第32話 十八歳⑦
十八歳、春。冬休みが明けると、三月のみ学業に勤しめば四月からは春休みとなる。俺は後期学力試験をどうにかこうにか乗り越え、春休みに入り次第、オルバート様たちと共に王都のギアシュヴィール公爵邸へと帰った。冬休み中はゆっくりと過ごさなかったので、旦那様も奥様もそれは嬉しそうに息子たちを出迎えた。八歳のウィスティア様も、帰宅した兄と義姉に大喜びで抱き着いていた。微笑ましい、家族の平和な日常。毎日揃って食卓を囲み、時には広い庭園でピクニックを楽しむ。俺とユーリルは必ずその場に控え、オルバート様とライシャ様の笑顔を黙って見守る。穏やかで、何物にも代えがたい日々。
丸々三ヶ月王都に顔を出していなかったおかげか、ライシャ様とグリック殿下の噂はあらかた鎮火していた。オルバート様はそれを蒸し返すことなく、グリック殿下と親しげに接した。グリック殿下もまた、オルバート様にとって大切な友人だと言える。
四月上旬のある昼過ぎ、オルバート様とライシャ様は王都の商業区を訪れている。街路樹に沿って様々な店が並び、多くの貴族や豪商で賑わう街だ。その中心に位置する噴水の前で、二人はグリック殿下とサイオン様を迎えた。
「待たせてすまない」
「いや、俺たちも今来たところだ」
今日、オルバート様たち四人はこの街で遊ぶ約束をしていた。もちろん、俺とユーリルと近衛騎士を連れている。せっかく友人になり騒動も収まったからようやく、というわけだ。非日常的な出来事に浮かれているのか、四人共どこか緩んだ空気を醸し出している。
グリック殿下の視線は、ライシャ様に移った。
「ファイアンは紫も似合うな。かわいらしいと思う」
「ありがとう」
今日のライシャ様は、藤色のワンピースを着て麦わら帽子をかぶっている。生地のギンガムチェックが春らしい軽やかな印象を成しており、ふんわりと編まれたお下げ髪もあって愛らしい。ちなみに、この髪型を作ったのはユーリルだ。学院ではハーフアップかポニーテールが主だが、デートのときはここぞとばかりに腕に力を入れるらしい。イルナティリスでの旅行中も、サイドテールだったり編み込みだったりとほぼ毎日異なるヘアアレンジをしていた。呆れるくらい手先が器用な侍女だ。
近くに人がいないときに限るが、グリック殿下はこうしてライシャ様を称える。その際の双眸は必ず柔らかく、ライシャ様がその気持ちに気づかないのが不思議なほど。しかし、オルバート様の前で正々堂々とするのはグリック殿下の美徳だろう。これからも真摯な人であってほしいものだ。
オルバート様の魔王化に備え、グリック殿下にはオルバート様と友好的な関係を築いてもらわなくてはならない。グリック殿下は、魔力を吸収する宝具を振るう権利を持っている。その刃が魔王化したオルバート様に向けられれば、オルバート様は物語通り世界からいなくなってしまうだろう。現世でオルバート様が人の道を外れてしまった場合、グリック殿下には宝具を使わない解決策を考えてもらいたい。そのためには、オルバート様への決して小さくない情が必要不可欠だ。逆に、オルバート様もグリック殿下たちを攻撃してもらっては困る。この二人は、お互いのために健全な関係を保つべきだ。
遅めの昼食を食べた後、四人は連なる店先を順々に回り始めた。刺繍入りのハンカチが売られている店や、アイスクリーム屋、小動物の見世物小屋など、疲れないようペース配分は考えつつも熱心に覗いている。グリック殿下の顔が知れ渡っているからだろうが、他の客が何とは言わないものの遠慮して道を空けるので、護衛であるこちらとしても周囲を見渡せて助かる。
ふと、オルバート様は視線で俺を呼んだ。
「ライシャが林檎飴を食べたいそうなんだが、並んでくれるか?」
「分かりました。四つでいいですか?」
「ああ。頼む」
林檎飴の屋台では、五組程度が列を成していた。俺はその最後尾に立ち、自分の番になるのを黙って待つ。一方、オルバート様たちは近くの広場に移動していった。そこのベンチでしばしの休憩を取るらしい。
「四つお願いします」
「四つですね。お代はこちらにどうぞ」
