第36話 十八歳⑪

「ツヴァイン侯爵令嬢!」


 俺は叫んだ。化け物、いや、ヴォルケから目を逸らさないまま、ヒロインを助ける役割の人を呼んだ。


「何!?」

「何人連れて離脱できますか!?」

「……ルツィアとライシャが限界よ!」

「構いません!」


 俺はライシャ様を強引に立たせ、数歩離れたツヴァイン侯爵令嬢のもとへ連れていった。ツヴァイン侯爵令嬢はライシャ様とツーヴィア公爵令嬢の腕を両腕で抱え込み、三人でぎゅっとまとまる。往路に向かって駆け出した直後、暴風と共にその体はわずかに飛んだ。跳躍、という程度の高さだが、下り坂を素早く抜けるためには十分な魔法だ。リュード、とライシャ様が呼びかけたような気もするが、俺には仕事が残っている。


 バキッ、と木の幹が裂ける音がした。ヴォルケがその大きな頭を振り、オルバート様をなぎ払おうとしたようだ。ユーリルに行動を制御されながら、オルバート様はヴォルケの左側面へ抜け、グリック殿下たちのところへたどり着いた。右側面にいる俺は、他の全員と分断されたことになる。何でこっちに、と近衛騎士の一人が苦情を言いかけるが、ヴォルケの尾が向かってきたので剣で応戦し口を閉じた。ガガガ、と鱗が削れる音がする。


「近衛騎士!三人を連れて復路から脱出!先輩!動けますか!?」

「問題無い!」


 復路はこの場所の奥側に入り口があるので、オルバート様たちの現在地からは往路の出口よりも近い。だが、ヴォルケは黙って見過ごしてはくれなかった。体の左側にある目が標的を捉えているのだろう、尾を的確に振り下ろしていく。脱出地点は目と鼻の先なのに、ヴォルケの攻撃が邪魔でオルバート様たちはそれ以上進めないようだ。俺は袖からナイフを取り出し、一息に駆けた。裂傷を負った背中はひどく痛むが、気にしていたらオルバート様が死ぬ。太い右後ろ足の付け根を狙い、刃を立てて突き刺す。ところが、鱗に阻まれ肉を裂くことは叶わなかった。勢いを付けていたせいで俺の手は止まらず、ガキンッ、とナイフの刃が折れた。当のヴォルケは、それが刺さったままだろうが痛くもかゆくもなさそうだ。それならば、と俺は新たな刃物でその目の一つを突き刺した。

「アァぁァ!!いタい!いたイ!」

「今だ!押せ!!」

 ヴォルケは絶叫して攻撃の手を緩めた。その隙を逃さず、近衛騎士の何人かは剣を尾に突き刺して力任せに突進する。そもそも比重が尾に大きく取られているのだろう、大きな体はいとも簡単に右側に倒れた。オルバート様たちが復路の入り口に駆け込むと同時に、俺も合流してユーリルと共にオルバート様の壁になった。すかさず、ユーリルがヴォルケの腹部に六本のニードルを投擲する。腹は比較的に柔らかいらしく、浅いながらもなんとか刺さった。刺し傷から、なぜか緑色の液体が漏れ始めている。神経毒だとユーリルは短く解説した。要するに、触ったらただでは済まないという警告だ。ただし、ヴォルケに効くかは分からない。


「リュード、背中が……!」

「大丈夫です。オルバート様は逃げてくだ……」


 ──ボコッ、と盛り上がった、地面。ヴォルケの尾を串刺ししていた二人の近衛騎士は、突如現れた土の膨らみによって弾き飛ばされた。木の幹に叩きつけられ、ぐしゃりと地面に落下する。

 ドッ、ドッ、と次々に土の柱が地面から飛び出した。先端が丸く、魔法としては初心者の荒削りにも思えるが、それなりの速度をもって突き上げられればこちらは堪ったものではない。脱出経路を理解しているのか、それらはとりわけ復路のほうで現れた。壁になっていた近衛騎士の二人がグリック殿下とサイオン様を引き戻させ、オルバート様も後退を余儀無くされる。


 刹那、一際巨大な土の塊がグリック殿下の足下に現れた。それは近衛騎士との間を貫き、俺は咄嗟にグリック殿下とサイオン様の腕を強く引く。オルバート様諸共背後に転んだ二人に覆いかぶさり、反撃の姿勢を取った。頭がくらくらとする。血を流しすぎたかもしれない。気を失いそうになるが、歯を食いしばって耐える。


 復路は土の剣山によって阻まれている。この狭い場所にこれほど大きな敵がいるのでは、三人を逃がそうとしても一筋縄ではいかない。殺してこの場を制する、その一択だ。俺は通算三本目のナイフを取り出し、右手で構える――まるで、グリック殿下の首をかっ切ろうとしているかのように。──直後、銀色の輝きが俺の右手首を下から襲った。


「……!」


 切られた、そう認識した視界に映る、近衛騎士の一人。一部始終を見ていたのだろう、グリック殿下は息を呑んだ。しかし、喋ろうとした口はヴォルケの復活によって閉ざされる。のっそりとした動きでヴォルケはあとずさり、改めてこちらを正面に見据える。


