第51話

 彼は、犬を飼うのが趣味である。彼の弟妹も犬が好きだが、好きであるが故に躾が甘くなるのが難点だった。何度も躾の仕方を教えたが、どうしても詰めが甘くなるのだ。


 被害者の一人であった二十六歳女性が、命からがら監禁されていた家から逃げ出して、その家が建っていた山の麓にある町の住人に助けを求めたことからその事件は発覚した。


 彼は、弟が逃がしてしまった犬のせいで窮地に追い込まれていた。だから最初に喉を潰せと教えていたのに。弟と妹はその詰めの甘さからとうに捕まってしまっていて、だからこそ彼は今も逃げ果せているのだが。

 犬はいい、心を癒してくれる。躾が終わるまでは腹立たしいこともあるが、躾が終わった後の達成感といったら。あれだけ反抗的だった犬が、自分の姿を見ただけで甘えるように鼻を鳴らし、擦り寄って媚びてくる様子など天にも昇る気持ちになれる。

 だから、彼は諦めてなどいない。またどこかに拠点を作って、犬を飼うのだ。弟妹がいないのは寂しいが、あれらは自分の甘さから捕まってしまったのだ。犬さえいればこの寂しさも癒されるだろう。


「……?」


 そう思いながら山道を進んでいた男は、前方から聞こえた葉擦れの音に足を止めた。懐中電灯の細い光を前へ向ければ、そこには一人の青年がいる。


「こーんばーんはー!! どうもどうもー、オカルト系動画を配信してるSUWA君でーす!!」


 場違いな、素っ頓狂な、突き抜けた明るい自己紹介。男の前にいるのは、ぼさぼさの金髪、馬鹿みたいな笑顔、擦り切れたアロハシャツ、オーバーダメージのジーンズにくたびれたスニーカー。当人曰く、動画配信者のSUWA君、らしい。


「今日はねぇ、今話題の指名手配犯!! ヒトイヌ事件の主犯さん!! お名前は……何だっけ? ま、取り敢えずヒトイヌ君ってことで!!」


 わおーん、なんて心底馬鹿っぽい歓声を上げた青年は、スマートフォンを掲げて首を傾げた。男は即座にスタンガンを抜き放ち、青年へ向かって駆け出していく。


「ちょちょちょーい!! 自己紹介くらいしろってぇ!! これからのお名前決める時に困っちゃうでしょー!!」


 男が青年の顔に向かって突き出したスタンガンは空を切った。否、青年の頭を突き抜けた。おかしい、確実に青年に当たっている。そのはずなのに。まるで、そこに実体なんてないかのように、電撃がばちりと宙に散った。


「ネコオトコ君とヒトイヌ君でお笑いコンビとか組んだらウケるくない? イヌネコンビ!!」

「バカの発想かよ」


 そして、スタンガンから逃れるように左側へ傾いた青年の背後から突き出された三叉の刃物らしき凶器。反射的に後退して回避したが、その正体にぎょっとする。それは、巨大な獣の爪だった。


「ま、取り敢えず死んどけや。コンビは組んでやらねぇけどよ」

「えー!? 絶対ウケるってやろうよぉー!!」

「バカは黙っててくんねぇ?」


 そのまま、二閃、三閃目で男の首の皮が切り裂かれる。出血自体は派手だが、傷は浅い。それでも、一撃を食らったという事実は重い。襲撃者から大きく距離を取った男は、それに懐中電灯を向けて、息を呑んだ。

 二足歩行の巨大な猫、らしき化物が、今時の若者らしいちゃらけた服を着ている。その左手、いや、左の前足というべきか、その先端には男の血が付着していた。ごるる、と不機嫌そうに喉を鳴らしたそれは、眩しそうに瞳孔を細める。そこに、作り物、紛い物の気配はない。


「しっかし、趣味っつーか性癖最悪じゃない? どーせ捕まっても死刑確定じゃんすか? だったらさぁ、死んでオレらとわーわーやる方がよくない?」

「コイツが成っても絶対コンビは組まねぇからな」

「えー」


 そして、男に最初に声をかけた青年。その頭、右側が、ザクロのように、緩やかに爆ぜ始める。どろどろと脳漿を垂れ流し、何なら脳味噌まで溢しながら、青年は笑っていた。


「そんじゃ改めてオレらの自己紹介!! オレはぁ、感染性呪詛……って何か厳つくね? まぁ、オカルト系配信者のSUWA君でぇす!! えっとねぇ、オレの動画を見た人間は死にまぁす、でもぉ、拡散してくれたら半死半生で済ませてやるから拡散よろしくぅ!!」

「最悪の化身か? ……あー、ネコオトコって都市伝説、聞いたことねぇ? 猫を殺しまくってたら祟られちまって、自分が猫になっちまったバカの話なんだけどよ」


 男は、後退る。そんな男を見た化物たちは、にたにたと笑っている。その顔は奇しくも、捕らえた人間を虐げて犬扱いしていた時の男とそっくりな、嗜虐的なもの。


「ていうか実際、オレらが手ぇ出す必要もないっつーか、ヒトイヌ君ってば恨まれ過ぎじゃね? 何したの……って、女の子に自分の性癖押しつけて楽しんでたんだっけか」

「それもある種の祟りだな。ま、楽に死ねることを祈れよ、それくらいしかもうできねぇんだから」


 と、男はそこで振り向いた。振り向いて、しまった。そこにいたのは、半人半犬の、新たな化け物の姿で。

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