第15話 十七歳⑥

 十七歳、夏。ヒロインの入学までは、あと十ヶ月ある。オルバート様とライシャ様の仲は睦まじいので、それまでに俺がするべきことと言えば、魔獣の調査とジャウラット教授を味方に付けることだ。前者に関しては、とりあえず学院に現れる魔獣と森にいる魔獣の様子を観察している。今のところ、ギアシュヴィール公爵邸で見た魔獣と大きく違う点は見つからない。後者に関しては、ユーリルと旦那様に報告して以来手詰まっている。旦那様の指示で、オルバート様にも不審な接触があるまでは保留ということになった。そもそも、ジャウラット教授の協力はオルバート様が魔王化した場合の保険なので、いっそこのまま何事も無く卒業してしまったほうがいいかもしれない。という訳で、今のうちにできることは特別ない。


 しかし、ここで問題が発生した。


「何だ、これは?」

「試験範囲に絶望しているみたいだよ」


 朝一番の教室、グリック殿下とサイオン様の声がくぐもって聞こえた。俺の手の中には、一枚の紙。もったいぶらずに言うと、前期学力試験の範囲表だ。現在は六月、試験は七月。勉強するには一ヶ月の猶予がある。ただし、その範囲は恐ろしいほど広い。教科書の初めから三分の一まで、単元にして三つ分が指定されている。前世の記憶があるなら楽勝だろう、と考えているのなら大間違いだ。この世界には高等教育機関しか無い。つまり、前世で言う中学校から大学までの内容がこの三年間に押し込められている。しかも、科目数が半端ではない。古典、外国語、数学、歴史、地理といった必須科目に加え、天文学、哲学、工学、神学、魔法学などの選択科目の試験もある。なるほど、一ヶ月前に範囲表を配るわけだと納得するのも束の間、試験範囲の広さに絶望した。


 俺はたったの五ヶ月の受験勉強で入学試験に受かったが、それは俺が天才だったからであるわけでは断じてない。歴戦の家庭教師たちがヴァルド学院入学試験特化のカリキュラムを組んだおかげであり、理屈を飛ばしとにかく理論や公式を暗記した結果だ。当然、入学後の授業には付いていけているかどうかさえ怪しい。参考程度に述べておくと、先日行われた数学の単元テストはぎりぎり平均点未満だった。なお、他の教科も似たりよったりの点数を叩き出している。


「リュード、大丈夫だ。入学できたんだから、定期試験もきっと乗り越えられる」

「オルバート様……」

「一緒に頑張ろう?ね?」

「ライシャ様……」

「先輩、赤点なら強制退学で旦那様の側付きになるそうですよ」

「えっ、聞いてないけど!?」

「まぁ、言ってませんし」


 ユーリルは涼しい顔をしてのたまった。さては、個人宛の手紙にそのようなことが書いてあったのだろう。時々、ユーリルは俺に心の準備をさせてくれない。尤も、それで困ったことは一度もないから何も言えないが。


「おはようございます、皆さん。何かあったの?」


 おっとりと教室に到着したのは、ツーヴィア公爵令嬢だ。隣にはツヴァイン侯爵令嬢もいる。サイオン様が事情を説明すると、まぁ、とツーヴィア公爵令嬢は手を一回叩いた。


「では、皆さんでお勉強会をしましょう。教え合うのも勉強になるわ」

「わぁ、楽しそう……!」


 いの一番に反応したのはライシャ様だ。きらきらと目を輝かせ、声も弾ませている。これまで友人がいない日々を送ってきたから、こういうイベントに憧れがあったのかもしれない。


 ライシャ様は、日に日に美しくなっていく。入学前はまだあどけない少女という風体だったのに、入学後二ヶ月で大人びた雰囲気をまとうようになった。制服はしっかりと馴染み、風に舞い上がった髪を押さえる仕草はいじらしい。ツーヴィア公爵令嬢に触発されたのか、最近は髪の一部をカチューシャ状に編み込んでいる。それにはグレーのリボンも絡んでおり、オルバート様への思慕が感じられた。この調子なら、ヒロインが自主的に横恋慕しても入り込む隙は無い。


 ツーヴィア公爵令嬢の提案には、他の面々も賛成した。とりわけオルバート様は乗り気で、俺が教えるから頑張ろう、と俺に言ってくれた。俺の主は使用人にも優しい。


 ──一週間後。勉強会は、放課後に会議室で始まった。この部屋は教員も学生も予約制で使える場所で、巨大な長方形のテーブルと、その縁に沿って椅子が設置されている。高位貴族の子女が多い学院とあってか壁には絵画が飾られており、俺には理解できないものの、それなりに予算が割かれた空間のようだ。その費用を階段のリフォームに回してほしい、と思うのは自明の理だろう。我が学院の階段は、曲がり方が急なうえに一段一段が高い。


 向かい合って左から一列に、グリック殿下、ライシャ様、オルバート様。その隣と短辺の席を飛ばし、対辺に回って空席の向かいから一列に、ユーリル、ペティカ様、ルツィア様、サイオン様。俺はオルバート様の左隣かつユーリルの目の前に座った。ほぼ毎日顔を合わせていれば、爵位という形式張った遠慮は適度に無くなる、食堂でも日によって違う並びをするようになっていた。


「さて、何から手を付ける?」

「よろしければ、数学をお願いします。解き方は覚えられるんですが、どの問題で使えばいいのかが分からないので……」

「相変わらず丸暗記してるのか。それだと、これからの授業で無理が出てくるだろう。今日は理屈を理解するのが目標だな」

「はい」


 俺の問題集を見ると、なんだ、勉強してるじゃないか、とオルバート様は呆けた声を上げた。そう、俺は勉強をしてはいる。されど、それが己に定着しているかと問われれば、答えは否だ。試験で問題集にある文言が一言一句違えず出されるなら満点を取る自信があるが、残念ながら数学の教師はそういう人ではない。


「まず、この公式が何を意味しているのかから考えよう」


 オルバート様の授業は分かりやすい。一つの公式を解説するだけでも、話が一区切りする度に疑問点が無いか確認してくれる。どうやら、俺は集団指導が根本的に向いていないらしい。授業の進度に合わせるために、暗記という力技で知識を飲み込んでしまう。父さんから逃れるときも博打に出たので、思考が脳筋寄りなのだろう。これは前世からそうなのか、それとも現世で会得してしまった習性なのか。オルバート様の側付きには全くふさわしくないが、俺はそのうち退場するだろうから、今だけはこの立場にいさせてほしい。オルバート様が学院生活を無事に終えられたとき、俺は表舞台を下りるから、どうか、今だけは。

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