第17話 十七歳⑧

 前期学力試験は、五日間に渡って実施された。俺も含め、ほぼ全学生が死に物狂いで勉強したことだろう。と言うのも、ヴァルド学院の学力試験は前期に一回、後期に一回の年二回しか行われない。つまり、たった一回きりの試験でその学期の成績が決定される。あまりにひどい点数を取った場合、何の救済措置も無く即刻留年が決まるのだ、普段は怠けている学生も試験期間ばかりは違う。逆に言えば、皆が必死に勉強するので平均点が高く、けれど試験問題の難易度は決して易しくない。入学試験の難しさゆえに秀才か天才しかいないこの学院は、勉学という点で言えば理想のスパイラルを形成している。俺はそれに付いていくのに必死だ。むしろハリケーンに飲み込まれた川魚のごとく、ぐるんぐるんと巻き込まれながらも四肢がちぎれないようもがいている。そして、その結果は。


「全教科平均点ぴったりって、逆にすごいですよね。良かったです、先輩がいなくならなくて」


 そう言いつつ、ユーリルは前後屈で筋肉をほぐした。ぐっ、ぐっ、と伸びる体は柔らかく、地面に垂直な姿勢でつま先に手の平を密着させている。バレリーナのような精巧さを持つその立ち姿は、明け方の冷えた空気に美しく映えている。最近ユーリルが人気者でね、とライシャ様が寂しそうにこぼすのも納得だ。平民だが、目の保養にする分には身分に頓着しない貴族子女も少なくないのだろう。


「そっちこそ五位より下の科目、無かったんだって?」

「高等教育の勉強は全部済ませてますから」

「すごいな……」


 真に優秀な人が言うと、嫌味でも何でもない。背中合わせに両腕を引き上げられながら、俺は素直に尊敬の念を抱いた。ぐー、と伸びる背中が気持ちいい。このところ四六時中机に向かっていたし、結果が出るまでは憂鬱だったから、久々に思いきり体を動かせることが嬉しい。俺は運動好きというわけではないが、勉強好きというわけでもない。どちらも適度に取り組んでおくのが性に合っている。


 一通りの柔軟を終え、俺とユーリルは向かい合った。朝日が顔を見せ始めた頃、誰もいない開けた場所で、俺たちは毎日稽古を行う。この行為は、ギアシュヴィール公爵邸にいたときからの習慣だ。ヴァルド学院に入学してからは、男子寮と女子寮の中間地点で実施している。

 しん、と空気が静まった瞬間を合図に、今日は俺がユーリルに突撃した。右手を下方から突き出し、左腕でいなされ、同時に左から掌底を打ち出せばよけられる。その間に繰り出された右手の軌道を左腕で逸らし、左足を蹴り出すと軽々と受け止められる。一発、二発と攻撃がかさめばかさむほど、速度は速まり力は強まる。もちろん、全力ではない。俺が本気を出せばユーリルを再起不能にさせられるが、この組手は感覚を失わないためにしているのであって、殺し合いではない。と言うか、そうして勝ったからと言って俺の強さが保証されるわけでもない。俺とユーリルでは、戦う領域が異なる。俺は斬撃による近接戦闘型、ユーリルは投擲による中距離戦闘型だ。教育の違いもあり、体術は俺のほうが得意としているが、ユーリルが適した武器と距離を取れば、俺は成す術無く負けるに違いない。端的に言えば、不毛だ。

