第20話 十七歳⑪
ダークブラウンで調和が取られた、小さな部屋。テーブルとソファーだけがずっしりと構える空間で、二人は座りもせず話を始めた。
「今からする話に、グリックの下心は本当に関係ないことを分かっていてほしい」
サイオン様は、心の底から申し訳無さそうに念押しした。下心、とあけすけに表現してしまっている辺り、主の気持ちを第三者としても否定できないと感じているのだろう。何と言うか、グリック殿下も不憫だ。確か、物語では初めての恋に戸惑うのだったか。そして、オルバート様と正々堂々争っていたはずだ。しかし、この世界のライシャ様はオルバート様とすでに結ばれている。グリック殿下はどこまで動くだろうか。
分かった、とオルバート様は怪訝な顔をして頷いた。すると、サイオン様はほっと一息吐いてから口を開く。
「きっかけは、ファイアン公爵令嬢との婚約の話が持ち上がったことなんだ。もちろんオルバートの婚約者ではなくて、彼女の姉のほうだよ」
「どこからその話が来た?代替わりしてから、ファイアン公爵家は傾いてるだろう?王家が縁を結ぶ利は無いんじゃないか?」
「単純に、これまで浮いた話の一つも無かったグリック殿下を心配したのと、ファイアン公爵家の力を強めたい一派からの圧力、かな……」
「……労務派か」
サンダスフィー王国の政治は貴族が回している。そこには派閥がいくつかあり、労務派はその一つだ。主に平民である商人や企業からの支持率が高く、税金や検閲の緩和を望む勢力。旗印はファイアン前公爵であり、お家騒動で失脚するまでは国政に幅を利かせていた。
ギアシュヴィール公爵家は貿易路を所有しているが、どちらかと言えば労務派よりも親王派だ。ファイアン前公爵は、それを孫の婚約で労務派に引き込もうとしていた。これは旦那様も納得のうえだ。ところが、ライシャ様の殺害未遂事件が発生した。旦那様はそれの秘匿を切り札に、ファイアン公爵家の魔の手をきっぱりと追い払った。しかも、だからと言って労務派の新たなリーダーになるわけではない。そもそも、ギアシュヴィール公爵家が労務派に鞍替えするのは、先代から続く個人的な親交を理由としていた。地位も経済力も安泰なギアシュヴィール公爵家は、労務派に付こうが親王派に付こうが、損得勘定に大きな差が出ない。子供を見殺しにする家とは付き合いたくない、という人情的な動機だけで、ギアシュヴィール公爵家はファイアン公爵家を叩きのめすことが可能だったのだ。
少し話が逸れたが、要するに、ファイアン公爵は娘アイリーとグリック殿下を婚約させることで、王族の外戚となり労務派の権威を回復させたかったのだろう。何とも手っ取り早く、暴力的な選択だ。
「婚約者を持たない貴族息女が、高位貴族だとファイアン公爵令嬢くらいしかいないっていう状況のせいでもあると思う」
サイオン様のこのセリフは、いわゆる血統主義を示唆している。数代前の王族が平民と結婚したとかで、サンダスフィー王国の身分制度は随分と緩和してきたらしい。しかし、たかが数十年だ。貴族の大半は貴族同士、王族と貴族の婚姻を正義としている。
ちなみに、今日グリック殿下と最初に踊ったヤード公爵令嬢は他国の貴族と婚約済みだ。というわけで、血統主義を重んじるなら空きはアイリーだけということになる。
そこまで聞いて、オルバート様は深い溜め息を吐いた。要するに、と疲れた声で結論を出す。
「今日、グリックは高位貴族の息女と順々に踊るつもりだということか。そこでライシャと踊ってしまえば、ファイアン公爵家の番は済ませられる。下手にアイリーと踊って婚約に前向きだと受け取られるのを防ぎたい、そういうことで合ってるか?」
今の話しぶりの限り、グリック殿下はアイリーとの婚約を拒否しているのだろう。アイリーがかつてライシャ様を火の中に放置したことを知っているかは不明だが、ライシャ様が実家を出た原因が異母兄姉であることはほぼ確実に把握している。恋情を抜きにしても、友人の婚約者を殺しかけた人物との婚姻を許すような性格はしていない。多少無理があろうと、グリック殿下はアイリーが入り込む隙間を徹底的に埋めるはずだ。
だが、オルバート様がひとりでに納得するや否や、サイオン様は顔を曇らせた。気づいたオルバート様が先を促すも、えっと、と口ごもる。ライシャを一人で待たせたくない、とオルバート様が片眉を吊り上げれば、慌てたように声を発した。
「お、一昨日、ファイアン公爵が直接グリックに話をして……娘と一度会ってみないか、みたいなことを言ったんだ。そうしたらグリックが、ライシャ・ファイアン公爵令嬢ならともかくと言ってしまって……」
「何?」
「王城の廊下だったから、盗み聞きした人たちが噂を……」
「……下手なことを……!」
つまり、こうだ。グリック殿下は、周囲の一部から勧められているアイリーとの婚約話を受けたくない。のらりくらりとかわしていたところ、ファイアン公爵と直接会う機会がありアイリーとの顔合わせを打診された。当然、断固として拒否しているのだから会うわけにはいかない。そこで、ライシャ様を引き合いに出すという方法で断ってしまった。ライシャ様ならともかく、というのは、もし叶うならライシャ様と婚約したい、と言っているのと同義だ。グリック殿下はあまりの押しの強さとしつこさに辟易していたのだろうが、王族という力を持つ立場でいる限り、下手な発言は慎むべきだった。
