第18話 十七歳⑨

 いよいよ夏休みに突入した。ヴァルド学院の長期休みは、退屈してしまうほど長い。夏は貴族がパーティーやお茶会で忙しくなるので、それに合わせた八月と九月の二ヶ月間が休講期間だ。ちなみに、冬なら十二月から二月までの三ヶ月間。これは、積雪のせいでろくな移動ができない地方もあるがゆえ。俺の前世ほどは公共交通機関が発達していないので、この世界は天気や気候による制限が強い。


 王都にあるギアシュヴィール公爵邸までは遠いから、途中にある都市で宿泊して帰ることになっている。避暑地としても旅行客が多く訪れるそこは、いわゆる商都だ。海岸を持つ隣国から輸入した海産物を売る露店や、大陸中の反物をきらびやかなドレスに仕立て上げるブティック。商人や旅人向けの宿場街だけでなく、貴族や豪商を客層にした高級ホテルも立ち並ぶ。オルバート様とライシャ様は、小旅行も兼ねてこの地に二泊することにした。俺とユーリルの他、ヴァルド学院近郊の街に駐在していたギアシュヴィール公爵家の騎士たちも一緒だ。


「ライシャ、これはどうだろう?ライシャのきれいな髪に、蝶が降り立ったように見える」

「きれい……。オルバートはこれが好きなの?」

「そうだな……この店では一番好みだ」

「じゃあ、これにするね」


 小さな蝶を模した銀細工は、確かにライシャ様の淑やかな髪を上品に飾り立てる。振りまかれる鱗粉をイメージしてか、シャラシャラと揺れる紐飾りが目に楽しい。オルバート様が店主に購入を告げると、他の品は片づけられていった。購入品はホテルに届けてもらえるので、購入書にサインをして店を後にする。


 今日のオルバート様は、大きなリボンが愛らしいシルクハットをかぶっている。帽子の布地は生成り色、リボンは明るいグレーのタータンチェックという色合いで、まさに上流階級の御曹司という雰囲気に仕上がっている。一方、ライシャ様が手にしているのはライムグリーンの日傘だ。レースで縁取られたそれは、結い上げられた髪と相まって爽やかな印象を与える。二人が並んで歩く様は、あたかも宮廷画家が描いた一枚の名画のよう。尤も、宮廷画家が描いた絵を見た経験は俺に無いが。


 そうこうするうちに、一行はレストランやパティスリーが軒を構えるエリアに来た。香ばしい匂いが鼻腔をくすぐり、俄然お腹が空いてくる。

 あらかじめ予約してあった料理店に入ると、オーナーは洗練された仕草で個室へと案内した。テーブルが一台と椅子が二脚。ちょいちょい、と席に着いたオルバート様が手招きするので、俺は側に行って耳を寄せた。対面では、ライシャ様とユーリルも同じ姿勢を取っている。何事だろうか。お互い、俺とユーリルを使ってサプライズを企てているのだろうか。


「ユーリルと一緒に、隣の部屋に行ってくれ。俺たちはゆっくり食べるから、時間は気にしなくていい」

「隣の部屋に何かあるんですか?俺とユーリルは一応護衛なので、他の者に任せたいんですが……」

「駄目だ。リュードとユーリルじゃないと意味が無い」


 行けば分かる、とオルバート様は微笑んだ。どこかお茶目な笑い方だ。おこがましいかもしれないが、オルバート様に一番信頼されているのは俺だという自負がある。そして、ライシャ様の場合はユーリルだろう。そのような俺たちでないと頼めない案件とは、一体どのような内容だろうか。ちら、とユーリルを窺うと、ユーリルも俺を見ていた。頷いたのは、行きましょう、という意味だと思う。部屋の隅に控えていた騎士たちに言い置き、俺はユーリルと共に部屋を出た。


 隣の個室に入ってみると、何てことはない、テーブル一台と椅子二脚がセッティングされた空間だ。ただし給仕人がおり、先程オルバート様たちがされたのと同じ様子で椅子を引いてみせた。テーブルの上にはカトラリーが揃い、まるで今からここで誰かが食事をするかのようだ。どうぞ、とにこやかに着席を急かされたので、ユーリルと対面で座る。


「……何だと思う……?」

「労いじゃないですか?」


 ユーリルはいつも通りの無表情で言った。テーブルナプキンを開き、膝の上に掛ける仕草は手慣れている。俺も倣って手を伸ばすが、頭の中は真っ白だ。折り目をどちらに向けるべきなのか忘れ、多分合ってる、という直感で自分に向けた。

