第3話 十二歳③

 俺はアイリーの背後に立ち、袖から引き出したナイフをそのたるんだ顎の下に添えた。開ききった視界の中、坊ちゃま以外の全てが敵に見える。鼓膜を揺さぶるは、体中を急速にめぐる血潮。殺せ、ともう一人の俺が静かに騒ぎ立てている。母さんを殺したときと同じように、この子供たちも殺せばいい。


「──やめろ!!」


 ──うなじに電流が走った。


「……!……!」


 悲鳴を上げそうになり、歯を食いしばって耐える。取り落としかけたナイフを服の下にしまい、アイリーから覚束ない足取りで離れる。ガサ、と背中に植物が当たった。ずるずると腰を下ろせば、引っかかった花びらがはらはらと舞い落ちた。

 うずくまる俺の傍らに、坊ちゃまはしゃがんだ。うなじを押さえる俺の手の甲に、柔らかいそれを重ねてくれる。温かい。涙がにじむ。


「すまない。話せるか?体に異常は?」

「大、丈夫、です」

「今日はもう帰ろう。俺の体調が悪いということにすればいい」

「申し訳ありません……」

「いいんだ」


 俺はよろよろと立ち上がった。はぁ、と深く息を吐き、すぅ、と鼻から酸素を取り込む。問題無い、正常だ。落ち着いて考えてみれば、ここで殺しては坊ちゃまの立場を危うくするだけだ。俺という危険分子を貴族の手元で生かしておいたとして、ギアシュヴィール公爵の政治的生命も終わる。殺すなら今ではない。ギアシュヴィール公爵家との関連性が疑われない状況下か、坊ちゃまが確固たる地位を手に入れた後にするべきだ。

 いつの間にか、アンジアとアイリーは寄り添っていた。怪物を前にしたかのような目で、俺と坊ちゃまのことを否定的に見詰めている。これまでと似た、けれど決定的に異なる感情、人でなしに向ける温度。


「お……おじい様に言うから!私をこ、殺そうとしたって、おじい様に言ってやるんだから……!」

「人聞きが悪いことを言わないでください。使用人を遠ざけたのはあなたたちの指示ですし、白昼堂々の殺人未遂を大人たちが信じるわけがないでしょう」

「そんなはずない!」

「なら、お好きにどうぞ。僕たちは否定しますよ、やってませんから」


 行こう、と坊ちゃまは俺の右手を引いて歩き始めた。俺よりずっと低い位置にある頭は、中庭の出口だけを見据えている。そのほの暗い青を見ていると、荒んだ気持ちも霧散した理性ももとに戻っていった。


「坊ちゃま、なぜですか?」

「何が?」

「母君のことです。全部言ってしまえば良かったじゃないですか。私のせいでフラウムたちが……」

「リュードのせいじゃない。あの二人の勝手な妄想だ、気にしなくていい」

「ですが……」

「リュードは僕を守ってくれた。お母様を守るのは失敗したが、自分の命を懸けて僕を助けたんだ。悪いのはリュードの父親と依頼主であって、リュードじゃない」


 これからも信じてる、と坊ちゃまは言った。俺を見上げ、優しく笑った。その双眸に反射する俺は、泣きそうな顔をしている。


 六年前、暗殺者である父さんはギアシュヴィール公爵家で使用人をやっていた。一口に暗殺業と言っても色々な手法があるが、父さんはじっくりと時間を掛けて依頼を遂行する人だった。紹介状を偽装したうえで貧しい一人親という体で雇用してもらい、他の使用人との信頼関係を築き、旦那様たちの生活を調べた。

 この依頼は、俺が初めて関わった暗殺だった。前世の記憶を持つ俺は一族の生業に忌避感を覚えており、父さんの言うことを聞いて生き延びるか、逆らって殺されるかの二択で揺れていた。結局俺が選んだのは、父さんを殺して呪縛から逃れるという第三の選択肢。どうせならもっと早くにやれば良かったのに、俺は坊ちゃまの母君を殺した瞬間の父さんを殺した。六歳の教え子が師匠を裏切るには、このタイミングしかないと思った。尤も、一度刺しただけでは殺しきることができず、俺も死にかけることになったのだが。


 当時三歳の坊ちゃまは、俺の遅すぎる行動に恩情を与えてくれた。親を殺してまで自分を救ったと、その勇気を買って専属の侍従にまでしてくれた。もちろん手放しにというわけにはいかなかったが、旦那様も情状酌量の余地があると認めてくれた。条件は、本来は動物にしか施さない、従属の呪いを受け入れること。以来、俺のうなじには坊ちゃまの名前がうっすらと刻まれている。なお、前世で読んだ物語の世界だと俺が気づいたのはこのときだ。坊ちゃまが傷一つ負っていない肌をしていることに、坊ちゃまの側にあまりに独特な境遇を持つ自分が侍ることに、何とも言えない違和感を持ったのがきっかけだった。


「父上、頭が痛くなってきてしまいました……」

「何?熱は?……今は無いな」


 合流した旦那様は、俺の様子を見て何かを察したようだった。しかし何も指摘せず、坊ちゃまの体調不良を信じファイアン公爵たちとの会話を切り上げる。ファイアン公爵は心底坊ちゃまを気遣った。お前の孫のせいで、と俺は喉まで出かかったが、どうにか飲み込んで坊ちゃまと共にこの地獄から脱出した。

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