螺子男
尾八原ジュージ
螺子男
畳の上にネジが落ちている。
これといってなんの変哲もないネジである。プラスのネジ穴がついた、おれの小指のさきっぽくらいの銀色のネジを、おれは「これどこの?」と言って
このちっちゃなアパートの一室は千堂の棲家で、そして今部屋の中にはその千堂とおれしかいないので自然そういうことになるのだが、千堂は「これオレのだよ」とトンチキなことを言いながら、おれの手からネジを取り上げる。
「千堂の持ち物だってこたぁわかってんよ。何についてたネジかってこと」
そう言うと、千堂は「だからオレのなんだワ」と言いながら長く伸ばした黒髪が顔にかかるのをかきあげ、天井を見上げて大口を開けた。そしてその口の中に、ネジをぽいっと放り込んだ。
「おっ」
思わず声をあげたおれの方をぐりっと振り返り、オレのだからさと千堂は言った。そしてにかっと笑った。真っ黒な髪に青白い肌の狐面みたいな細面、幽霊みたいに不気味な人なのに、笑顔だけはまるで子供みたいだった。
千堂に出会ったのは大学でもバイト先でもなく、古書店の店先だった。
その日、店先の百円均一のワゴンを物色していたおれは、何か気配のようなものを感じてふと目線を上げた。そのとき、硝子戸に映る自分の背後に、黒髪を垂らした幽霊みたいなものが映っているのに気づいて、思わず悲鳴をあげそうになった。その幽霊みたいなやつが、いうまでもなく千堂なのである。
「きみさぁ」と、奇妙な長髪男は突然話しかけてきた。「オレが気になる本ばっかピックするよね」
「? ……あっ、はぁ、スイマセン」
こいつすげー言いがかりつけてくんなと思った。面倒だから適当に逃げるべとも思った。ところが、
「オレ千堂っていうんだ。数字の千にお堂の堂」
幽霊みたいな男は、早口で自己紹介を始めた。そして間髪入れず「
心の中を見透かされたような気分でよく見ると、男の笑顔は結構かわいくて愛嬌があった。子供みたいに笑うひとだと思った。
「めっちゃ読みたいすね」
おれはつい、そう答えてしまった。
そういうわけで、その日おれは初めて、千堂の住む築四十年だか五十年だかのアパートを訪ねた。そしてそれ以来、今日まで毎日のように入り浸っている。
千堂はおそらくおれよりも年上なのだが、
「さんとかくんとか絶対付けるなよ。敬語も禁止だから」
と言い渡されたので、おれは呼び捨てタメ口を貫いている。もしもそれを怠って千堂の機嫌を損ねたら、二度とこの部屋にたどり着けなくなって、彼にも二度と会えなくなる。そんな気が無性にしたのだ。
千堂は蔵書を家の外に持ち出されることを嫌がった。自然、おれは彼の部屋に長居することになる。万年床の上に座って本を読むおれを、千堂はそばに寝転がって眺めている。おかしな光景だと思ったが、案外すぐに慣れた。
箕輪孝四郎なんて全然有名じゃないうえにとっくの昔に死んだ探偵小説家の本を、千堂はすべて初版で揃えていた。おまけにワゴンセールの選び方でおれの嗜好を見抜いたくらいだから、きっとすごい読書家なのだろう。そう思っていたが、「全然そんなことないよ」と千堂は言う。
実際おれは、千堂が本を読んでいるところを見たことがない。ボロボロの畳が凹んで床が抜けそうな本棚を狭い部屋にふたつも置き、その間に万年床を敷いてギリギリ生活しているような男なのに、彼自身は「オレ夏目漱石も太宰治も読んだことねんだワ」と笑う。それが妙に箕輪孝四郎の書き方っぽい言い方なので、おれはちょっとクラクラした。お前は彼のどの本の中から出てきたんだよと言いたくなった。
千堂、よく見ると見た目の悪い男ではない。顔立ちは整っているし長髪も不潔な感じではない。痩せているが背は高くてスタイルも悪くない。だが猫背で、おまけにいつも緑色の死ぬほどださくてボロボロのジャージを着ているので、まったくその恩恵を受けられていない。
