第25話 十七歳⑯

 コン、コン、と礼儀正しくドアを叩いた。数秒待っても返事が無いので、リュード・トークルです、と名乗る。夏休みが明けてから一ヶ月間、この部屋の主が応答したことは一度たりとてない。留守にしているのか、俺への興味をとっくに無くしたのか。そう悶々と考えていると、入りたまえ、と室内から横柄な声がした。


「失礼します」

「やぁ、やぁ!やはり謎が気になって来てしまったかい?座りたまえ。紅茶に砂糖は入れるかい?」

「いえ、お構いなく」


 ジャウラット教授は、L字型のテーブルの向こう側に座っていた。安楽椅子なのか、ギィ、ギィ、と不快な音を繰り返し鳴らしながら、面白がっている笑みで俺を見上げている。闇を連想させる真っ黒な髪、強欲な獣の双眸を思わせる薄橙の虹彩。会うのが二回目だろうと、まとう恐ろしさは微塵も薄まらない。徐に頬杖を突く動作さえ、俺の目には襲撃の予備動作に見える。それゆえ、俺は立ったまま話を始めた。


「透明化について、推測を立てました。──光を曲げているのではありませんか?」


 端的に、簡潔に。俺は捕食者ではなく、食われる側だ。余計な動きを入れれば、瞬く間に絡め取られてしまうかもしれない。

 へぇ、とジャウラット教授は目を細めた。


「どうしてそう思ったんだい?」

「魔法の定義は、魔力をもって自然に介入することだそうですね。であれば、光もまた例外ではないのではないかと。影が黒く見えるのと同様に、光が当たらなければ人は視認できません」


 パラソルの下にあるベンチは本来よりもくすんで見えるように、人は照らされていないものを目に捉えられない。また、ジャウラット教授が透明化の魔法を発動した際の気配も気掛かりだった。オルバート様が空気に魔力を組み込んだように、光という不定形なものも魔力で操ることができるのではないかと俺は考えた。あのときに漂ったあれは、光の線を曲げるための、いわば魔力でできた道だったのではないか。ジャウラット教授の背後には光が当たるようにしておけば、ジャウラット教授を通り越して背景が目に映る。もっと科学的に論じろと言われてしまうと困るが、大筋はこれで合っているだろう。そう思った通り、ジャウラット教授は破顔した。


「賢いね、君は!正解だよ。尤も、魔獣も同じ過程で透明化しているとは限らないが」


 ジャウラット教授は立ち上がった。靴底の素材がそうさせるのか、ほぼ聞こえない足音で俺の前に来る。その背丈はオルバート様よりも低く、俺の口元に頭頂があるほどだ。ただしサイオン様のようなかわいらしさは無く、まるで人の社会に紛れ込んだ吸血鬼かのように不気味な風体。


「さて、さて、君はぼくに何を望んでいるんだい?」

「……万が一の際、協力をお願いしたく思います」

「万が一、とは?」

「我が主に破滅が迫ったときです」


 俺がそう言った直後、ジャウラット教授はぴたりと動きを止めた。


「……具体的には?」

「まだお話しできません。ですが、魔法学者でおられるジャウラット教授のお力が必ず必要になります。どうかお願いします」


 ジャウラット教授は研究者だ。我ながら滑稽な想定だが、オルバート様の末路を打ち明け信じてもらえた場合、わざと魔王化させて研究材料にされるかもしれない。それに、ジャウラット教授を舞台上に連れ出すのはぎりぎりまで待っておきたい。透明化の魔法を発動してしまえる唯一の人など、ストーリーに組み込もうと思ったら間違いなくキーパーソンだ。そこまでの改変は悪手だろう。


「──リュード・トークル」

「!」


 一瞬、誰の声かと思った。それほどまでに、ジャウラット教授はついさっきまでと様変わりしていた。道化師でも悪魔でもなく、亡霊のような表情。長い前髪の奥、どこか作り物染みた眼球が俺をじっと見上げている。


