第19話 十七歳⑩
八月中旬。いよいよ今日は、オルバート様とライシャ様の社交界デビューだ。舞台は王城で催されるパーティー。貴族は騎士爵から公爵まで、平民でも豪商や大企業の取締役など、ありとあらゆる上流階級が出席する。もちろんそこには王族もおり、グリック殿下と半月ぶりの再会というわけだ。
オルバート様には、ロイヤルブルーのタキシードとコバルトブルーの蝶ネクタイが用意された。差し色にブラックのハンカチーフとカフスを添え、ライシャ様の婚約者であることをそれとなくアピールしている。素人が着ると成金趣味に見える青い衣装も、オルバート様がまとうと新進気鋭な好青年の風体を作り出す。ギアシュヴィール公爵家の名に恥じない、堂々たる出で立ちだ。
ライシャ様が身に着けるのは、スカイブルーのドレスとシルバーのアクセサリー。ただし前者は青一色ではなく、オーロラのようにピンクとのグラデーションが美しい布地をしている。後者は花を模した造形で、ライシャ様が首をかしげる度にゆらゆらと揺れきらりと光る。ドーム状に高く結い上げた髪にはカチューシャのような髪飾りを着けてもいるので、まるでおとぎ話の挿絵から現れたプリンセスのようだ。
二人の様子を見ると、旦那様と奥様は感慨深い歓声を上げた。婚約したのは六歳、ライシャ様が居を移したのは十歳、現在は十五歳。奥様は二人と血の繋がりを持たないが、それを感じさせないほどどちらのことも慈しんできた。義理とは言え息子と娘が大人になっていく過程を見届けるのは、奥様にとって非常に幸福な経験なのかもしれない。
入場すると、開会前の控えめな華々しさがホールを彩っていた。王城の使用人が差し出したドリンクは、オルバート様の手を経てライシャ様に渡った。
「おいしい!林檎ジュースだ。ちょっとしゅわしゅわしてる」
「始まるまで時間があるから、あっちに座ってゆっくりしよう」
腕を組んで歩む二人の背を、俺とユーリルが付き従う。今日のパーティーでは、各人一人のみ護衛や従者の同伴が許されている。それゆえ、会場には地味なスーツをまとった男性やドレスを着ていない女性も少なくない。俺とユーリルも、通常よりやや装飾されたお仕着せで参加している。俺に至っては髪も、だ。わざと重くしていた前髪は左側を後頭部に向かって編み込まれ、右側も整髪剤で軽くかき上げられている。後ろ髪は普段よりもいくらか高い位置で束ねられ、毛先を軽く巻かれていた。ユーリルはサイドに垂らした髪を巻くだけで済んだのに、なぜ俺はイメージチェンジを強制されたのか。嫌です、やめてください、と懇願したにも関わらず、侍従長は中止の指示を出してくれなかった。オルバート様もお望みですよ、と言われてしまえば、俺に断る余地は無い。
ソファーの後ろでオルバート様たちの様子を気に掛けながら、周囲も観察する。わざと別で入場した旦那様は、顔見知りだろう貴族や経済界の重鎮と歓談に興じていた。王族はまだ姿を見せていない。一方、他の参加者はほぼ全員が揃っているようだ。そこで、会場の反対の端から強い視線を注がれていることに気づく。若草色の髪を持つ、数年前よりもまた体を大きくした兄妹。
「……豚ですね」
「言い方」
ユーリルがアンジア・ファイアンとアイリー・ファイアンを見るのは初めてだ。俺の苦言は意に介さず、似てなくて良かったです、と一言。俺の耳には、ライシャ様に似てたらさすがにためらうので、という副音声が聞こえた。何を、とは言うまでもない。それよりも、ライシャ様を見る目の多さが気になる。若者はそうでもないが、長らく国政を支えてきた高齢層からの値踏みするような視線がいやらしい。
やがて、開会のファンファーレが鳴り響いた。ホール前方のドアが開けば、きらびやかな衣装にその身を包んだ王族の登場だ。国王、王妃、王太子、王太子妃といった大人たちに加え、王子や王女といった複数人の子供たち。当然、グリック殿下もその中に並んでいる。普段は中央で分けているだけの前髪はかき上げられ、その眩しい金髪は獅子のごとき猛々しさを増していた。しかしその瞳は柔らかなマスカットグリーンなので、ぎらぎらとした熱は感じさせない。さすが正ヒーロー、と俺は故意に嫌味なことを思った。そういえば、このパーティーでヒロインはヒーロー二人と踊っていたはずだ。それぞれの番で、出会ってからの半年間の思い出を振り返る。この世界のオルバート様はライシャ様としか踊らないから、来年のパーティーでヒロインの相手をするのはグリック殿下のみだろう。どうか、そのときに二人で恋に落ちてくれないだろうか。
