第35話 十八歳⑩
下準備を済ませた同日の昼過ぎ。学生たちは、各々で準備した運動着を着て森の入り口に集まっている。初めに教師からの説明や注意があり、一グループごとにタイミングをずらして探索を始めるという流れだ。全クラス合同であることもあり、オルバート様たちは三番目の出発となっている。
オルバート様とライシャ様は、ユーリルからお揃いの黒手袋をもらった。分厚い生地が日光をてらてらと反射しており、丈は手首をすっぽりと覆う程度だ。
「特殊な革でできてるので、ナイフの……」
んん、と俺は咳払いをした。俺が言えた口ではないが、二人の前で物騒な話をしないでほしい。
「……えーと、強い切り傷の一発なら防げます。サイズ、大丈夫ですか?」
「ああ、問題無い。ありがとう」
「私も大丈夫だよ。用意してくれてありがとう」
「いえ。先輩もちゃんと着けてくださいね」
「うん」
オルバート様がそわそわと周囲を見回しているのが気に掛かり、俺はその耳元に口を寄せた。
「何か気になりますか?」
「いや、ヴォルケを最近見てないんだ。他にも、いつも外にいる魔獣が何体かいない」
ヴォルケというのは、ヴァルド学院に住み着いている魔獣のうちでも特にオルバート様に懐いている個体だ。細身のイグアナのような容姿を持つランツィオという種で、全身を覆う硬い皮膚が特徴的だと言える。確かに、ここ数日は朝も夕方も見かけていない。俺はあまり気にしていなかったが、オルバート様は心配になっているようだ。俺が念のためライシャ様とユーリルにも聞いてみると、二人共ここしばらくは見ていないとのことだった。今日の放課後に探してみましょう、と言えば、オルバート様は釈然としない様子で頷く。
「オルバートはこのような経験はあるか?」
そう話しかけたのは、グリック殿下だ。聞けば、王族や貴族には狐狩りで森に親しむ者もいるらしい。グリック殿下もその一人だそうだ。
「俺は初めてだ。慣れてるからと言って、一人でどんどん進まないでくれ」
「言われずとも、森ではぐれるのは危険だからな。サイオン、やはり経験しておいたほうが良かっただろう?」
「ただの散歩なら行ったよ。けれど、グリックは狐狩りでしか森に行かないから……。ファイアン公爵令嬢は怖くないの?」
「ちょっとだけ怖いかな。でも、リュードとユーリルがいるから大丈夫だよ」
サイオン様に同意を返し、ライシャ様は俺とユーリルににっこりと笑いかけた。今は髪型をいわゆるポニーテールにしているので、頭を動かす度に毛先が揺れて可憐だ。一方、信頼しているんだな、とグリック殿下は呆けた風に感想を述べる。俺としては身に余る光栄であり、ユーリルはぱちくりと目を瞬いていた。次いで、頑張ります、となんとも気合が感じられない声を発する。すると、今度はツーヴィア公爵令嬢が小さく笑った。
「グリック殿下は勇敢なのねぇ。私とペティカも森にはよく入るけれど、いつも木苺狩りだわ」
「ルツィア、今日は本当に離れないでちょうだい。知らない森で迷子になったら大変よ」
「ええ、もちろん」
その穏やかな返答はこちらの不安を煽るのだが、自覚は無いのだろうか。どうやら、今日はツーヴィア公爵令嬢の子守もしなくてはいけないようだ。ツヴァイン侯爵令嬢を侮っているわけでは断じてないものの、監視の目は多ければ多いほど効果的だろう。誰か一人が欠けた際、人数が多いせいでしばらくは気づかないかもしれない。ツーヴィア公爵令嬢自身もいなくなることを見越しているのか、目立つライトブルーの上着を羽織っているのはありがたい。
そうこうしているうちに、オルバート様たちの出発の番が来た。基本的には二列縦隊で進むように言われているので、先頭から、近衛騎士が二人、グリック殿下とサイオン様、もう二人の近衛騎士、オルバート様とユーリル、ライシャ様と俺、ツーヴィア公爵令嬢とツヴァイン侯爵令嬢という順で並ぶ。オルバート様とライシャ様を並ばせてあげられれば良かったが、万が一の危険を考慮してやめてもらった。俺とユーリルは斜めになるよう位置を取っているので、左右前後どこで何が起きても対応可能というわけだ。前方には近衛騎士がいるとは言え、この四人の保護対象はあくまでグリック殿下なのだ、オルバート様に被害が及ばないとは言えない。
今朝掃除しておいたおかげで、道中は平穏そのものだった。誰かがツタに足を引っかけることもなければ、巣から飛び出した蜂に刺されることもない。もちろん、負傷したときの備えはある程度してある。近衛騎士はどうか知らないが、俺とユーリルはウエストポーチに包帯やロープを入れている。オルバート様からは過剰だと苦笑されてしまったが、少なくとも俺は万全の準備をしてから事に臨みたいのだから仕方無い。
