第16話 十七歳⑦
ちら、と俺はさりげなくライシャ様を窺った。オルバート様が俺に付きっきりでいるせいで、グリック殿下に外国語を教えてもらっている。似た意味である前置詞の使い分けに悩んでいるらしい。一方、ユーリルとサイオン様はツーヴィア公爵令嬢とツヴァイン侯爵令嬢に歴史を教えている。この科目では一年生のうちはサンダスフィー王国史を学ぶので、イルナティリスからの留学生である二人には初めて知る出来事ばかりだろう。
しかし、共通している部分もある。それは、人類と魔族の間で起きた戦争の歴史だ。
初め、人類と魔族は交易で微々たる接触を持っているだけだった。どちらも人口が少なく、武器も含めて文明がほとんど発展していなかった時代のことだ。ところが、両者はやがて互いの利を奪おうとするようになった。海が欲しい領土の者は海岸を襲い、肥沃な土地が欲しい者は穀倉地帯を襲った。最初は各地域での小競り合いだったそれらは、国家が形成されていくと本格的な戦争になった。人類は発明した兵器を使い、魔族は卓越した魔法を用いて戦う。前者は後者を圧倒するほどの馬力には到達できず、後者は前者の高度な技術を前に攻めきることもできず、争いは泥沼化していった。人類は人類同士、魔族は魔族同士で同盟を組むのも、自然な成り行きだっただろう。
人々が争いから手を引き始めたのは、各国で民衆によるクーデターが増えてきた頃だ。長引く戦争は惰性を帯び、ましてや民の生活を困窮させていた。そこで、人類と魔族はそれぞれで国際的な平和同盟を組織し、人類と魔族の間に不戦条約が締結された。
国境に険しい山脈があったので、サンダスフィー王国とイルナティリスは戦争状態に陥らなかった。このような国家はいくつかあり、一部の山村では戦時中も友好的な交易を続けていた。現在の人類と魔族の繋がりを支えているのは、これらの地域だ。大陸全土としては、まだまだしこりがある関係性も少なくない。人類主義者や魔族主義者はその一端だ。
「ここまで、何か質問はあるか?」
「いえ、大丈夫です」
「なら、問題を解いてみよう。できたら教えてくれ」
俺はオルバート様に指定された問題文を読み始めた。今までは記憶にある解法を書き写すだけだったが、今回は問題の意図を探り当てようとしてみる。すると、使うべき公式はあっさりと思いつけた。数式を書き出し、計算間違いが無いよう丁寧に解いていく。
そういえば、物語でもこのような勉強会のエピソードがあった。ヒロインが初めての試験で不安を覚えていたところ、グリック殿下が勉強を見てくれるという話だ。その場にはサイオン様と近衛騎士たちもいただろうが、恋愛重視の物語なので、ヒロインとグリック殿下の会話が特筆される。このときは、二人共まだ恋に落ちていない。オルバート様とグリック殿下、オルバート様とヒロイン、グリック殿下とヒロインでそれぞれ友情を育んでいる頃だ。このエピソードでようやく、グリック殿下はヒロインに恋をする。そのきっかけは、ヒロインの素直な一言。
「グリックはすごいね。必須科目は、全部発展クラスなんでしょう?」
必須科目には、標準クラスと発展クラスがある。学力が足りる限りは個人の自由に任されるが、グリック殿下は王族ゆえに全て発展クラスを選択している。ヒロインが所属しているのは標準クラスばかりなので、グリック殿下を素直に尊敬しているというわけだ。
「王族に生まれた以上、何事も努力しなくてはいけないからな。国を背負う者として当然のことだ」
一方、グリック殿下は自分の選択を前向きには捉えられていない。王族だから、王子だから、という言葉に縛られ続けてきた人生において、自分の努力を認めるのは難しかった。祖父である国王の背中を追うグリック殿下にとって、自身の努力はいくら積み重ねても足りないものという認識だ。
「そうだとしても、実際にやり遂げるのは本当に立派だと思う。教本にもたくさん書き込んでるもの。グリックは努力家だね。私も見習わないと」
しかし、ヒロインはグリック殿下の虚勢に騙されたうえで賛辞を贈る。そのにこやかな顔の裏で、グリック殿下が途方もない努力を積み重ねていると信じているからだ。飛び級で本来の学年に籍を置いたものの、授業の進みの速さに付いていくので必死なヒロインにとって、さらに上を行くグリック殿下は憧れの対象だった。
「……そう言われたのは初めてだ。そうか、私は……」
グリック殿下は、ヒロインの言葉に胸を打たれ──。
「──私もそう思います。グリック殿下もサイオン様も、ルツィア様もペティカ様も努力家ですよね。先輩もそう思いますよね?」
「え?あ、うん。オルバート様とライシャ様もそうだと思うよ」
「私は違うんですか?」
「いや、ユーリルもだけど……」
幻聴だろうか、と思い、違う、と否定した。もしも幻なら、ユーリルは二人の会話に割り込めない。
「ユーリル、リュードに話を振らないでやってくれ」
「すみません。集中力が切れたので、つい」
「そろそろ休憩にしましょうか。ペティカ、お茶をお願いね」
「いえ、私がやります」
俺は立ち上がり、隣のティーセットに手を伸ばした。咎めるオルバート様に解き終えた問題を見せると、正解だ、と言ってぱっと笑ってくれる。オルバート様のおかげです、と当然の感謝を伝えてから、俺はまだ熱いお湯をティーポットに注いでいく。
物語のグリック殿下は、純情可憐なヒロインに憧憬混じりの恋をする。いさかいの歴史がある魔族や、王族であるグリック殿下に先入観や固定観念無く接する姿は、グリック殿下のなりたい姿であり理想のパートナーだ。
ヒロインは二年生から途中入学する。そうしてグリック殿下と出会い、その心を魅了していく。では、ライシャ様が生きている今、その筋書きはどうなっているのだろうか。本来ならヒロインのために空いている恋愛感情の座席は、物語と変わらず空席なのだろうか。ヒロインではなくライシャ様と親しくなったこの世界で、グリック殿下の恋心は、果たして。
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