安全性を保証してみせた。そのおかげで、オルバート様は安心して身を任せることができる。おお、と目を輝かせるのは、昔から変わらないオルバート様の仕草の一つだ。この世界のドライヤーはうるさくて敵わないので、俺もこの魔法を習得してオルバート様に使いたい。

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