 とん、とユーリルの手刀が俺の首に触れた。


「……参りました」

「はい、お疲れ様でした」

「お疲れ様」


 七月ともなれば暑く、汗が背中を伝う。俺がパタパタと麻のシャツの裾をあおぐ傍ら、ユーリルは水筒から水を飲む。


 俺はオルバート様の側にいる時間が一番落ち着くものの、この時間も悪くないと感じている。この時間だけは、この世界に用意された定めとは別の場所にいられているような気になる。前世の記憶、生まれ変わりで得た使命、現世で生きるための仕事、そういうごちゃごちゃとした絡まりが緩くほどけていくかのような気分だ。静かで、穏やかで、どこか事務的なやり取りもかえって居心地がいい。何も、特別な会話をしているわけではない。交わす言葉は報告と共有ばかりで、雑談どころか世間話もほとんどしない。されど、それで十分だ。無論、オルバート様のために生きることが苦しいわけでは断じてない。だが、こういうのんびりとした瞬間も欲しい。さもなければ、神経をすり減らすあまりオルバート様に心配を掛けることになるだろう。それは本意ではない。


「もうすぐ夏休みですね」

「そうだな……」

「八月の末には、オルバート様とライシャ様の社交界デビューですね」

「うん……」

「王城のパーティーに行くんですよね?先輩も行くんですか?」

「……つまり?」

「──グリック殿下、どうします?」


 来た、と俺は内心でげんなりとした。ユーリルに対してそう思っているのではない。どうか勘違いであれと期待していた問題が事実だと確定してしまい、もはや潔く対処法を考えるしかないときに生まれる悪感情。いや、うん、どうしよう、とふざけた相づちを打ちつつ、俺はここ一ヶ月の第二王子を思い返した。


 学力試験の時期から、グリック殿下は様子がおかしい。例えば、オルバート様と合流して登校する際。ライシャ様が別である場合、グリック殿下は微かにがっかりとした声色を出す。ではライシャ様が一緒の場合はどうなのかと言えば、オルバート様よりもライシャ様に視線を向けている合計時間が長い、気がする。細かく計測すると同じ程度なのかもしれないが、以前は三人でいても主にオルバート様と喋っていたので、現在の状態が特異なものとして感じられてしまう。あれ、と思う場面はこの他にも何度かある。そして、オルバート様はグリック殿下の心に気づいている。グリック殿下がライシャ様に話題を振ると、心なしか怖い笑顔で割り込むのだ。見分けられるのが俺くらいなのがいっそう恐ろしい。また、サイオン様も主の変化を察している。あの人はあの人で、オルバート様をちらちらと窺う頻度が増えた。なお、当のライシャ様が感づいているかは不明だ。本当に分かっていないのか、分かっているうえで分かっていない振りをしているのか。オルバート様の愛情に応えようと一生懸命なので、仮に後者ならきっぱりと距離を置くと思うが。


 どうします、と聞いてくる辺り、ユーリルはやる気だろう。そう、殺る気満々だ。


「とりあえず、手を出すのは無し。オルバート様とライシャ様次第かな」

「旦那様に報告はしますか?」

「うん、念のため」

「了解です」


 ユーリルは指示に従順だ。採用基準通り、優秀かつ俺を毛嫌いする様子がない。先輩として、同僚として、一定の礼儀を持って接してくれる。かと言って、媚びを売るわけでもないのが好ましい。俺の判断に疑問があれば素直に尋ねてくれるし、最適ではないと感じれば別の案を提示してくれる。俺は護衛も暗殺も中途半端な経験者だから、がっつりと活動していたユーリルの視点は非常にありがたい。率直に言えば、現世で出会った人の中で一番付き合いやすい相手だ。もし俺が今すぐ退場させられたとしても、ユーリルならオルバート様とライシャ様を守ってくれるだろう。俺が思うに、ユーリルは仕事には真摯に取り組む気性をしている。旦那様との雇用関係がある限り、二人を決して裏切りはしないだろう。


 息が整うと、俺とユーリルはそれぞれの寮に戻った。俺はオルバート様を起こさないよう部屋に入り、制服に着替えていく。サンダスフィー王国の夏は、からりとした気候だ。特にヴァルド学院は、工場地帯から遠く離れているおかげで王都より気温が低い。半袖だと肌寒く、夏仕様のローブを羽織ってちょうどいいくらいだ。身支度を終えた俺は教本を開き、隙間時間の自主勉強に勤しんだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る