第13話 十七歳④

 魔法学、という学問がある。その名の通り、主に魔族や魔獣が生まれながらに使う、魔法を研究する領域だ。人類の大半は魔力を持たないので、魔法学は魔族の国家で著しく発展している。したがって、魔法を指導する機関を設置している人類の国家はほとんど無い。しかしその例外として、魔法学の特別授業を開講している教育機関もある。大陸中で片手に数えられるほどしか無いそれらのうちの一箇所、それがヴァルド学院だ。


 魔法学の教師が持つ研究室へと続く廊下の角、俺は予定外の人物と鉢合わせた。


「サイオン様。こんにちは」

「あぁ、リュードか。奇遇だね」


 黒っぽい赤髪に澄んだ黄色の双眸を持つその人は、少々慌てた風に眼鏡を掛け直した。サイオン様には、グリック殿下が俺に名前呼びを許したせいで自らも許可したという事情があるので、俺としても二人きりは非常に気まずい。高慢ちきな貴族だとは思っていないが、内心どう考えているのか悪い意味で気になる。


 サイオン様は、その場から一向に立ち去らない。そう言う俺も、一旦端に避けたせいで動き出すタイミングを逃した。ずん、と異様に重い沈黙が廊下に充満している。俺はどうするべきだろうか。


「えー……グリック殿下の付き添いでしょうか?」

「え?あ、うん」

「そうでしたか。私もオルバート様が心配でして……」


 現在、オルバート様は魔法学の授業中だ。魔法を使える学生だけが受講でき、研究者でもある教師の希望だそうで、毎月末の一時間しか開講されない。受講者のほとんどが魔族なので、魔獣の加護を持つがゆえに参加している人類は肩身が狭い思いをしているかもしれない、その点で俺はオルバート様が心配だ。他にツーヴィア公爵令嬢とツヴァイン侯爵令嬢、特例でグリック殿下もいるとは言え、オルバート様は人付き合いを拒絶しているかのような雰囲気を持っているのだ、果たしてクラスメイトと一緒に授業を楽しめているだろうか。

 あはは、と俺は愛想笑いをしてみた。はは、とサイオン様も愛想笑い。いや、俺は使用人なのだから、サイオン様に気を遣わせてはいけないのだが。この情けない状況をオルバート様には見てほしくないような、今すぐ現れて打開してほしいような。


 互いに睨み合ってしばらく、ふと、サイオン様の視線が泳ぎ始めた。ちらちらと左右に動かしては俺を窺い、何か言いたいことがあるのか口を開けては閉じる。その両手は忙しなく、ローブの袖をすり合わせたり折ったりしている。その口がようやく声を発したのは、こちらから聞くべきだろうかと俺が迷い始めた頃だった。


「お、オルバートとは、どんな感じ?」

「ど、どんな……?」

「寮ではどう過ごしているの?お茶はリュードが淹れているんだよね?洗濯物とかは?」

「いえ……オルバート様は、ほとんどのことをご自分でなさいます」

「そうなの?」


 ずい、とサイオン様は俺の眼前に歩み寄ってきた。近い。見上げないでほしい。思春期の三年差というのは身体的に大きな違いを生むもので、俺は周囲の誰よりも背が高い。特に、サイオン様はオルバート様よりも低身長だ。しかも、パンダのような丸眼鏡がかわいらしく似合ってしまうほどの童顔。熱烈な視線を向けられると、コミュニケーション能力が低い俺はたじろいでしまう。


「あ、ごめん……。僕と君の立場が似ているから、つい……」


 かぁ、とサイオン様の頬は微かに赤く染まった。赤面症なのだろうか。現世の俺の周りにはいなかったタイプだ。オルバート様は基本的には何事にも動じないし、ライシャ様はああ見えて精神力が強い。前者は公爵家嫡男としての教育のたまものであり、後者は異母兄姉によるいじめの副産物だろう。改めて、ライシャ様がファイアン公爵邸から抜け出せて良かったと思う。無論、そのきっかけは最悪なものだったが。


 俺が疑問に首をひねっていると、サイオン様は発言の意味を説明してくれた。曰く、グリック殿下も自分のことは自分でこなしてしまう、と。サイオン様はグリック殿下の補佐として入学したのに、来る日も来る日も物理的に付き従っているだけであることに焦燥感があるそうだ。グリック殿下のために何かをしたい、けれど何をすればいいのか分からない。

 サイオン様のその感情は、俺も共感できる。


「君はどう思う?僕はここにいていいのかな……?」


 それは、貴族が使用人にする問いではない。ましてや、貴族が平民に助けを求めてはいけない。貴族が貴族たるゆえんは、その矜持にある。貴族は平民よりも上位の存在であり、平民を蔑ろにしてはならないが、平民と同等までへりくだってもならない。逆に言えば、サイオン様はそうなってしまうほどに悩んでいるのだろう。俺は少し考え、慎重に言葉を選ぶ。


「サイオン様のお立場は、グリック殿下の侍従なのでしょうか?」

「え?あ、いや、違う。……友人、なんだと思う、グリックの友人を決めるお茶会で、僕を選んでくれたから」

「では、ご友人として学院生活を楽しまれればよろしいのではないでしょうか?紅茶を入れたり洗濯物を持っていったりするのは、侍従や侍女の仕事です。サイオン様がご友人であるからこそ、グリック殿下はそのような用事をお任せにならないのでは、と私は思います」