 グラスに注がれた水で喉を潤してまもなく、繊細に盛りつけられたオードブルが運ばれた。給仕人の説明によれば、海の幸と夏野菜のムースらしい。口に運ぶと、これまで食べたことのない食感が舌を刺激する。正直、よく分からない。だが、確かにおいしい。隣の部屋でオルバート様もこれを食べているのかと思うと、何とも言えない幸福感がじんわりと広がっていく。ユーリルも、笑顔ではないながらもどこか嬉しそうな雰囲気だ。時折給仕人の声が響くだけの一室で、黙々と料理を口に運んでいく。味わう、と表現するには淡々とした行為だが、和やかで緩やかなひととき。食べ終える頃には、俺もユーリルも感嘆の溜め息を吐いていた。


「おいしかったですね」

「うん、おいしかった」


 オルバート様とライシャ様がいる隣室に戻ると、二人はデザートを食べ始めたところだった。俺とユーリルに気づき、ふわりとした笑みを向けてくれる。俺たちは軽く頭を下げるだけに留め、この場で礼を言うような野暮はしない。明らかな優遇をひけらかすほど、俺もユーリルも承認欲求に飢えてはいないからだ。それぞれの主の背後に控え、護衛の任務を再開する。


 レストランを出た後、オルバート様とライシャ様は夕方まで街を堪能した。途中の焼き菓子店で旦那様たちへのお土産を買い、噴水広場で平和な休息を取った。物語ではありえなかった、オルバート様が本来望んでいた環境。ホテルで各自の部屋へと別れるまで、その表情は本当に幸せそうなものだった。オルバート様は、ライシャ様のことを心底愛している。


 就寝前。ティーカップに紅茶を注ぎ終えた俺は、ソファーに腰掛けているオルバート様に頭を下げた。


「今日は本当にありがとうございました。あんなにおいしい料理を食べたのは初めてで……。この先も、オルバート様のために生きます」

「いいんだ。あれは俺とライシャの気持ちだ。いつもありがとう」

「いえ!お礼なんて……!」


 そのような資格は俺には無い。俺がオルバート様のためだけに日々を過ごしているのは、罪滅ぼしと恩返しのためだ。そうすることでしか己の命を許せないから、我が身かわいさに侍従の役目を果たしている。この身を捧げるのは当然であり、義務というだけ。それに感謝を向けられていいわけがない。

 ところが、オルバート様は困ったように微笑んだ。カップを持ち上げ、優雅に傾けた後で口を開く。


「入学してから、ずっと気を張ってるだろう?夏休み中は楽にしてくれ、側にいてほしいときは、俺から頼むから」

「……」


 見抜かれていた。俺が何を危惧しているのかまでは想像できていないだろうが、俺が言いしれぬ不安に怯えていることは知られていた。オルバート様は、昔から俺のことをよく見ている。


 ギアシュヴィール公爵に雇ってもらえてすぐの頃、俺には一部の使用人たちからいじめられていた時期があった。食事にごみが入っているのは当たり前、誰も見ていない場所で蹴られるのも日常茶飯事。恐らく、俺が何の力も無いただの子供だと高をくくっていたのだろう。また、俺も逆らわなかった。ごみは取り除いて食べたし、蹴られても悲鳴を上げることさえしなかった。彼らがあざ笑ってしまうほど、俺は生存願望にしがみついていた。前世で自分がどう死んだかは覚えていないが、死にたくないという思いだけは人一倍強かった。毎日、毎日、父さんの教育よりもずっとましだと思って耐えた。

 ある日、オルバート様はそんな俺を助けてくれた。魔獣から教えてもらったのだと、いじめの現場に現れて侍従長に告発してくれた。俺はそれが嬉しくて、俺は死んだほうがいい存在なのだと言われてばかりだったから、本当に本当に嬉しくて。俺の存在意義は、何度も何度もオルバート様に肯定してもらえている。それが、俺は、泣きたいほどに嬉しくて。


 ありがとうございます、と俺が思わず言うと、オルバート様は苦笑した。リュードは大きくなっても相変わらずだな、とまるで母親のようなセリフを口にした。大きな窓の外で、小さな星々がきらきらと瞬いている。誰よりも優しいオルバート様に、その儚い輝きはよく似合っていた。

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