第42話 十八歳⑰

 俺が一向に退かないでいると、アンジアは諦めたらしい、ライシャ様の正面に立った。無論、俺が斜めではあるものの間に入っている。アンジアは俺を忌々しく睨んだが、何かを言うことはせずライシャ様を見下ろした。


「オルバートとの婚約は解消して、戻ってこい」


 何を言い出すかと思えば、身勝手極まりないセリフ。お断りします、とライシャ様は当然拒否した。


「俺の言うことが聞けないのか?」

「私はあなたの侍女ではありませんから」

「この……!少しはお父様の役に立ってみろ!王家とファイアン公爵家が縁を結ぶチャンスなんだぞ。王妃になれるんだから黙って従え!」

「……!」


 ライシャ様は周囲を見回した。次いで俺を見上げたので、誰もいないという意思表示で俺は首を振ってみせる。驚愕の発言だが、幸い誰かが聞き耳を立てている気配はしない。ライシャ様は一度目を瞑り深く息を吐き出し、強い眼差しでアンジアを見た。さすがにまずいと分かっているのか、アンジアもうろたえている。行動を起こす前によく考えたらどうだろうか。尤も、それができればライシャ様をいじめはしなかっただろうが。


「……今の言葉は、聞かなかったことにします。私はオルバート様の婚約者であり、ギアシュヴィール公爵家に引き取っていただいた身です。ファイアン公爵家には二度と戻りません」


 ライシャ様の意志の強さに、アンジアはたじろいだようだった。恐らく、アンジアにとってのライシャ様は弱くて惨めな少女だったのだろう。離れに追いやられ、誰にも優しくしてもらえない哀れないじめられっ子だった。だが、本当にそうであったなら、ライシャ様はとっくにオルバート様との婚約を解消したがったはずだ。ライシャ様はちっとも弱くない。強い心を持ち、ひたむきさを備え、決めたことは最後まで貫き通す。侍女を選定する際も、どれだけ優秀な人材がいようと妥協することはしなかった。俺と親しくできるかどうかを最優先事項として、ユーリルが現れると即決した。最初から、ライシャ様は踏みにじられる野花などではない。


 アンジアの両肩は震えた。怒りで丸い顔を真っ赤に染め上げ、ダン、ダン、と地団駄を踏む。まるで子供の癇癪だ。俺と同い年だとはとても思えない。いや、俺には前世の記憶があるのだから、比べるのは不公平か。だが、どちらにせよ十七歳がする仕草ではない。


 突然、アンジアは呆れたように首をかしげた。ぶにゅ、と顎の肉が段々畑を作る。


「そういえば、お前は魔族と仲良くしてるんだったな。人類には興味が無いのか」

「どういう意味ですか?」

「学院で、魔族とばかり一緒にいるんだろう?あんな野蛮な奴らとよく仲良くできるな」


 少々語弊があるものの、学院でのことが伝わっている。ヴァルド学院に人類主義者はなかなかいないから、中立に近い立場の者がアンジアに情報を流したのだろう。とは言え、今はそれはどうでもいい。さほど秘匿性が高い内容でもない。問題は、魔族を差別しライシャ様の友人たちを侮辱したことだ。


「……魔族の方々は、あなたに何かしましたか?」

「は?俺たちが関わるわけがないだろう」

「そうでしょうね。私の友人も含め、多くの魔族の皆さんはあなたに何もしていないでしょう。あなたが私にしたように腐った果物を食べさせたり、あなたの妹が私にしたように屋敷に火を放ったり、魔族の皆さんは決してしていません」

「……だから、何だ?」

「──不快です。二度と私たちに近づかないでください」


 ライシャ様は立ち上がった。行こう、と俺に告げ、アンジアの前を横切って庭の奥へと歩んでいく。その足取りには怒りがにじんでいた。普段よりもわずかに一歩が大きく、速く、この場からすぐにでも立ち去りたがっているのが窺える。俺はハンカチを片づけて後ろに続いた。すると、アンジアの手がライシャ様の背中に伸びた。


「おい……!うわっ」


 目にも留まらぬ速さで、俺はアンジアの短い足を引っかけた。前屈みに転んだその重い体を受け止め、さも助け出す素振りでその耳に口を寄せる、私のことを本当にお忘れですか、と。アンジアは俺の顔をまじまじと見て、ようやく思い出したようだった。慌ててあとずさり、騎士の背後に隠れてしまう。とても滑稽だ。


 東屋にたどり着くと、ライシャ様は足を止めた。花を見詰める横顔に湛えられているのは、悲しみだろうか。


「……学院にいると、他のことが分からなくなっちゃうね。やっぱり、ああいう人はまだまだ多いのかな?」

「そう聞きますが、これから次第だと思います。グリック殿下がヴァルド学院をお選びになったことも、そのおつもりがおありだからじゃないでしょうか?」


 全ての王族や貴族が教育機関に入学するわけではない。また、大抵の人々は地方ではなく王都で暮らしているのだから、入学するにしても王都の学校を選ぶ人が多い。それにも関わらず、グリック殿下はヴァルド学院を選んだ。それが意味するのは、王家が国の方針として魔族との友好を育むつもりであるということに違いない。実際、グリック殿下の入学が公表された際、主に人類主義者たちから反論が起きたそうだ。もちろん、あからさまに魔族への忌避感を理由にする者はいなかったらしいが。とにかく、我が国は今、魔族との関係を再構築する時期に入った。ライシャ様が理想とする未来は、長くは掛かるだろうが決して訪れないものではないだろう。


 ふと、俺はジャウラット教授のことを思い出した。あの人は、人類と魔族の対立について何らかの思想を抱いている風だった。人は未だに人類と魔族という枠に囚われている、戦争はまだ終わっていない、とあの人は言っていた。あの人は、人々に何をさせたいのだろうか。あの人は、これから何をするつもりなのだろうか。果たして、そこにオルバート様は。

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