第5話 十二歳⑤
離れの内部は、煌々と眩しい。今着ている制服には防火耐性など施されていないので、ファルケの助力が無ければあっという間に火が燃え移っていただろう。水をかぶってから来れば良かったかと思い至ったが、今更だと頭を振って思考をクリアにした。
めらめらと揺れる炎のトンネルをくぐり、階段を踏み締めるように上っていく。板が抜け落ちるというアクシデントはありつつも、どうにか二階の床に足の裏が着いた。ギアシュヴィール公爵邸よりも短い、けれどこの異常事態においては余計な距離を持つ廊下。俺はそこを迷わず進み、ちょうど庭と面しているだろう部屋のドアをそっと開けた。物語の中で、ライシャ様の焼死体は自室で見つかったと記述されていた。俺も坊ちゃまもこの建物に入ったことはないが、いつかにティータイムを楽しんでいた際、私室から見える花壇がきれいなのだとライシャ様は言っていたはずだ。
ここにいてください、と念じつつ開いた俺の目に映ったのは、椅子に押さえつけられるようにして転がっている子供。
「ライシャ!大丈夫!」
ファルケの言葉通り、ライシャ様は微かに呼吸をしていた。ワンピースは所々焦げているが、幸いにも重篤な火傷を負っている様子はない。ただ、あまりに大きな問題もあった。──ライシャ様の体は、ロープで椅子に縛りつけられていた。
「……!」
「早く!壊れる!」
分かってる、と言いそうになり、すんでのところで堪えた。バキ、バキ、と階下で柱か何かが割れていく音がする。袖からナイフを出し、プツンッ、とライシャ様の胴を固定しているロープを切った。他に両手首と両足首がそれぞれ拘束されているが、こちらはそのままにしてとりあえず空いた椅子を持ち上げる。放火犯には戯れのつもりがなく、それどころかライシャ様に明確な殺意があったのだろう。この場でライシャ様を自由の身にすると、たとえ放火犯があぶり出されたとしても、不慮の事故やただの建築物破損の罪しか明るみに出ない。ライシャ様には申し訳無いが、このままの姿を衆目にさらして事態の重要性を引き上げたほうが賢明だ。
立派な木彫りの椅子を、俺は力一杯窓に叩きつけた。パリィンッ、とガラスが砕け散った瞬間、ぶわっ、と空気の流れが一気に変わる。火事の際に窓を開け放ってはいけない、は火災訓練の常套句だ。酸素の供給が果たされることで炎の勢いが増し、手が付けられなくなる。だが、今回ばかりは別だろう。俺はライシャ様を向かい合わせにして抱き上げると、一呼吸置いてから外の世界へと飛び出した。
俺の体が宙に浮くと同時に、背後で離れが瓦礫に変わった。
右足で刹那の着地を図った直後、体を無理やり傾けて地面に平行な受け身を取る。ごろごろごろっ、と濡れた草の上を勢い任せに転がる間、ライシャ様の体を守ることのみに専念する。後頭部、背中、腕とどこもかしこもぶつけているが、元来俺の無事は優先順位に数えてすらいないので構わない。三回転ほどして仰向けに停止すると、取り戻した視界に煙越しの青空があった。
「リュード!ライシャは……!」
「はい、こちらに」
不特定多数のざわめきが鬱陶しいが、いついかなるときも俺は坊ちゃまが最優先だ、痛む体に鞭を打って起き上がり、ライシャ様を草地に横たえる。ひねったのだろう、右足首から尋常でない激痛が伝わっているが、何ともない顔をしてライシャ様の脈を測る。とく、とく、と穏やかなペースで血脈は波打っていた。座り込んだ坊ちゃまはライシャ様の前髪を優しい手つきでよけ、その無事を認めると静かに泣き出した。
「リュード、ありがとう……!ライシャ、ライシャ……」
俺は何も言えなかった。悪い意味ではなく、何かを言えば野暮になると思ったから口を閉じた。足首の痛みに喋るどころではなかったとも言う。春の涼しい空気に触れているのに、背中を伝う汗が後を絶たない。もしかして、まずいひねり方をしたのではないだろうか。幼少期は訓練の最中によく脱臼したり骨折したりしていたものだが、久々の傷は精神的にも良くないらしい。
不意に、坊ちゃまの泣き声が途切れた。潤んだ瞳には疑念が宿り、指先はライシャ様の手首をこわごわとたどる。そういえば、俺は命の次に重要なことを報告していない。
「リュード。これはどういうことだ?」
「発見したときにはすでにこうでした。足首も捕らえたうえで、逃げ出せないよう椅子に縛られていました」
「何!?……つまり、この火事はライシャを殺すために起きたということか……」
動揺はあまねく広がる。本心か演技か、ライシャ様の無事を間近で確認した人々は、口々に憶測を噂し始めた。担架を運んできた者たちも、予想外の展開にどうしたものかと立ちすくんでしまっている。やはり、坊ちゃまは賢い。権力を持つ者として、己が有利になるように状況を誘導できる。ここまで大事になれば、ファイアン公爵もそれ相応の対応をせざるを得ないだろう。
坊ちゃまとライシャ様の婚約は、隣国への輸出ルートの拡大を望むファイアン公爵が持ちかけたものだ。そこには国力増強を図る王家も一枚噛んでおり、いくら不倫相手との間の子であるとは言え、ファイアン公爵家にはライシャ様を保護し養育する責務がある。旦那様とて、先代の親友だからというだけでファイアン公爵からの話を受けたわけではない。ライシャ様の不遇はギアシュヴィール公爵家を無下にするものだとして、半ば強引でもファイアン公爵家の権力を削りにかかるだろう。現在辛酸を舐めさせられている競合派閥も、経済界の重鎮を引きずり下ろそうと首を突っ込んでくるに違いない。そこに王家からの厳しい目が加われば、ファイアン公爵の投資活動は今まで通りには立ち行かなくなるはずだ。果たして、ファイアン公爵はどう始末を付けるつもりなのか。
間もなく、ライシャ様は侍医のもとに運ばれた。坊ちゃまは目が覚めるまで側にいようとしたが、他に危険があるかも分からないからということで、憲兵の到着を待ってギアシュヴィール公爵邸に帰った。なお、ファイアン公爵一家とは顔を合わせる機会があったが、まともな会話はしていない。今回の後片づけにはギアシュヴィール公爵家も協力します、と坊ちゃまが告げたときのファイアン公爵の顔は、苛立ちと後悔を混ぜ合わせたかのような表情を湛えていた。
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