第22話 十七歳⑬

 翌朝、オルバート様は晴れ晴れしい顔つきで寮を出た。見るからに上機嫌で、寄ってくる魔獣へのスキンシップがやや激しい。キュウ、とか、ガウ、とか、魔獣からの熱烈な歓迎に頬を緩めている。


「オルバート様、昨日の電話で何かあったんですか?」


 昨晩、オルバート様は旦那様と電話で話した。俺は少し離れた場所で待機していたが、オルバート様はどこか嬉しそうな様子だった。とても短いやり取りの中で、喜ばしい報告でもあったのだろうか。

 ふふ、とオルバート様は含み笑いをした。


「そうだな。とてもいいことがあった」

「良かったですね」


 俺はその内容を知りたいと思わない。オルバート様が幸せなら、他に何も望まない。


 魔獣を引き連れたまま校舎にたどり着くと、玄関でグリック殿下とサイオン様が立っていた。オルバート様が来ていることに気づいて待っていたようだ。


「おはよう、二人共」

「おはよう。ちょうど良かった。グリックに話があるんだ」

「俺に?」


 ここでは話せないということで、オルバート様たちは談話室まで移動する。無論、予約はしていない。それでもオルバート様は入っていくから、長話するつもりはないのだろう。ドアを閉めると、灰色の双眸はグリック殿下を真っ直ぐに見詰めた。


「──ライシャを困らせたり傷つけたりしないなら、努力してもらって構わない」

「!」

「もちろん、婚約者が俺だということを忘れないのが前提だ。権力を持ち出すのも許さない。だが、友人という立場で頑張るなら止めはしない、邪魔はするかもしれないが」


 そう言って、オルバート様は不敵に笑った。やれるものならやってみろ、と言わんばかりの挑発的な笑みだ。それを目の当たりにしたグリック殿下は瞠目し、サイオン様はおろおろと双方の様子を窺っている。俺も、戸惑いのあまり口をぽかんと開けてしまっていた。

 ゆっくりとした瞬きの後、グリック殿下は息を吸った。


「本気で言っているのか?」

「冗談でこんなことは言わない。奪えるものなら奪ってみればいい」

「……随分と自信があるんだな」

「当たり前だ。十年近く俺はライシャを愛してきたし、ライシャも俺を愛してくれている」


 それは、絶対的な自負。十五歳の青年が言うには気恥ずかしい、けれど十年の絆を持つ青年が言うにはあまりに当たり前な事実。そうか、と俺は思う。オルバート様もライシャ様も、互いに離れようとしたことは一度としてない。アイリーに嫉妬され、アンジアも合わせた二人からいじめを受けていても、オルバート様とライシャ様は婚約を解消したいとは決して言わなかった。常に互いを思い、信じてきた。俺も分かっていたはずだ、たとえオルバート様が人ならざるものになろうと、ライシャ様は絶対にその手を放さないと。たとえ正ヒーローが手を伸ばそうと、ライシャ様はなびかない。なぜなら、ライシャ様はオルバート様を愛しているのだから。


 グリック殿下は、悔しそうに唇を噛んだ。手を出そうと本気で画策していたわけではないだろうが、うっすらと期待していたところに宣戦布告をされては堪らないだろう。たっぷりと考え込んだ後、オルバート様を真っ直ぐに見据えて決意を口にする。


「そういうことなら、私も逃げない。正々堂々挑ませてもらおう」


 その答えに、オルバート様は強気な首肯を返した。そして、後悔は無いとばかりに教室への一歩を踏み出す。その横顔は自信に溢れ、昨日までの苛立ちや憂鬱をきれいさっぱり洗い落としている。これからの不幸も不運も全てはねのけるような、力強い信念を抱く姿だ。


「リュード、このことは父上には報告しないでくれ。あくまで俺とグリックの喧嘩にしておきたい」

「それは……度が過ぎなければ、知らせないでおきます。あ、ユーリルには共有しますが……」

「ああ、それでいい」

「……あの、本当に良かったんですか?」


 はは、とオルバート様は面白そうに笑ったが、その反応に付いていけない俺は思わず尋ねた。すると、何が、と聞き返される。


「敵を焚きつけるような真似をして……。ライシャ様のこと、不安だったんじゃないんですか?」

「いや?」

「えっ」

「いや、確かに多少の不安はあったが、最初から心配はしてない。俺がライシャの気持ちを疑うわけがないだろう?」

「え、じゃあ……何で昨日、あんな質問をしたんですか?」

「あんな?」

「俺に縁談が来たらどうするかの話です」


 瞬間、オルバート様の歩みはぴたりと止まった。わなわなと両肩を震わせたかと思えば、ぎぎぎ、と腐った木工人形のようにその首を俺の方向へ回す。な、何だろう、と俺が身構えたことに気づいているだろうか。何を示唆した動きなのか全く見当が付かない。まるで信じられないものと遭遇したかのような目を向けられても、反応しづらい。


「……本気で分からないのか?いや、そもそも、なぜライシャのことだと勘違いした?」

「え?いや、だって、縁談、と言ったので……」

「……」


 あのタイミングでされる例え話と言えば、最大の懸念事項であるライシャ様のことしかないだろう。王家からグリック殿下との縁談が寄越されれば、ギアシュヴィール公爵家と王家とのいさかいが始まるのは目に見えていた。グリック殿下が権力を振りかざす人だとは思っていないが、陛下や王妃、加えてファイアン公爵家の陣営がどう出るかは定かではない。表立って対応するのは旦那様だとしても、オルバート様が動かずに済むのはありえない。俺はてっきり、事態が急変する前に心構えをしておきたかったのかと。


 灰色の双眸は平たくなった。じと、と俺を凝視し、ぷいっ、と正面に向き直る。そうして踏み出された一歩は、どこか荒々しい。怒らせたかもしれない、と思った俺は正解だと思う。次いで吐き出された声も、ちくりと棘を持っていた。


「昔から思ってたが、リュードは自分を軽く見積もりすぎだ。俺にとってお前はたった一人の存在だし、他の者もそういう目で見てる」

「あ、ありがとうございます……?」

「……あのときの答えは、嘘だったのか?」

「──いえ、本気です。俺はオルバート様のためにしか生きません」


 誤解されては大いに不本意だ、俺は食い気味に否定した。俺はオルバート様に救われた。だから、オルバート様のためにこの命を消費する。オルバート様と出会って流れた歳月は、たったの十一年だ。俺が罪を償いきるにはあまりに短く、オルバート様の未来に安心するにはまだ早い。少なくともあと二年と少し、すなわちオルバート様がヴァルド学院を卒業するまでは離れないと決めている。俺が他の人の誘いに乗るなど、オルバート様の役に立たないならありえない。


 ならいい、とオルバート様はついさっきよりも柔らかな声で頷いた。同時に教室に着き、ツーヴィア公爵令嬢やツヴァイン侯爵令嬢と談笑していたライシャ様に笑いかける。おはよう、と言う横顔に、将来を約束した相手への疑念や焦りは皆無だ。ライシャ様も幸せそうに微笑み、他愛ない話を楽しそうにし始める。グリック殿下には悪いが、俺はこの景色が未来永劫失われなければいいと願う。二人が生きているこの世界は、二人がずっと笑っていられるそれであるべきだ。たとえ本来の筋書きに反しようと、俺はその価値を決して否定させない。

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