第31話 十八歳⑥
ツヴァイン侯爵令嬢に連れていかれた先は、キッチンだった。ただし屋敷の料理人が働くような部屋ではなく、デザイン性が重視されたかわいらしい所だ。不思議に思っていると、ここは貴族が趣味や祭事で使うための場所だと言う。イルナティリスの貴族は土着性が強いゆえ、祭りで食べるケーキなどを貴族自らが振る舞うことが常らしい。どうやら、ツーヴィア公爵令嬢もツヴァイン侯爵令嬢もお菓子作りは得意であるようだ。
ツヴァイン侯爵令嬢は、てきぱきと紅茶を用意した。俺がやると申し出るも、使い勝手を分かっている自分のほうが早いからと流された。その言葉通り、ツヴァイン侯爵令嬢が入れた紅茶は色味も香りも申し分ない。就寝前だからだろう、ハーブの爽やかな匂いが湯気と共に立ち昇っている。調理台に寄せた椅子を勧められ、俺は恭しく、ユーリルは遠慮無く座った。ツヴァイン侯爵令嬢も腰を下ろし、ぴんと背筋を伸ばしてティーカップを口に持っていく。後ろめたさを忘れてしまうほど、静かで洗練されたティータイムだ。
「さて、聞かせてもらいましょうか。何が気になったの?」
「……ツヴァイン侯爵令息が……ジャウラット教授と同一人物ではないかと、考えました」
「どうして?」
「顔立ちが非常に似ておられます。また、ジャウラット教授の研究も恐らく魔獣を中心としたものです」
「……それだけなら、弱いわよ」
「承知しています。──ですが、ツヴァイン侯爵令嬢もそうお考えなのでは?」
俺がずけずけと指摘すれば、ツヴァイン侯爵令嬢は黙り込んだ。図星なのだろう。俺がそう感じた根拠は、仮説を口にしたときの反応だ。通常なら信じられない想定なのに、ツヴァイン侯爵令嬢は否定するのではなく理由を知りたがった。それは、己の他に賛同者を見つけたいがためではないか。それに、ツヴァイン侯爵令嬢はジャウラット教授と何度も対面している。少なくとも十年は一緒に過ごしてきた兄に似た人だと、もしかしたら本人かもしれないと思っているのが自然だ。
ツヴァイン侯爵令嬢は、紅茶を一口飲んだ。俺からは目を逸らし、諦めたように口を開く。
「顔のパーツがよく似ているし、声も同じなのよ」
「ツーヴィア公爵令嬢はご存知なのでしょうか?」
「同じことを考えているでしょうね。けれど、だからと言ってどうしようもないのよ」
「……」
「ジャウラット教授は私たちをあからさまに避けているわ。もしジャウラット教授が兄様だとするなら、私たちにはもう会いたくないということでしょう?それに……」
一旦、ツヴァイン侯爵令嬢は息を止めた。ティーカップをつまむその指先は震えている。悲しみではないだろう。これは、恐れだ。
「別人なのよ。あの人は絶対に兄様じゃないわ。兄様かもしれないけれど、同時に兄様ではないのよ」
「……その理由をお聞かせ願えますか?」
「──あれは人じゃないわ」
しん、と静まり返る、狭い部屋。確信を内包した声は、禍々しい空気を作り出した。照明は全て灯っているにも関わらず、まるでろうそく一本の光だけを囲み朝を待つかのごとく。人、というのは、人類と魔族の両方を指す言葉だ。それでないと言うのなら、ジャウラット教授の正体とは。
ツヴァイン侯爵令嬢は、一言も喋らなくなった。俺も口をつぐんだ。いや、何と言えばいいか分からなかった。否定するには心当たりが大きかったし、肯定するには輪郭が曖昧だった。静寂だけが笑うこの瞬間を壊すには、勇気が足りない。
──カチャン、と持ち上げられた、隣のティーカップ。
「聞いてみたんですか?」
俺の隣、ツヴァイン侯爵令嬢の正面に座るユーリルは、澄ました顔で尋ねた。その表情には恐れも呆れも無く、ただ現状を分析している。長い睫毛の下、かすんだ紫の双眸は現実を淡々と見詰めている。
「全部、二人の想像でしかないですよね?と言うか、シドラ・ジャウラットが人類でも魔族でもない化け物だとしたら、こっちとしても何もしないわけにはいかないんですよ」
「どういう意味?」
「──ライシャ様とオルバート様に危険が及ぶなら、殺します」
「嫌よ!!」
バンッ、とツヴァイン侯爵令嬢は調理台を両手で叩いた。同時に立ち上がり、ユーリルを強い眼差しで見詰め返した。はらりとその肩をすべったストールは、音も無く床に舞い落ちる。二人の少女の間で、友人らしからぬ視線が交差する。冗談にしても不謹慎よ、という苦言に対し、本気です、と取りつく島もない声色。
不意に、ユーリルは俺を見た。そうですよね、とその薄い唇は平然と動いた。ユーリルは俺とは違う。正真正銘暗殺者として生きてきて、何人も人を殺してきた。兄弟で殺し合いをしていたのだから、やらねばやられるという「常識」は心の深くまで根づいているだろう。そして、半人前の俺はその忠言を聞き届ける必要がある。だが、それでも。
「……ジャウラット教授は殺せない」
「先輩はそうでも、私はできます」
「そうじゃなくて、ジャウラット教授は生かしておきたい。殺すのは駄目だ」
「……納得できません」
それはそうだろう。俺はその理由を打ち明けていないし、そうするつもりもない。
ユーリルと知り合って間もなく、前世の記憶を共有しようか迷っていた時期がある。しかし、一週間と経たないうちにやめた。ユーリルを信用に値しないと判断したのではない、臆病者である俺は、調子に乗って物語の枠組みが壊れることを危ぶんだからだ。きっと、俺は唯一の綻びだ。その狭間を無理矢理に押し広げようとしたら、この世界の定めは別の道をたどるだろう。そうしたら、俺にできることは何も無い。ある日突然オルバート様を不幸に突き落とすなど、俺は死んでもごめんだった。そうするくらいなら俺一人で全てを抱えて、立ちはだかる全部を薙ぎ払ってみせる。
はぁ、とユーリルは溜め息を吐いた。それに反発の色は見られない。とりあえずは、先輩である俺の意見を受け入れてくれるようだ。それを汲み取ったのだろう、ツヴァイン侯爵令嬢も怒気を収めて再び椅子に座った。場が落ち着いたところで、俺は思考を冷静に切り替える。
「殺しはしませんが、本人に直接確認するのは尤もだと思います。私からジャウラット教授にお聞きしてもよろしいでしょうか?」
「会えないと思うわよ、授業以外で会えた試しがないもの」
「そのときは別の手を考えます」
その後、ツヴァイン侯爵令嬢を部屋まで送ってお開きとなった。怒鳴ってごめんなさいね、とユーリルに言っていた辺り、ツヴァイン侯爵令嬢はとても理性的な人らしい。いえ、とユーリルは短く返していた。実際、思うところは何も無かったのだろう。俺とユーリルもそれぞれの続き部屋へと戻り、夜が明けるまでの短い時間を静粛に過ごした。
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