第4話 十二歳④

 そろそろ、この世界のストーリーを大まかに記述しておこう。この物語の主人公は、坊ちゃまではない。俗的な表現をすれば、坊ちゃまは当て馬だ。学院で出会ったヒロインに恋をするが、同級生であるこの国の王子に負けて魔王化するラスボス。一緒にいると約束したはずのヒロインが正ヒーローを選んだことで、それまでに積み重なった悲しみや憎しみが爆発し、魔獣を率いて世界の破壊を企てる。一応追記しておくと、ヒロインは友人という枠組みの中で約束をしたのであって、恋愛という観点に立てば坊ちゃまを裏切ってはいない。坊ちゃまが一方的に、依存的にヒロインを愛していただけだ。もちろん、現世の俺はそれでも坊ちゃまの味方だが。

 逆に言えば、その悲しみや憎しみを取り除くことで、坊ちゃまが魔王化する展開を防ぐことができるだろう。


 一つ目は、坊ちゃまの母君の死だ。魔獣の加護のおかげで坊ちゃまは命からがら助かったが、母親を見捨てたという罪悪感と、暗殺者および依頼主への恨みに苦しむこととなる。しかし、現世の坊ちゃまは物語と違い明るい性格をしている。これは俺が実行犯である父親を殺し、依頼について知っている限りの全てを打ち明けたからだろう。尤も、俺は重要な情報を与えられていなかったので、依頼元の特定には至らなかったが。とにかく、俺は期せずして、坊ちゃまの最悪な経験値を減少させることに成功していたわけだ。

 二つ目は、婚約者であるライシャ・ファイアンの死だ。ライシャ様はファイアン公爵家嫡男の不倫相手から生まれた娘だが、ファイアン公爵がアイリーと引き合わせた場で坊ちゃまが見初めた。アイリーは見世物のつもりでそこにライシャ様を呼んだのだから、皮肉な結果だ。なお、ライシャ様の母親は奉公に出ていた貴族息女なので、血筋としては不足ない。

 ライシャ様の死を招いたのは、火事だ。ライシャ様が一人で住む離れに何者かが火を放ち、瞬く間に燃え上がった。消火は間に合わず、ライシャ様の遺体は倒壊した木材の下敷きとなって見つかる。坊ちゃまの決壊には複数の要因があるが、最も大きなものはこれだ。よって、俺はライシャ様を何としても救出しなくてはいけない。


「リュード、やっぱりネックレスのほうが良かっただろうか?花束はもう少し大きいほうがいいんじゃないか?」

「どちらも素晴らしい贈り物だと思います。……そろそろ出発のお時間ですよ」

「いや、だが……」


 坊ちゃまがここまで落ち着かないのは珍しい。ライシャ様のことが本当に好きなのだと、俺も他の使用人も微笑ましく見守っている。玄関ホールで五分ほどもだもだとした後、坊ちゃまはようやく車に乗り込んだ。


 今日はライシャ様の誕生日だ。昼にバースデーパーティーが催されるので、坊ちゃまは今からファイアン公爵邸を訪問する。この日のために用意したのは、花の細工が美しいオルゴールと、小さな花々が中央のカーネーションを彩る花束。おませな年頃の女の子には物足りないだろうが、ライシャ様は控えめな人なのでむしろ喜ぶはずだ。ありがとう、すごく嬉しい、と坊ちゃまに満面の笑みを向ける場面が想像できる。


 ファイアン公爵邸が建っているのは、ギアシュヴィール公爵邸からおよそ三十分の場所。この辺りは王城のお膝元である貴族街であり、人よりも自動車の往来が多い。歩道と車道という概念など無いから、時たま人が自動車の前を横切ってはクラクションが鳴り響く。俺はまだ運転できる年齢ではないが、事故を起こさないかすでに不安だ。

 ファイアン公爵邸が見えるか見えないかというところで、道が突然混雑し始めた。列を成す自動車はぎゅうぎゅうに詰まり、野次馬なのか人も多い。運転手は、窓を開けると通行人に状況を尋ねた。親切なその人から返ってきたのは、この先で事故があったという知らせ。


「坊ちゃま、衝突事故で渋滞が発生しているそうです。私はファイアン公爵邸に遅れる旨を伝えてきますので、このままお待ちください」

「……いや、歩いていこう。リュードがいるなら、僕を守ってくれるだろう?」

「命に代えてもお守りします」

「……そう、か」


 坊ちゃまは、どう反応したものか迷ったようだった。事実なので、むしろ偉そうにしてもらっても構わないのだが。とは言え、この街で犯罪に巻き込まれることはそうそうないだろう。憲兵が巡回しているし、俺は周囲の悪意や殺気に敏い、誰かが坊ちゃまを狙っても対応できる。それに、坊ちゃまが呼べばコージュリアが来るだろう、今日は姿を消して付いてくると言っていた。


 プレゼントは運転手に任せ、俺と坊ちゃまは地面に降り立った。俺が道の内側を歩き、万が一車が突っ込んできても坊ちゃまを逃がせるように注意を配る。久々に街を歩く坊ちゃまは、心なしか浮かれているようだ。自動車の列が無ければ、視界が開き街並みをいくらか楽しめただろう。今度、街の散策を提案してみようか。俺の案だと旦那様に伝わったら、坊ちゃまを殺すつもりかと疑われてしまうだろうか。


 不意に、煙の臭いがした。素早く周囲に目を走らせると、曲がり角の先に立ち昇っているそれを発見する。俺と違い人並みの五感を持つ坊ちゃまは、まだ気づいていないようだ。──あれ、と引っかかった、記憶。