「あアアァァァ!!」

「!」

「ユーリル!!」


 ヴォルケは頭を力強く振った。偶然にもオルバート様たちは伏せていたが、今の一件に気を取られてしまったのだろう、中腰だったユーリルはその攻撃をもろに食らった。バシンッ、と人と樹木の衝突ではまず生じないような衝撃の後、細身の体は地面に膝を突いた。うずくまらないのは、雇われた暗殺者としての矜持だろうか。


 俺の右手首は、幸いにも浅い切り傷で済んでいた。ユーリルのグローブが肌を守ってくれたらしい。大丈夫だ。まだ戦える。


「殿下、お逃げください!!」


 近衛騎士が二人、ヴォルケの両前足にそれぞれ剣を振るった。俺のナイフでは無理だが、この広幅で頑丈な剣なら深く切り込めるらしい。体ごと押し込み、わずかずつその巨体を押し返していく。足が千切れるのが先か、近衛騎士が投げ飛ばされるのが先か。


 ヴォルケの吐息は、熱かった。人が高熱にうなされているときのような、合わない焦点でオルバート様をじっと見ていた。ヴォルケ、とオルバート様が震える声で呼びかける。


「オるバぁト」

「……」

「――コろス、ゆルす」

「……!」


 ヴォルケが笑った、気がした。


「……リュード……」

「はい」


 オルバート様は、涙を流していた。気丈にも立ち上がり、グリック殿下とサイオン様を連れて後方に下がりながら言う。


「……死なせてやってくれ……」

「──はい」


 瞬間、ガァ、とヴォルケは叫んだ。直前までの理性は跡形も無く消え去り、野性だけがその身を動かしているのだろう。右足に張りついている近衛騎士を大きな口でくわえ、ぶんっ、と投げ飛ばした。近衛騎士は剣を強く握っていたが、それも抜けて人は茂みへ、剣はサイオン様の足下に落下した。ヴォルケは、左足にいたもう一人もくわえようと顔を傾ける。──ぐるぐるっ、とその太い首にロープが巻きついた。


「先輩!!」


 ユーリルの合図と同時に、ぐんっ、とヴォルケの頭部は強く後ろに反り返った。見れば、ユーリルはヴォルケの背後にある樹木の幹を駆け上り、枝をまたいで地面に飛び降りることでヴォルケの重心を崩そうと試みている。だが、いかんせん重さが足りない。引き合いになったら、ユーリルに勝ち目は無いだろう。俺がそう危惧した直後、ドンッ、とヴォルケの喉元を土の柱が突き上げた。この場で魔法を使える人は、オルバート様しかいない。


「リュード!!」


 サイオン様が俺に剣を投げて寄越した。近衛騎士だけが使える、きっと国一番の武器だ。硬い皮膚を切り裂いたにも関わらず、刃こぼれは一切見られない。血に濡れたそれは、俺が愛用している武器よりもずっしりと重い。大丈夫、殺せる、と俺は目の前の敵を真っ直ぐに見詰めた。


 気づけば、ユーリルが引いているロープには復活した近衛騎士二人の重さも加わっていた。ヴォルケの背は十分に反らされ、ニードルが突き刺さった腹もさらされている。俺は後ろにあった樹木を駆け上がり、宙返りをすると共に剣を高く構えた。雄叫びなどしない。悲鳴も上げさせず、一瞬のうちに息の根を止めるのが暗殺という技術だ。

 ──ザクッ、と、長くも短くも感じられる音がした。ぱっくりと縦に空いた腹から、ブシュッ、と大量の血液が放出された。俺は剣を手から放し、一歩、一歩と遅々とした歩みでヴォルケの陰から出た。直後に響く、死体が倒れ込む大きな音。――脱力した俺は、うつ伏せに倒れた。


「リュード!!」


 俺を呼んだのは、オルバート様だろうか。音が頭蓋骨で反響して、誰の声か定かでない。それに、足の先が少しだけ寒い。鉄の臭いがする。当たり前か、ヴォルケの血をあれだけ浴びたのだから。


「──近衛騎士に命じる!」


 ふと、厳しい声が鼓膜を揺らした。同時に、誰かが俺の背中を強く押さえている。それよりも、ユーリルは無事だろうか。近衛騎士と違い、ユーリルは鎧や防具を身に着けていない。最後に見た姿は、髪がほどけて口元に血が付いていた。もし死んでしまっていたら、俺は一体誰に罪を償えばいいのだろうか。


「この場にいる全員を、俺と同等の身分として扱え!リュードとユーリルも含めてだ!絶対に死なせるな!!」


 誰かが怒っている。いや、泣いているのだろうか。大丈夫です、と言いたい。何もかも、あなたのせいではないのだと伝えたい。


「……オ、ルバート、様……」

「何だ?どうすればいい?」

「オルバート様のせいじゃ、ありません……」

「……何を言って……」

「グリック殿下。……オルバート様は、悪くないので……嫌いに、ならないで……」


 ください、と言えたかどうか、俺には分からない。それでも、聞いてほしい言葉は全て言えたと思う。オルバート様は何も悪くない。この悲劇の原因は、オルバート様ではない。俺はユーリルの無事を確かめられないまま、いつの間にか意識を手放していた。

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