第41話 十八歳⑯
これは、去年の夏休み中の出来事だ。
「ライシャ、疲れただろう?ゆっくりできなくてすまない」
「ううん、大丈夫だよ。……でも、ちょっとお庭を見てきてもいい?さっき、噴水がきれいだって聞いたんだ」
とあるパーティー会場。ギアシュヴィール公爵家嫡男とあって、オルバート様のもとには多くの参加者が訪れる。友人の席を望む同年代の子弟や、旦那様との繋がりを欲しがる者、グリック殿下の噂を楽しみたい貴族など。その応対には側にいるライシャ様も付き合わなくてはならず、二人共長時間立ったままだ。また、オルバート様のみと話したいからと、ライシャ様をそれとなく粗雑に扱う者もいる。オルバート様はもちろん、ライシャ様にも心身共に疲労が蓄積されていることだろう。
ライシャ様のお願いに、オルバート様は目元を和らげた。ライシャ様の我儘は決まって些細なことだ。そして、オルバート様はそれを叶えるために快く譲歩する。
「ああ、行っておいで。ただし、ユーリルを……いや、リュードと絶対に離れないでくれ。ユーリルは俺に付いてくれるか?」
「了解です」
「リュード、ライシャを頼む」
「分かりました」
ありがとう、と微笑み、ライシャ様は軽い足取りでテラスから庭に出ていった。俺はその後ろを歩き、周囲に危険が無いか警戒する。
噴水は、パーティー会場であるホールから程近くにあった。水が踊る台座では、石の鳥たちが羽を休めている。その目の前のベンチに俺がハンカチを広げると、ライシャ様はお礼を言って座った。今日のドレスはパステルグリーンだ。白の糸で草花の刺繍がいっぱいに施されており、さながら森の妖精だと思う。そもそも庭師の腕が素晴らしいというのもあるが、ライシャ様がいることでこの庭はいっそう幻想的に見えた。
「ねぇ、リュード。素直な意見を聞かせてほしいんだけどね」
「はい」
「私、オルバートの婚約者としてどうかな?」
どう、とは。突然の抽象的な質問に俺が戸惑っていると、お義母様が教えてくださったんだけど、と前置きをして説明が始まる。その内容は、ライシャ様をギアシュヴィール公爵家嫡男の婚約者として認めない人々もいるというものだった。ライシャ様は父親の不倫でできた子であり、ファイアン公爵家の庇護は受けていない。また、現在のファイアン公爵家は栄光を失いつつある。不義の子でありながら一人だけ安全圏に保護されたライシャ様を、計算高く身の程知らずな娘だと蔑む人は一定数いる。それは、こうして社交の場に出るとなおさら実感することだ。ライシャ様の前でオルバート様に自身の娘を紹介する貴族もいるし、大した話ではないのにライシャ様に席を外させようとする者もいる。無論、オルバート様はそういう人々とは親しくしない。旦那様も同様だろう。オルバート様が心変わりしない限り、ライシャ様が婚約者の座を下りることはありえない。そして、オルバート様の心変わりこそ決して起きない。
奥様がライシャ様に実情を教えたのは、意地悪な心からでは断じてないだろう。と言うのも、オルバート様は少々過保護だ。俺とユーリルを使い、ライシャ様への悪意は極力遠ざけている。となれば、ライシャ様は自身の価値を正しく認識できない。将来公爵夫人として立派に生きるためにも、そのままではいけないと考えたのだろう。
しかし、俺の答えはずっと前から決まっている。
「オルバート様の婚約者に、ライシャ様以外でふさわしい方は絶対にいません。オルバート様が幸せにしたいのも、オルバート様を幸せにできるのもライシャ様だけです」
物語ではヒロインがいる。だが、オルバート様がヒロインに抱く恋情の根底にはライシャ様がいる。それに、ヒロインはオルバート様を選ばない。オルバート様が幸せに生きられるのは、ライシャ様が生きて側にいてこそだ。
俺が真面目な声で言った言葉に対し、ライシャ様はほっとしたように笑った。ありがとう、頑張るね、と健気に応える。五年前、ライシャ様を助けられて本当に良かった。この人が生きているから、オルバート様は今も幸せでいられている。そのうえでライシャ様も幸福を感じられているのだから、この二人は運命と言っても差し支えないほどの出会いを果たしたのだろう。どうか、これから先も二人で笑っていてほしい。
ふと、噴水の向こう側から誰かが来た。緑の髪をした、丸々と太っている若い男性だ。後ろには騎士を連れていることから、パーティーの主催者が強く口を出せない身分なのだろう。今回のパーティーでは、騎士の同伴を控えるよう招待状に記載してあった。
相手がずかずかとこちらへ向かってくるので、俺はライシャ様をかばうように立つ。一方、ライシャ様はただ座っているだけだ。誰かが話したがっていると気づいたとき、ライシャ様は休んでいたとしても必ず立って迎える。それをしないということは、もう心の整理は済んでいるのだろう。ならば、俺もそのつもりでいよう。
「ライシャ、久しぶりだな。魔獣のお友達と一緒にいなくていいのか?」
アンジア・ファイアンは、心の底からの侮蔑を隠さずに挨拶を寄越した。確かに形式的な立場は己のほうが上とは言え、ギアシュヴィール公爵家に寵愛されているライシャ様にここまでの口を利くとは、命知らずにも程がある。異母兄妹でも許されることではないし、そもそもその縁は実質的に切れている。それとも、今のうちに痛めつけられるだけ痛めつけておけ、という浅はかな考えでも抱いているのだろうか。オルバート様とライシャ様はヴァルド学院を卒業し次第籍を入れるつもりだから、その繋がりが本当に消失する日はそう遠くない。
ライシャ様はアンジアを真っ直ぐに見上げた。何の感情も宿していない冷たい表情で、愛想を限界まで削ぎ落とした声を発する。
「お久しぶりです。生憎私は休んでいるところですので、お引き取り願います」
要するに、あなたの相手をすると疲れるから二度と話しかけないで、という意味だ。それを察したかは定かではないが、アンジアはひくひくと頬を引きつらせている。まさか、昔のようにただ従順でいるとでも思っていたのだろうか。
ふん、とアンジアは鼻を鳴らした。ライシャ様の隣に座ろうとしたので、俺は無言で腕を伸ばし遮った。
「おい、どけ。俺はファイアン公爵家の長男だぞ」
「ライシャ様は婚約しておられます。必要以上のご接近はご遠慮ください」
「俺はこいつの兄だ!」
「ご遠慮ください」
手を出さなかった俺は偉いと思う。徹底的にいじめ抜いておいて、何が兄だ。辞書で意味を調べ直してこいと言いたい。と言うか、アンジアは俺のことを覚えていないのだろうか。五年前、妹であるアイリー・ファイアンの首筋にナイフを立てられた経験はすでに忘れてしまったようだ。俺は黒髪に橙色の虹彩だから、記憶に残りやすい見た目をしていると思うのだが。
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