口上が終わると、オーケストラがワルツを奏で始めた。裕福な家の出なら誰しもが知っている、オーソドックスな伴奏だ。一組、また一組とカップルが中央に歩み出ては、踊り始めるタイミングを待つ。オルバート様も、その流れに乗った。
「ライシャ、踊ろう」
周囲のベテランに劣らず、二人は優雅に、鮮やかに踊る。双方青い衣装を着ているので、まるで海の男神と空の女神が逢瀬を楽しんでいるかのような光景だ。美しく、清らかで、他の何者にも侵させまいとする神域。オルバート様がくるりと回る度、従ったライシャ様のドレスがふわりと広がる。見詰め合う眼差しには慈愛を満たし、小声で話してはくすくすと笑い合う。この景色は、理想だ。オルバート様が、そしてオルバート様を愛する全ての人が実現したかった夢。この世界で、その幻想は現実に昇華された。
「先輩、グリック殿下が踊ってる相手、ヤード公爵家の長女ですよね?」
「え?……うん、そうだよ」
俺が呆けている傍ら、ユーリルはきちんと周りの動向を監視していたらしい。優秀な同僚だ。俺も視線をオルバート様たちから外すと、確かにグリック殿下は同年代であるヤード公爵家の長女と踊っていた。力強いステップでリードしており、彫刻品のようなダンスだ。
「他の公爵家で、同年代の女性は来てませんよね」
「うん。あちらの令嬢とライシャ様以外は、まだ十歳くらいだったと思う」
弦楽器の音色が天井に伸びていく。音楽に明るくない俺でも分かる、精密な演奏。ヴァイオリンの音は幾重にも重なり、親しい者たちのための甘い響きを生み続ける。
一曲目が終わると、オルバート様とライシャ様は互いに会釈した。そして、休憩のために壁際へ移ろうとする。しかし、それを引き留めた者がいた。先程までヤード公爵令嬢と踊っていた、グリック殿下だ。ここは学院ではないので、形式張った挨拶をしているらしい。オルバート様とライシャ様もそれに応え、軽く頭を下げた。次いで、二人は壁のほうへ踏み出そうとする。ここは邪魔になるから、という意図だろう。ところが、グリック殿下はライシャ様に向かって手を差し出した。
「止めますか?」
「待って。ただ踊るだけだ」
ライシャ様は一瞬迷う素振りを見せたが、辞退は王族へのマナーとして許されない、グリック殿下の手を取った。オルバート様と別れ、新たなカップルである二人はホールの中央へと歩んでいく。
俺とユーリルが側に寄ると、オルバート様は煮えきらない表情で使用人からドリンクを受け取った。
「俺は意外と狭量なのかもしれない」
「今からでも邪魔できますよ」
「いや、いいんだ。さほど焦ってはない」
「──ギアシュヴィール公爵令息」
聞き覚えがある声に振り返ると、サイオン様がどこか気まずそうな面持ちで立っていた。落ち着いた色味の赤髪は右側ではっきりと分けられ、文官然とした見た目だ。
「ウォルベル侯爵子息か。久しぶりだな」
「お久しぶりです。公爵から聞いておられますか?」
ちら、とサイオン様は己の主を目で示した。グリック殿下はうっすらと緊張した、けれど嬉しそうな表情でステップを踏んでいる。一方のライシャ様も、人並みには気を許している顔色だ。だが、オルバート様とのときとは全く違う。果たして、グリック殿下はそのことに気づいているだろうか。気づいていてなお、ライシャ様の手に触れることをやめられないのだろうか。
「いや、恐らく聞いてない。何の話だ?」
「ここでは少し……」
「……手短に済ませてくれ」
オルバート様とサイオン様は、連れ立って会場外の休憩室に入った。ライシャ様のことはユーリルに任せ、俺も同伴させてもらう。
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