第14話 十七歳⑤

 シドラ・ジャウラット教授は、長い黒髪に橙色の虹彩を持つ人らしい。その姿を見せる機会は極端に限られており、魔法学の授業以外での目撃情報は無い。受講生であるオルバート様曰く、耳が尖っているのでイルナティリスのほうの出身ではないかということだ。初回の授業は、ジャウラット教授が喋り倒して終わったらしい。


 研究室は森を背にしている。今日は運動場で実践的な授業をするそうなので、ジャウラット教授がここに戻ってくるのは少なくとも一時間後だ。俺は気配を消し、中に誰もいないことを確信してからそのドアノブを回した。当たり前だが、施錠されている。しかし、ピッキング行為を犯してしまえば関係ない。父さんに教えられた記憶を引っ張り出し、幼少期からの習慣で持ち歩いている道具を使って解錠した。こういうとき、俺は「普通」の人ではないのだと改めて思い知る。前世は真っ当に生きていたはずなのに、俺はいつから倫理観をひねり潰せるようになってしまったのだろうか。


 溜め息を飲み込み、研究室内に侵入した。そこは想像以上に広く、思っていたよりも整理が行き届いている空間だった。巨大な黒板、L字型に伸びたテーブル、そびえ立つ本棚、前世の理科室にもあった実験器具。奥には複数のテーブルと椅子が片づけられているが、これらは授業の際に用いるのだろう。研究室と言うには殺風景なほど、書きかけの論文や実験中の水槽は見当たらない。まるで、ここでしていることを隠しているかのようだ。

 L字型テーブルの上にある簡易本棚には、日誌が並んでいる。俺はそのうちの一冊を取り、ナンバリングだろう、数字が一桁だけ書かれている表紙をめくった。

 日付は四年前の七月末。夏休みだが実家には帰らず、学院で研究を続けると書いてある。今日は魔獣の加護が実際に発動されるところを見せてもらった、治癒力は微々たるものだが上昇するようだ、など、主に魔獣に関する記録が成されている。しかし、確定的なことは何も書いていない。きっとこれはほぼ日記のようなものであり、ちゃんとした研究記録は別で保管してあるのだろう。


 ──そのとき、背後に人の気配がした。


「──悪い子だ」

「!」

「おっと!待った、待った!」


 俺の腕に首を絞められかけた体勢で、ジャウラット教授は両手を上げた。長い前髪の間から覗く双眸は、俺の顔を見上げて爛々と輝いている。その眼差しに気味悪さを感じるのはどうしてだろうか。反射で拘束してしまった俺が言うのも何だが、この状況で一切の恐怖が見られない。不法侵入を働いたのはこちらであり、相手は被害者なのに、解放してしまうのがためらわれる。


「落ち着いて話し合おう。君、ここの学生だろう?忍び込んだのは不問にするから、理由を話したまえ」

「……申し訳ありません」


 俺は腕を外し、けれど警戒は緩めずに距離を取った。


 ジャウラット教授は、ツーヴィア公爵令嬢と似て非なる雰囲気を持っていた。この世界に存在していながら、あたかも別の世界の時間を生きているかのような印象を与える。イルナティリス出身者の特徴か、その体は小柄だ。成人男性である割に、身長が一六〇センチ程度しか無い。髪は真夜中の空と同じで、瞳は琥珀を埋め込んだかのよう。足先まですっぽりと覆うほど長い漆黒のローブを羽織っており、色彩が鮮やかなこの世界では異常な存在に思える。グリック殿下は、この色合いを俺と同じだと評したのだろうか。否定したオルバート様に全力で賛同したい。たとえ褒め言葉だとしても、これほどおぞましい人物と一緒にしないでほしい。


「さぁ、理由は何だい?」

「私の主がジャウラット教授の授業を受けており、どのような先生か気になりまして……。失礼ですが、噂を全く聞かないものですから」

「それでぼくがいない間に研究室を調べようと?随分思いきったことをするものだなぁ。君、まともじゃあないだろう?」

「よく言われます」


 テーブルに放り出されていた日誌を、蜘蛛のような指が書類立てにしまった。そのまま引き出しを開け、一枚の紙を取り出した。それを乗せた画板と鉛筆を構えると、ジャウラット教授は俺に視線を寄越す。その腰を下ろされたテーブルは、ギシリと悲鳴を上げた。


「名前と学年は?」

「不問にしていただけるのでは?」

「それはそれとして、データは欲しいのだよ。ほら、名前と学年を答えたまえ」

「……リュード・トークル、一年です」

「リュード・トークル、一年。──オルバート・ギアシュヴィールとは、いつからの付き合いなんだい?」

「ジャウラット教授、そろそろ授業に戻られたほうがよろしいのではないでしょうか?」


 俺は質問を質問で返した。辛うじて、言葉を紡げた。動揺するな、と自分自身に言い聞かせる。オルバート様の存在はジャウラット教授も当然知るところであるし、俺の主であると把握しているのも珍しいことではない。俺の外見は、この学院においては目立つ。グリック殿下も、他の学生が俺とユーリルを認知しているというようなことを言っていた。ジャウラット教授は仮にもここの教員なのだから、俺とオルバート様を結びつけても何ら不思議なことではない。


