第38話 十八歳⑬
迷ったが、オルバート様とライシャ様には待っていてもらうよう頼んだ。思えば、ユーリルとは二人きりで話すことが多い。向こうも聞きたいことがあるだろうし、今回も二人だけで話したほうがいいと判断した。
ノックをすると入室の許可をもらえたので、恐る恐るドアを開ける。
「……おはようございます」
ユーリルはベッドで寝ていた。ラベンダー色の双眸はまん丸に見開かれ、その口からはいつも通りの挨拶が発された。うん、おはよう、と俺は返し、ベッド脇に置いてある椅子に座った。
髪が解かれているからだろう、ユーリルの雰囲気はいつもと異なっている。ぴんと張り詰めた冬の朝のようなものではなく、どこか柔らかく幼い。初めて知ることに、毛先はゆるゆると波打っている。また、グローブをはめていない手は雪のように白い。左の頬にガーゼが貼りついたその顔は、俺のほうを真っ直ぐに向いている。
「先輩、もう動けるんですか?」
「うん、なんとか」
「じゃあ、こっちに来てください」
ユーリルは緩慢な動作で起き上がり、ベッドに横向きで座った。隣に来るよう指図されたので、俺は不思議に思いつつもその左側に膝を乗せる。体を反転させ、シーツに腰を下ろす。──刹那、俺の上体は背中からベッドに着地した。
視野を占めたのは、天井を背景にしたユーリルの顔。その茶髪は俺の頬に垂れ下がり、少しくすぐったい。
ユーリルに組み敷かれている、そう理解しても、俺の胸中に死への恐怖は湧かなかった。相手は俺よりも人殺しを重ねてきた暗殺者なのに、我ながら呑気なことだ。両肩を押さえつけられ、抵抗はできそうにない。だが、それよりも気になることがある。ユーリルは、今にも泣き出しそうな表情をしていた。
「知ってたんじゃないですか?」
「何が?」
「あの森に何かいるって、何か起きるって、先輩は分かってたんでしょう?あんな狭い森を怖がるなんて、先輩らしくないって思ってました」
「……」
「何で、言ってくれなかったんですか?先輩は、オルバート様を裏切ってるんですか?」
「それは違う。俺は、絶対にオルバート様を裏切らない」
俺は強く言いきった。確かに、予測していながら何も言わなかったのは俺の落ち度だ。しかし、それは俺がオルバート様を陥れようとしたからではない。未来を知っている、などという不確定な根拠では信用に値しない情報だったし、物語のシナリオから大幅に逸れていると早とちりしていたからだ。
じゃあ、と、ユーリルは消えそうな声で続ける。
「命を託せないほど、私は弱いですか……!?」
「……!」
そのセリフには、激しい感情が込められている。後悔、怒り、諦念、悲嘆、恐怖。俺を責めているように聞こえるのに、同時にユーリル自身を非難しているようにも聞こえる。そうだよ、と肯定するのは嘘になるが、違う、と否定しても嘘臭い。単純で、難解で、一言で答えるにはあまりに重い質問。
俺は、その小さな頭に片手を伸ばした。そっと触れ、嫌がらないことを確信した後、力加減に精一杯の気を遣って撫でた。あたかもオルバート様が俺にするかのように、可能な限り優しく慈しんだ。ユーリルの体は少しだけ強張ったが、徐々に肩の力を抜いてくれた。その仕草一つだけで、俺をどれだけ信頼してくれているかが分かる。そして、俺も同じくらいユーリルを信頼している。
「ユーリルのことは信じてるよ。弱いと思ったことは一度もないし、ライシャ様の側にいるのはユーリルがいいと思ってる」
「じゃあ、何で……」
「根拠があったわけじゃないから、信じてもらえないと思って言えなかった」
「私は信じました」
「うん、ごめん」
「本当にそう思ってますか?」
「うん」
ユーリルなら、俺の話を想定の一つに組み込んでくれただろう。きっと、俺が前世の記憶を話しても信じてくれる。感情論ではなく、今後を決定する材料として俺の話を利用してくれるはずだ。それでも明かせないのは、単に俺が臆病者だからだ。物語への介入者を増やし、制御できないほどの改変を起こしたくはない。
いや、本当にそうだろうか。俺が恐れているのは、本当にそれだろうか。口に出してしまうことで、この世界が物語そのものだと認めるのが怖いのではないのか。俺が情けなくも受け取ってきた数々の愛情や思い出を、この世界で生きているものとして保ち続けたいがためではないのか。オルバート様の未来が暗いものであると、他の誰でもなく俺こそが信じたくないからではないのか。
ポタ、と俺の頬に滴が落下した。二つ、三つと増えていき、目の前の華奢な肩は震えている。ふと、幼い頃の記憶を思い出した。母さんの遺体が燃えている間、俺はずっと泣いていた。声を出すな、泣くな、と教えられてきたのに、俺は涙を堪えることができないでいた。すると、父さんは俺を抱き寄せてくれた。そのときだけは、その体の温もりを俺に分けてくれた。もしかしたら、ユーリルもそうなのかもしれない。俺と同じ、大切な誰かを亡くした者なのかもしれない。この涙は、その記憶を思い出したがゆえなのかもしれない。
俺はユーリルを引き寄せた。俺に覆いかぶさるように、その頭を俺の肩に乗せた。ユーリルは、俺を押さえていた両手に力を込めた。静寂が満ちた部屋で、たった二人で息をする。自分の死が誰かの悲しみを呼ぶと、俺はこのとき初めて知った。
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