「君は、なぜそこまでしてオルバート・ギアシュヴィールを守ろうとする?」

「……そうしなければならないからです」

「その言葉は、君がぼくと同類だという意味か?」

「……?何をおっしゃっているのか……」


 同類、とは。ジャウラット教授はどう分類されるのだろうか。大人、男性、魔法学者、研究者、教師。社会的身分に沿えば、肩書はいくらでも出てくる。では、俺はどうだろうか。子供、男性、使用人、侍従、学生。特筆すべきジャウラット教授との共通点は無い。そもそも、ジャウラット教授が言う「分類」はこのような意味だろうか。もっと別の、常人には経験しえない観点での話ではないか。


「では、質問を変えよう。人類がなぜ自分たちをそう呼び始めたのか、魔族がなぜ自分たちをそう呼び始めたのか、君は知っているか?」

「いえ、存じません」

「最初はどちらも人だった。それぞれに社会を形成し、小さな交流を重ねていった。ところが、人口が増えるに連れ争いが絶えなくなり、人々は互いに優位性を見出そうとした」

「……」

「そうして考えられたのが、人類と魔族という自称だ。人類は自分たちが人の真祖であると謳い、魔族は自分たちが人の最上位であると驕った。そして、争いはやがて戦争となった」

「……」

「さて、ここで質問だ。君はどうする?この戦争を、君はどうやって終わらせる?」

「人類と魔族は、五十年前に終戦しています」

「本当に?なら、なぜ人は未だに人類と魔族という枠を掲げたまま生きている?我々はまだ何も終わらせていないと同時に、これから終わらせなくてはいけない」


 ゆらり、とジャウラット教授は体を揺らした。両手で頭を押さえ、終わらせなくてはいけない、と何度も繰り返した。氷河から湧き立つ冷気のように、狂気が室内に充満していく。


 知らない。こんな背景は、物語に無い。一体、俺は今脚本のどこを生きているのか。この時間は、尺にどれだけ食い込んでしまっているのか。この人は、果たしてどんな未来を望んでいるのか。それは、物語と本当に関係ないことなのか。


 ──バチンッ、と空気の破裂音がした。うなじに激しい痛みが走り、五感が一気に冴え渡る。


「……!……!」

「……従属の呪いか!掛けたのはオルバート・ギアシュヴィール……まさか、こうなることを予測して?いや、それはさすがにありえない。ということは、それほどまでに気に入っているのか……。──おっと」

「……何、したんですか……!?」


 ドンッ、とテーブルに背中が衝突する音。俺はそのよく動く喉元に、真上からナイフを突きつけた。押し倒された側であるジャウラット教授は、今日一番の笑顔で目を爛々と輝かせている。質疑応答の最中、どのタイミングで攻撃されたのか全く分からない。従属の呪いが抵抗を見せた点を鑑みるに、ジャウラット教授は俺に何らかの魔法を掛けようとした。魔法の発動には魔力を絡めるための準備時間が必要になる。したがって最初の質問の時点で仕掛けていたのか、ジャウラット教授は即時発動が可能なのか。


 なんとか拘束したものの、まだ頭とうなじがずきずきと痛む。正直、立っているのもやっとだ。

 はは、とジャウラット教授は笑った。だらりと垂れていた右腕を上げ、俺に触ろうとする。こちらがそれをすかさずつかめば、相手はいっそう口角を引き上げた。


「今日は帰りたまえ。君との付き合いはぜひとも続けていきたいから、答えが見つからずともまたおいで。君の主のことは、しばらく忘れてしまいそうだ」


 すなわち、脅迫だ。俺がジャウラット教授の興味をそそっている限り、オルバート様に手出しはしないという意味。俺は思わずナイフの柄を強く握り締めた。やはり、早まったのだろうか。今更理解したことに、ジャウラット教授はただの研究中毒者ではない。何か目的があり、そのためにオルバート様を必要としている。物語にこのような状況は無かった。まさか、たどる未来はすでに大きく変わってしまっているのだろうか。しかし、だとしても俺にできることは限られている。他に分かっている事柄が無いなら、俺は物語の結末を阻止するために行動するしかない。


 俺が研究室のドアを閉める間際、ジャウラット教授の体は鮮やかに透けていった。どうやら、一回目のときの魔力の強さは故意だったらしい。俺はジャウラット教授と敵対する危険性を考えようとしたが、あまりの疲労感に思考回路を閉じるほうが早かった。

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