 物語において、ライシャ様が亡くなった日、坊ちゃまはファイアン公爵邸を訪れていた。と言うのも、この日はライシャ様の誕生日だったからだ。到着してみれば、屋敷中がばたばたと慌ただしい。火事が起きたのだと報告を受け、ライシャ様の無事を願いながら向かった先で坊ちゃまが目にしたのは、ガラガラと倒壊していく離れ。もし自分がもっと早くに駆けつけていれば、魔獣に力を借りて婚約者を助けられたかもしれない、そう坊ちゃまは後悔し続けて生きていく。


 ──俺は、半ば衝動的に坊ちゃまを抱き上げた。


「えっ……」

「申し訳ありません、走ります!」

「はっ?」


 タンッ、と俺は強く、けれど端的に地面を蹴った。姿勢を低く維持し、常人の二倍以上の一歩で人混みを駆け抜ける。もはや、跳んでいるという表現のほうが近い。父さんから仕込まれた、現場から一刻も早く逃走するための、あるいは逃げる標的に追いつくための足運び。風を切る以外に音は立てず、獲物をさらう鷹のように空間を突く。口を開けば舌を噛むと察したのか、坊ちゃまは黙って俺にしがみついている。

 数百メートルを真っ直ぐに、曲がってさらに数百メートルを進めば、がっちりとした門扉を構えるファイアン公爵邸にたどり着いた。予想通り、敷地の一部からもうもうと煙が上がっている。位置は、ライシャ様が暮らしている離れと同じ。

 俺が侵入すると、門番は坊ちゃまの髪色を見てはっとした。ところがその口が声を発するよりも一足先に、坊ちゃまが煙を視覚と嗅覚で感じ取った。


「……ライシャはどこだ!?」

「はっ。あ、いえ、それは……」

「坊ちゃま、火元に近づいてもよろしいですか!?」

「ああ、急いでくれ!」


 止めようとする門番を振り払い、俺は常人の駆け足で離れのほうへ行った。パチパチ、ゴォ、と特有の騒音を奏でる炎は、木製のそれを真っ赤に染め上げていた。周囲には使用人が集い、桶やバケツに入れた水を掛けることで消火を試みている。ファイアン公爵一家の姿は見えないから、避難しているのだろう。


「ライシャ!ライシャ!」


 坊ちゃまは必死に叫んだ。俺は降りようともがくその体を何とか押し留め、考える。どうすれば、何をすればライシャ様を助けられるのだろうか。当然ながら時間は無い。悠長に結論を選びあぐねていれば、家屋はあっという間に倒壊してしまう。ライシャ様が取り残されていることは分かっている。ライシャ様がいる部屋も分かっている。考えろ、考えろ。


「……坊ちゃま。坊ちゃま!ファルケはいますか?力を借りたいんです!」

「あ……ああ、いる!ファルケ!」


 突如、赤い光が小さく弾けた。ふわりと現れたのは、まるで焚き火のような髪とダイヤモンドのような目を持つコージュリア。ファルケ、と坊ちゃまが名づけ、今日もこっそりと付いてきていた魔獣だ。


「オルバート、危ない」

「ライシャが中にいるんだ!頼む、助けてくれ!」

「できない」

「なぜ!?」

「火、大きい。人、重い」

「俺が入ります」


 坊ちゃまは、問答に割り込んだ俺をぱっと見上げた。


「リュードが……?」

「坊ちゃま、俺を炎から守るようファルケにお願いしてください。道を空ける程度の手助けでいいんです。多少火傷しても動けます」


 面倒なことに、魔獣は友のお願いしか聞かない。俺がファルケの力を借りるには、坊ちゃまから言ってもらう必要がある。


「だ、だが……」

「俺は大丈夫です!お願いします!」


 ライシャ様を助けたい、坊ちゃまの未来のために。


 そっと、俺は坊ちゃまを芝生に下ろした。駆け出さないことを確信し、しゃがんで目線を合わせる。少しだけ、坊ちゃまのほうが高い。初めて会った六歳と三歳の頃から、俺は六年間この人の側に居続けた。坊ちゃまの命運が分かれるのは、きっと今日、この瞬間だ。母親を目の前で殺されながらも気丈に生きる坊ちゃまは、ライシャ様をも失えば本当に心を壊してしまう。最悪、俺がこの先坊ちゃまを守ることも叶わなくなるかもしれない。せっかくこの場に間に合ったのに、俺を信じて坊ちゃまはここに来たのに、俺の無事と引き換えにライシャ様が死ぬのは絶対に駄目だ。

 一秒にも満たない逡巡の後、坊ちゃまの灰色の双眸に光が宿った。


「ファルケ、リュードを助けてやってくれ。リュード、ライシャを頼む。絶対に無理はするな」

「うん」

「承知しました」


 俺は、ファルケと共に燃え盛る家屋の前に立った。熱気は容赦なく肌を焼き、煙は我先にと肺を侵す。さすがに火の中に飛び込んだ経験は前世も含めて無いので、暑さに加えて恐怖由来の冷や汗も吹き出てくる。それでも、坊ちゃまの幸せのためにこの身を費やすと決めた。


「ファルケ、頼んだ。二階に行きたいから、階段を上れるように火をどけてほしい」

「うん」


 はー、と長く息を吐いた。肺が空っぽになったところで、すーっ、と空気を目一杯取り込んだ。少なくともニ分間は息を止めていられる。一族の技術が人助けに利用できることを皮肉に思いつつ、俺は意を決して炎の中に飛び込んだ。

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