店員から渡された林檎飴は、握り拳くらいの小さなものだった。ただし飴のコーティングはつやつやと輝いており、透過された赤色もとてもきれいだ。甘い匂いが漂い、仕事中にも関わらず食欲が刺激されてしまう。俺はそれらを慎重に受けとり、視線を広場へと戻す。──ところが、視界にオルバート様たちは映らなかった。代わりにあるのは、かき分けるのをためらってしまうほどの人混みだ。無論、そこで諦めるわけがない。人の波を縫って進んでいくうちに、この広場で曲芸団の公演が始まったことが分かった。どうりで人々が急に集まったわけだ。
特に王族や高位貴族の者は、基本的には人混みを避けるようにして行動する。と言うのも、身動きできない状況では危険から逃れられないし、護衛と引き離される場合も考えられるからだ。すなわち、オルバート様たちはやはり場所を移動していた。今日のプランは行き当たりばったりなので、この後どこに行くかは聞いていない。果たして、俺はどうするべきか。
しかし、人々の裂け目からこちらに向かってくる存在が現れた。
「サイオン様……?」
「良かった……。行き違いになったかと思った」
茶色を混ぜたような赤髪と、きらきらと透き通った黄色の双眸。丸眼鏡を掛けていっそうあどけないその顔は、不安げな表情を一瞬で安堵なそれに変えた。次いできょろきょろと辺りを見回したかと思えば、やっぱりか、と呟く。俺が様子を窺っていると、なぜか申し訳無さそうに眉尻を下げられた。
「近衛騎士の一人がリュードを迎えに行ったはずなんだ……実際は来ていないみたいだけれど」
「あぁ……。お気遣いありがとうございます」
なるほど、と俺は概ね察した。グリック殿下に付いている近衛騎士たちは、俺とユーリルを良く思っていない。それは俺たちが平民のくせに公爵家子女に優遇されているせいでもあり、足を洗ったとは言え暗殺者という経歴を持っているせいでもある。オルバート様とライシャ様を敬ってくれはするものの、俺とユーリルを婉曲的に排除しようとしている。俺はそこに反発心は覚えないが、ここまで直接的なことをするのはさすがにやりすぎではないだろうか。大方、俺と行き違ったという体でグリック殿下のもとに戻っているだろう。尤も、ユーリルが側にいるから大丈夫だと思うが。
それよりも、問題は一人でここまで来たサイオン様だ。
「恐れ入りますが、サイオン様もお一人では行動されないほうがよろしいかと思います。護衛をお連れでないのでしたら、グリック殿下のお側にいらっしゃるのが安心でしょう」
俺が苦言を呈すると、サイオン様は苦笑した。そうだね、胸に刻んでおく、とは言うが、これは確実に反省していない。侍従の言葉に耳など貸すか、という意図ではないだろう。心の底から、自分には関係ないと思い込んでいる者の表情をしている。
「……」
「ほら、僕たちも行こう。グリックたちはこっちに行ったよ」
「はい」
広場を出て、これまでよりも店のランクが上がった通りに足を踏み入れる。ここから先に並んでいるのは、正真正銘の上流階級の人しか訪れないような高級ブティックや宝石店だ。王都の中心である王城に最も近く、社交界が盛り上がる春から夏に最盛期を迎える場所。この辺りには窓ガラスで店内を覗ける店がほとんど無いので、どこかの店に入ってしまっているとしたら人を探すのは困難だ。
「サイオン様、皆様はどちらのお店に向かわれたのでしょうか?」
「……」
「……?」
「……分からない……」
「え?」
ぴたり、とサイオン様は足を止め、こわごわと俺を見上げた。
「どこに行くかは聞き忘れた……。ごめん……」
「……。では、しらみ潰しに探しましょう」
嘘でしょう、と言わなかった俺は大したものだと思う。薄々感じていたが、サイオン様はどこか詰めが甘いと言うべきか、少なくともオルバート様のような賢い貴族では決してない。グリック殿下が心配なあまり廊下で右往左往していたことも然り、グリック殿下の失態をオルバート様に伝え遅れたことも然り。果たして、この調子でこれからグリック殿下を支えていけるのだろうか。
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