とにかく、そのような事情があるなら、ライシャ様をグリック殿下と二人でいさせるのはまずい。ユーリルは物理的な障壁になりえるが、他人の思惑や思考までは制御できない。オルバート様は、サイオン様を置いてホールに戻った。人の間を縫い、ライシャ様を探す。グリック殿下も一緒となれば目立つので、幸いすぐに見つかった。ちょうど曲の終盤で、二人は緩やかに最後のステップを決めた。安堵したオルバート様は、壁際で待機していたユーリルに尋ねる。
「何かあったか?」
「いえ、ただ踊っておられました。そちらは問題ありませんか?」
「何とも言えない。帰ったらライシャも交えて話す」
「了解しました」
ライシャ様とグリック殿下は礼をし、エスコートの姿勢を取った。にこやかに話しながら、二人でこちらに歩いてくる。オルバート様としては駆け寄ってライシャ様を取り返したいだろうが、それをするとグリック殿下に失礼だ。やきもきとしながら、最愛の婚約者の帰りを待つしかない。
不意に、グラスを片手にぎこちなく歩いている女性が目に付いた。年頃はライシャ様と同じくらいで、一人きりの割には緊張している。進行方向にいるのはライシャ様だ。──あと一歩、というところで、ぐらりとワイングラスが傾く。
「きゃあ!」
パリーン、とガラスは砕け散った。床に広がっていく、桃色の液体。アルコール臭も異臭もしないから、ただのジュースだろう。
俺は正面から背面へと半回転し、抱き上げていたライシャ様を床に下ろした。その一瞬、ドレスの裾が満開の花のように広がる。
「お怪我はありませんか?」
「あ、うん……!あなたは?怪我してない?」
優しいライシャ様は、すぐ側でへたり込んでいる少女に声を掛けた。少女が着ているクリーム色のドレスは、ジュースをもろにかぶってスカート部分が色水のように染まってしまっていた。また、グラスを持っていた手はびっしょりと濡れている。手を伸ばそうとするライシャ様をやんわりと押し留め、代わりにハンカチを差し出す傍ら、俺はその顔を記憶の名簿と照らし合わせた。確か、ファイアン公爵家の庇護下にある家門の娘だ。
「ライシャ!大丈夫か?怪我は?」
「私は大丈夫だよ。でも、この子が……」
「こちらで着替えを用意しよう」
そう言ったのはグリック殿下だ。咄嗟にかばった護衛を退け、近場の給仕人に少女を連れていくよう指示する。護衛の一人がジャケットを脱ぎ、少女の頭にかぶせて顔を見られないようにした。少女は覚束ない足取りで会場を後にする。申し訳ありません、と謝った声は弱々しかった。
「突然だったな。つまづいたのだろうか?」
「いえ、恐らくグラスにひびが入っていたんでしょう、手にジュースが全て掛かっていました。もしかしたら、細かいガラス片が肌に刺さっているかもしれません」
相手はグリック殿下なので、俺は多少の無礼を承知で口を開いた。床に散らばっているガラスに触れる体で背を向け、落ちているマドラーを密かに回収する。起き上がる際にユーリルを窺うと、涼しい顔でライシャ様の背後に控えていた。次いでホールをぐるりと見渡せば、ライシャ様の異母姉が悔しそうに歯噛みしているのが見つかる。
これは推測でしかないが、あの少女はライシャ様にジュースを掛けるつもりだったのだろう。指示を出したのはアイリーだ。ライシャ様に恥をかかせるためには、どれほど幼稚な手段でも構わないということか。それにも関わらずライシャ様に被害が及ばなかったのは、ユーリルの手腕だ。俺が踏み出すと同時に近くの給仕人からマドラーを盗み、少女が持つグラスに目掛けて投擲した。人体に刺さっていれば、最悪死んでいる。俺はユーリルの思いきりの良さに身震いしつつ、連携の結果に満足感を覚えた。いや、やはり恐ろしさのほうが勝るかもしれない。
ある意味テンプレートなアクシデントに見舞われたが、パーティーはとりあえず無事に終わった。ギアシュヴィール公爵邸に帰った後、オルバート様はライシャ様とユーリルを私室に呼び、サイオン様から聞いた話を共有した。なお、グリック殿下の私的な感情については伏せて、だ。
「そっか……。グリックの力になりたいけど、お父様のことはよく知らないし……」
心底心配げな表情で、ライシャ様はなかなか辛辣なセリフを漏らした。しかし、それも当然だろう。ライシャ様は生まれて以来離れに追いやられ、父親であるファイアン公爵との関わりは一切無かったと言っても過言ではない。オルバート様と婚約してからは祖父であるファイアン前公爵に多少目を掛けてもらえるようになったそうだが、それでも待遇は大して変わらなかった。それに、現在のライシャ様はファイアン公爵家の家名と血筋を持つだけで、実質的にはギアシュヴィール公爵家の娘だ。ここでライシャ様がファイアン公爵家に関わると、事態は余計にこじれかねない。
「父上にはすでに相談したから、きっとグリックを助けてくださるだろう。俺たちは下手に刺激せず、何か言われてもきっぱりと否定しよう。リュードとユーリルは、今まで以上にライシャの周りを警戒してくれ」
「分かりました」
「了解です」
オルバート様は頷き返しつつも、その表情には疲れがにじんでいる。これからどうしようか、と途方に暮れているのが丸分かりだ。理性的な人だから、グリック殿下の感情まで律するべきでないとは考えているだろう。ところが、このまま放っておいても噂がどんどんと勢いを増していく。気にせずこれまで通りに接すればいいと言うには、三人共あまりに身分が高い。
はぁ、とオルバート様は深い溜め息を吐いた。ライシャ様は困った様子で、ユーリルは淡々としている。夏休み明けは騒がしくなるな、と半ば独り言としてこぼされたオルバート様の声色には、どこか寂しそうな気配が宿っていた。
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