 現在の時刻は、授業が始まって三十分経った頃だろう。学生を解散させるにはまだ早いので、自習という形で放置してきているに違いない。長時間離席するのは、ジャウラット教授の立場として良くはないはずだ。しかし、本人は肩をすくめただけだった。


「もう数分は問題無い。人の魔法はたかが知れている」

「……」


 意味深長な言い方だが、俺にはその真意は分からなかった。実のところ、俺は魔法の知識をほぼ持ち合わせていない。その理由としては、人類の国家で魔法学が定着していないというのもある。魔獣の加護を授かった子供がいる家庭のみ、外国から取り寄せた文献や魔法学を扱っている教育機関で学ぶが、以降それが継承されるわけでもない。正直、魔法の微々たる力よりも、人類の叡智の結晶である科学のほうが生活に便利だからだ。しかし、ギアシュヴィール公爵家は魔族との交易路を持つので、邸宅の書庫にいくらか情報があったはず。入学前に読んでおくべきだった。いや、それはそれでオルバート様から引き離される羽目になっていたか。俺が余分な知識を求めていたら、さすがの旦那様も反意を疑ったかもしれない。やはり、目立たず静かに過ごすのが最善だった。


 知りたいかい、とジャウラット教授は首を傾けた。さらりと流れ落ちた髪は、何の光も反射していない暗黒だ。文字通り、べっとりと塗り潰されているように見える。何かを隠すために、全てを闇に葬ってしまったかのような。好奇心を溢れさせる双眸も、人形の眼球と同じ贋作に錯覚させる。研究室そのものが、ジャウラット教授という作り物を飾り立てるためのドールハウスだ。


「そうですね。気になります」

「そうかい、そうかい。オルバート・ギアシュヴィールの思い出話のお礼に教えよう」

「でしたら結構です」

「釣れないなぁ」


 トンッ、とその小さな足の裏は床に着地した。くるんと回った勢いでフードをかぶると、ジャウラット教授は俺の前に立ち塞がった。左手で軽くめくられた布の下、大気圏に突入した隕石のごとき輝き。二つのその色は俺を見上げ、弧を描く。


「ならば、とっておきを見せようじゃあないか。誰にも明かしたことがない、ぼくの秘密だ」


 ジャウラット教授の右手の人差し指は、わざとらしくその唇に当てられた。瞬間、ぶわりと湧き出た奇っ怪な空気。俺の肌をぞわりぞわりと逆なでするそれは、段々と濃度を増していく。──直後、ジャウラット教授の全身は透けた。


「……!?」

「君がご主人様のことを話す気になったら、これがどういう原理なのか教えてあげるよ。何も、重大な秘密を教えてほしいわけじゃあない。ただ、彼の魔力の所以を知りたいだけだ」


 ゆらり、ゆらり。かげろうのように、真っ黒な姿は輪郭も色も手放していく。俺が何度瞬きをしようと、ジャウラット教授の姿はどんどんと消えていく。人類には実現できない、魔族さえ手が届かないはずの、透明化という魔法。この世界でこの技術を持っているのは、魔獣という生き物のみだ。動物も、人も、己の姿を他者の視覚から消せるはずがない。

 やがて、ジャウラット教授は完全にいなくなった。気配も感じられないから、運動場へと戻っていったのだろう。はぁ、と俺は大きく息を吐いた。全身の毛穴から汗が吹き出る。この世界の非現実感には慣れたと思っていたが、だからこそ、この世界の理を外れた現象には太刀打ちできないらしい。


 どうするべきか、思案する。この情報をユーリルに共有するか否か。ユーリルに知らせれば、旦那様にも報告することになる。いや、ジャウラット教授がオルバート様に特別な興味を持っていた辺り、報告しないという手はないか。目的はオルバート様だとして、向こうが穏便な手段を選んでくれるとは限らない。


 だが、俺は一つ怖がっていた。現在、この世界は物語の針路から徐々にずれている。それは俺が望んで仕向けた現状であり、けれど完全に分岐させられたわけではない。また、この世界の未来が物語と極端に異なる方向に向かってしまうと、それはそれで未知の危機が起こるだろう。俺が企てているのは、物語におけるオルバート様の悲劇を極力潰すことだ。ジャウラット教授との関わりを深め、新たな問題に巻き込まれるつもりはない。もしものときに助けてはほしいが、火種となるなら邪魔だ。物語でヒロインたちがたどったシナリオと同じように、ジャウラット教授とは距離を置くべきではないのか。尤も、自ら首を突っ込んだ俺が悪いのだが。

 あー、と俺は肩を落とした。藪をつついて蛇を出すなど、たとえ頼まれてもごめんだった。

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