第21話 十七歳⑫

 十七歳、秋。夏休み明けのヴァルド学院は、あくまで水面下でオルバート様とグリック殿下の噂がささやかれていた。グリック殿下の断り文句があらゆる貴族に知れ渡り、パーティーでのダンスに憶測が絡みついたからだ。例えば、ギアシュヴィール公爵家と王家はライシャ様をめぐって対立している。例えば、グリック殿下がオルバート様に近づいたのはライシャ様を略奪するためだ。例えば、ライシャ様は人質としてギアシュヴィール公爵家にいる。正直なところ、あまねく好感度が高いグリック殿下に同情する声が多い。数少ない友人以外には最低限の愛想しか見せないオルバート様は、ライシャ様を囲い込む悪役としての椅子に座らされかけている。

 表面上、オルバート様とグリック殿下はこれまで通りの交友を続けている。だが、ライシャ様と三人になる機会は意図的に減らしているようだ。ちなみに、ライシャ様は他の学生から噂の真偽を確かめようとされることが日に何度かあるものの、上手く笑ってかわしている。しかし、その微笑は俺とユーリルから見ればやや引きつっていた。


 ところで、俺も俺でこの頃違和感を感じている。教室移動などで廊下を歩いている際、視線を寄越されることが多くなった。主の三角関係について聞き出したいのだろうと、俺はあまり気に留めていなかったのだが。


「ねぇ、あなた」

「はい」


 とうとう、一人の貴族息女から話しかけられた。


「そろそろお返事をくれてもいいんじゃないかしら?」

「……?」


 と言われましても、と俺は目をぱちくりと瞬かせてしまった。

 現在、オルバート様は教室で教師に質問中だ。勉強熱心な人なので、授業中に抱いた疑問を即刻解決しようとすることは少なくない。そういうとき、俺は廊下で静かに待っている。となれば、ここぞとばかりに接触する人物も現れるだろう。むしろ、夏休みが明けてからのこの一週間、周囲は使用人に声を掛けるのをためらっていたに違いない。これからは気配を薄くして待とう。

 黙ったままも失礼なので、俺は努めてにこやかに会話を試みる。


「恐れ入りますが、何のお話でしょうか?」

「あら、聞いていないの?写真も見ていないのかしら?」

「はい……」


 少女は困ったように小首をかしげた。何だ、このやり取りは。心当たりが全く無いので、この話題が危険なのか安全なのか判断できない。弱みになる写真を撮られたのだろうか。いや、その点では心当たりがありすぎる。夏休み中に暗殺者を拷問したことか、入学前に侵入者をユーリルのつてで売り渡したことか。月日を遡れば後ろ暗い部分はいくらでも出てくる。一体、どれだ。


「とってもいい子なのよ。顔立ちは少し地味だけれど、気が利くし、手先も器用だし……」

「……あの、失礼ですが、どなたのお話を……」

「──リュード!」


 なさっているのでしょうか、と俺が尋ねようとしたとき、オルバート様が割り込んできた。なぜか、どこか焦った様子だ。つかつかと俺と少女の間に入り込み、にっこりと笑う。


「彼への話は、全部俺を通してしてもらいたい」

「あら、申し訳ありません、お返事が待ち遠しかったものですから」


 はは、ふふ、と二人は貴族特有の上っ面な笑顔を交わす。どうやら、少女が俺に対して何らかの話を持ってきていたらしい。俺には知らされていないから、まだオルバート様が旦那様と相談している段階なのだろう。であれば、俺がこの件に首を突っ込む必要はない。

 少女はあっけなく踵を返していった。俺は軽く一礼し、その背中が小さくなるのを見送る。頭を上げたとき、オルバート様は複雑な表情で俺を見ていた。何かありましたか、という俺の問いに対し、何でもない、という返答。何やら思い悩んでいるところがあるようだが、俺から言える励ましは無い。やはり、グリック殿下との確執がその心に影を落としているのだろう。


 寮に戻り、エレベーターで九階まで上がる間、オルバート様は無言だった。ようやくその声を聞けたのは、部屋で制服を脱ぎ一息吐いた後。


「……例えばの話だが」

「はい」

「縁談や引き抜きの申し込みがあったら、リュードは受けたいか……?」

「……」

「いや、例え話だが。あくまで、例えば、の話だ。ほら、夏休み中、行く先々でリュードは目立っただろう?」


 うん、うん、とオルバート様はひとりでに頷く。確かに、夏休みにあったお茶会やパーティーで俺は少々動きすぎていた。とは言え、仕方が無いことだと思う。アイリーがことごとく嫌がらせを仕掛けるので、俺とユーリルはその収拾に走るしかなかった。近くでわざと転ぼうとされればその手を引き上げ、シャンパンのコルクをこちらに向けられれば片手で受け止め、小動物が乱入すれば速やかに捕獲し大人しくさせる。夏休みが終わる頃には一種の見世物になっていたが、誰かが止めなくてはライシャ様に被害が及んでいた。


 それにしても、ライシャ様の名前を出すのは例え話でも気が滅入るから、俺を使って恋愛相談しようということだろうか。ふむ、と俺は真剣に思考をめぐらせる。もし王家から縁談を持ってこられたら、ライシャ様は一体どうするだろうか。


「その話を受けると、オルバート様は助かりますか?」

「いや!全く助からない。むしろ困る。いや、困ると言うか……」


 嫌だ、と、オルバート様の声は悲痛だ。


「……なら、受けません。オルバート様のためにならないなら、絶対に頷かないと思います」


 俺自身そうだし、きっとライシャ様もそうだ。ライシャ様は、心底オルバート様を愛している。どれだけ好待遇だろうと、オルバート様に嫌な思いをさせるなら決して受け入れないに違いない。尤も、ライシャ様がオルバート様を捨てて他の誰かを選ぶ展開など、たとえオルバート様が魔王化しようとありえないだろうが。ヒロインと異なり、ライシャ様にはオルバート様への十年近くの信頼がある。


 夕日に照らされたオルバート様は、いつもよりも憂いげに見える。本当か、と聞き直す表情は気弱なそれだ。俺が感じている以上に、オルバート様の心は不安定なのかもしれない。現世の俺として主を心配すると同時に、前世の記憶を持つ俺は今後の成り行きを不安に感じる。


 オルバート様とグリック殿下の仲は、できれば良好に保っておきたい。物語において、魔王化したオルバート様を討伐する判断については、グリック殿下が皆を扇動した面もあった。と言うのも、二人の間には恋のライバルという浅い溝があるうえ、三年生時に起きる出来事でグリック殿下がオルバート様を完全に敵視するからだ。この世界における現状も、外野の圧力によってそうならざるを得なくなってきている。万が一オルバート様が魔王化してしまった場合の保険として、正ヒーローであるグリック殿下を味方にしておきたい。せめて、武力ではなく話し合いという穏便な解決方法を取ってもらえるように。


 俺がしかと頷くと、オルバート様はほっと息を吐いた。そうか、と信用し、ありがとう、と笑う。俺も思わず微笑んだ。オルバート様は常に笑っているわけではないが、気が許せる人の前では柔らかな表情を見せていてほしい。ほとぼりが冷めるまでの間は、頼りないと分かっていても俺に悩みを共有してくれればと思う。オルバート様の笑顔のためなら、俺は何でもする。

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