 少なくとも、グリック殿下がサイオン様に向ける視線はある程度対等なものだ。授業の疑問点を話し合っては頷いているし、オルバート様といるときもサイオン様を決して除け者にしていない。サイオン、と呼ぶその声には、オルバート様を呼ぶときのそれよりも親愛が含まれているように感じる。尤も、もしグリック殿下が名役者であれば無意味な推測だが。しかし、物語におけるグリック殿下は素直な性格をしていた。ヒロインを利用して魔族に近づいたり、オルバート様を罠にはめてヒロインを独り占めしたりする場面は無い。きっと、信頼には信頼で応える人なのだろう。オルバート様と同じく、この世界のグリック殿下は物語と異なるという場合もありえるが、俺の洞察力を信じるとこういう結論になる。

 俺の見解を聞き、サイオン様は納得できる部分を見つけたようだ。確かに、と小さな声で呟き、やや己の背後に視線を投げた。その先にあるのは、魔法学の教授の研究室だ。現在、グリック殿下が授業を受けている部屋。


「……ありがとう。君のおかげで、僕がどうすればいいのか分かった気がする」

「お役に立てたなら光栄です」


 サイオン様は笑った。決意に満ちた、自信を取り戻した笑みだった。その表情に、俺もつい笑顔がこぼれる。


 俺はどうだろうか。俺は、何のためにここにいるのだろうか。決まっている、オルバート様を幸せにするためだ。幼い俺を救ってくれた恩を返すために、オルバート様を絶対に魔王にさせない。ライシャ様と二人で歩む未来が現実になるように、オルバート様の前を遮る全てを排除してみせる。


 突如、ざわめきが耳に届いた。サイオン様と同時にそちらを見ると、教授の研究室から学生たちが退出している。授業は今しがた終わったらしい。やがて、オルバート様とグリック殿下がこちらに気づいた。


「リュード。何かあったのか?」

「いえ、オルバート様を迎えに来ました」

「サイオンは私の迎えか?」

「まぁ、そんなところ」


 俺とサイオン様は、どちらからともなく目を合わせて苦笑した。身分や立場が違えど、主を思う気持ちには通ずるものがある。


 ツーヴィア公爵令嬢とツヴァイン侯爵令嬢は、教授と個人的な話があるので教室に残っているそうだ。寮までの帰路をたどりながら、サイオン様はグリック殿下に問う。


「授業はどうだった?」

「独特な教授だったよ。生粋の学者と言うか……授業さえ研究の一部としているようだった」

「何て名前の人だっけ?」

「シドラ・ジャウラット教授だ」


 シドラ・ジャウラット、と俺は内心で繰り返した。これから関わるかもしれない、この学院で最も魔法に精通している人物。俺が研究室を目指していたのは、この人の様子を探るためだった。


 ここで、少し考えてみたい。オルバート様の魔王化に、要因が二つあるとしよう。

 一つは、精神面。幼少期に母君とライシャ様を失い、やっと出会えたヒロインにも選ばれなかったこと。元々ひびが入っていたオルバート様の心は、十七歳の冬に決定的に破壊される。この世界において、俺はこれを阻止するためにライシャ様を助け出した。現世のオルバート様の心の傷は、ライシャ様の存在が癒やしてくれているだろう。

 そして、もう一つ。俺の推測が正しければ、オルバート様が持つ魔力を規格外に増幅させた存在がいる。

 この考えに至った理由は、ヴァルド学院の特色だ。この土地には魔獣が極めて多く生息している。全容は知らないが、ギアシュヴィール公爵邸とは比べ物にならないだろう。生まれつき体内に魔力の供給機能を有している魔族とは異なり、魔法を使える人類の魔力は魔獣の加護で補われる。すなわち、与えられる加護が大きければ大きいほど、その者の魔力は強大になる。物語のオルバート様も、魔獣の加護によって魔王の力を得たのではないか。入学して明らかになったことに、オルバート様は魔獣にとても好かれている。ヒロインに裏切られ絶望の淵に立たされた友を助けようと、魔獣たちがオルバート様に力を授けてもおかしくない。オルバート様が世界を崩壊させようとするのは、過ぎた力の捨て先を求めたがゆえでもあるのではないだろうか。


 ジャウラット教授について、物語ではモブキャラクターとして触れられるだけだ。しかも、個人名は出てこない。魔法学の教授も知らないようだった、というようなたった一言のモノローグで登場するのみ。だが、こと現実において、ヴァルド学院で魔獣や魔法に関連する事件が起きたなら、それはジャウラット教授の管轄になる。つまり、俺はジャウラット教授を拷問してでも味方に付ける必要がある。オルバート様の身に何か起きたとき、頼りにできるのはその道の専門家だ。

 今日は、ジャウラット教授がどれほど有用な人なのかを探るつもりだった。しかしサイオン様と話し込んでしまい、オルバート様も授業を終えてしまった。急ぎではないので、明日以降に出直すべきだろう。


「オルバートから見て、ジャウラット教授はどんな感じ?」

「……」

「髪と目の色がリュードと同じだから、複雑なのだろう」

「同じじゃない!リュードのほうが夜空のようできれいなんだ、一緒にしないでくれ」

「そうだな。悪かった」


 グリック殿下は肩をすくめた。オルバート様にしてみれば、ジャウラット教授の人柄は苦手なものらしい。俺はどう反応を返すのが正解か分からず、不自然な間を作ってしまう。俺の外見は父さんとそっくりだから、いい感情を向けられたことはほとんどない。親の敵とよく似ているにも関わらず、オルバート様はなぜ好んでくれるのだろうか。オルバート様を否定するつもりはさらさらないが、俺にはその感覚が理解できない。オルバート様に好いてもらいたいと思っていながら、それを素直に受け入れることはできないでいる。情けないほど、身勝手な感情だ。

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