植生などの記録を取りながら、山道をどんどんと進んでいく。途中で一度休憩を挟み、緩やかな斜面をまた登る。往路と復路は別ルートなので、先発のグループとすれ違うことはない。オルバート様たちは、ようやく折り返し地点にたどり着いた。
「サイオン、大丈夫か?」
「……う、うん……ごめんね……」
予想通りと言うべきか意外と言うべきか、最も疲れ果てているのはサイオン様だった。座学ばかりしてきた身らしく、ライシャ様よりも音を上げるのが早い。ぜぇ、ぜぇ、と肩で息をし、辛うじて最奥の丸太に座り込んでいる。グリック殿下は、その隣に腰を下ろしてサイオン様の背をさすった。
一方、オルバート様は少し離れた場所で頭上を見上げた。その手が伸びる前に、ユーリルが木の枝に結わえられている赤色のハンカチを取る。全員が視認したのを見計らい、畳んでウエストポーチにしまった。
ツーヴィア公爵令嬢とツヴァイン侯爵令嬢は、往路の出口に面したライシャ様と俺の少し先で談笑に興じている。どうやら、故郷では見ない生き物への関心が尽きないようだ。
「ねぇ、リュード」
不意に、ライシャ様のマゼンタの虹彩は俺を見た。また、どこか不安げな表情で辺りを見回している。
「やけに静かじゃない?さっきまでは鳥も魔獣もいたのに、ここは鳴き声もしないなんて……」
「……確かにそうですね」
俺も周りを見渡した。ここまでの道では、小動物や魔獣の姿が所々に見えた。しかし、現在は静寂が辺りを包んでいる。周囲では木々が鬱蒼と葉を茂らせ、奥のほうはよく見えない。心臓の底から、言い知れない不安がどくどくと流れ出てくる。右向こうにいたユーリルに目配せすると、オルバート様を伴ってこちらに来た。何かあったのか、とオルバート様が尋ねるので、ライシャ様は今しがた俺に話した所感を明かす。
──バキバキッ、と枝を踏み荒らす音がした。
「何か来ます!」
そう警告したのは、俺か、ユーリルか。とにかく、人畜無害な動物や魔獣が立てる足音ではない。俺の正面に当たる森の奥深くから、それは段々とこちらに接近している。距離が縮まるほど、殺気にも似た重い空気が辺りを漂う。俺は、この空気をいつかに感じている。果たして、いつのことだろうか。母さんを殺したときだろうか。父さんを殺したときだろうか。いや、そう昔のことではない。初めてジャウラット教授に会った際、消えていくあの人がまとった空気だ。恐らく、魔力の厚み。
樹木同士の隙間を押し通るようにして、それは現れた。灰色の体は鱗で覆われ、顔だけでなく胴体にも眼球らしき器官がぼこぼこと点在している。表現するなら、体を何倍にも大きくしたワニだろうか。ただし、その四つ足は地面から体を確実に持ち上げており、体高は二メートル近くありそうだ。向かい合っている状況では正確に知るべくもないが、頭から尾までの長さはそれ以上だろう。一歩、一歩と前に進んでいるにも関わらず、左右に揺れる尾は未だに木々の間から脱していないのか、バシン、バシン、と強力な音が鳴り響く。
嘘だ、と俺は思った。頭の片隅で予想していたことなのに、現実を認めたくなかった。相対するには、あまりに恐ろしい。
ぐぐ、と化け物の右足は上がった。
「!」
俺とユーリルは、左右に大きく飛び出た。俺はライシャ様を抱えて左に、ユーリルはオルバート様を抱えて右に。ほぼ同時に化け物の右足が外側に振り下ろされ、ザシュッ、と俺の背中から鳴ってはいけない音がした。熱い。ライシャ様を助けるため、火の手が上がる屋敷に飛び込んだことを思い出す。回想に脳裏を消費しつつも、俺は冷静に思考した。背中に触れれば、ぬめり、とできれば味わいたくない感触が分かる。
ガァァァ、と化け物の咆哮が空気をびりびりと揺らした。十にも上る目玉はぎょろぎょろと回り、襲撃対象を漏らさず把握している。そして、その牙はぎらぎらと輝いた。
「オ……バーと……」
「……!」
「コろす……オるばート……ホしイ……」
「……ヴォルケ……?」
ノイズが走った機械音声のごとく、化け物の声は不安定に言葉を紡ぐ。己の名前を聞き取ってしまったオルバート様は、小さな声で化け物の名を呼んだ。
あぁ、そうか、と俺は今更に理解した。この世界は、やはり物語そのものだ。グリック殿下がライシャ様に恋をしたのも、ライシャ様がオルバート様だけでなくグリック殿下とも踊ったのも、野外研修が一年早まったのも、全てが物語の通りだ。この世界に、ヒロインはいないのではない。──この世界のヒロインは、ライシャ様だ。
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