インターホンどころかチャイムもついていない玄関のドアをノックすると、今説明したとおりの風体の千堂が出てくる。そして「おう、
「千堂、今日も本読ましてよ」
「もちろんいいよ」
そうやっておれは千堂の部屋、魅惑のヴンダーカンマーに招き入れられる。
千堂の部屋には箕輪作品だけでなく、見たこともないような画集があったりして、何時間いても飽きなかった。何者なのか、何を生業にしているのかさっぱりわからなかったが、おれは千堂自身のこともだんだん好きになっていった。
気がつくとおれは、講義の間も、友達と話しているときも、バイトの間も、千堂と千堂の部屋のことを考えるようになっていた。こんなふうに言うのはおかしいと思うけれど、それは恋をしたときの感じとひどく似ていた。
で、ネジである。
それはおれたちのだらけて平和な日常の中に、突然入り込み始めた異物だった。
千堂が当たり前みたいにネジを飲み込むを見て、おれは焦ったし心配もした。が、日に日にネジを見かける頻度が増え、本数が増えると、そのこと自体が更におれをいらいらさせるようになった。
「千堂、このネジほんと何だ? おれが飲んじゃまずいやつか?」
冗談半分で千堂を真似て、つまんだネジを口に持っていくと、あーやめろやめろと言われて奪われてしまった。
「これはおれの頭のネジだよ、西町くんが飲んだって害だからやめな」
わけがわからないことを言いながらネジを無理に取り上げたことが気まずくなったのか、千堂は「オレ西町くんが死んじゃったら悲しいよ」と付け足してシュンとなった。
「なにそれ。大袈裟だなぁ、千堂」
そう言いながらも、おれはちょっと嬉しかった。おれから奪ったネジを、千堂はつるりと嚥下した。
ネジは日に日に増えた。日に焼けた畳、ぺったんこになった布団、あちこちに落ちている。そのうち、オレは千堂の部屋を訪れると、まず狭い部屋中を回ってネジを拾い集め、彼に渡すのが日課になった。
「かずみさん」
千堂は時々、おれの名前を間違えるようになった。
「かずみさん、待ってたよ」
おれが訪ねると、千堂はそう言いながら玄関の戸を開ける。ちょっとはにかんだような、明らかに普段おれに向けるのとは違う顔で。
「ちげーよ、西町だよ」
「ああそうだごめん。本読むんだろ、いいよ」
頭のネジが抜けてるからだよ。荒唐無稽と思いながらも、そんな自分自身の声が頭を過ぎった。
おれは落ちるネジを拾いきれていないようだった。千堂はだんだん頭の調整を失っていき、その表情は日に日に弛緩していった。
おれがいつものように万年床の上にあぐらをかいて本を読んでいると、「西町くん、オレはね」と千堂が言った。
「オレはね、ワゴンを見てるきみが、あんまりかずみさんに似ていたもんだから、つい声をかけたんだワ。かずみさんに似てるきみがオレの部屋に来てくれて、そこで昔みたいに本を読んでくれたらさ、どんなにいいだろうって思ったんだワな」
「かずみさんてだれ?」
「オレの好きな人」
そう言われたおれは、気がつくと千堂の部屋を飛び出していた。なんでそうしたくなったのかよくわからない。でもそうしなければと思った心は確かに、おれの胸の中で黒っぽく渦巻いていた。
それでもおれは、何事もなかったみたいに、翌日も翌々日も千堂のアパートを訪れた。千堂も何も言わず、いつも通りにおれを迎え入れた。
あの部屋を飛び出した後も、何をしていても、おれはずっと千堂のことを、そして彼の部屋で本を読むおれのことを考えていた。そのことに気づいてから、おれはますます千堂の元に通うのを止められなくなっていた。おれが「かずみさん」の身代わりでしかないとしても、そうせずにはいられなかった。
ある日の夕方、おれはいつものように千堂の部屋を訪ねた。
いくらドアを叩いて呼んでも返事がない。おかしいなと思いながらドアノブを開くと鍵は開きっぱなし、そして視線の先にある万年床の上では、顔の周りにネジを何本も撒き散らして千堂が倒れていた。
「おい! 千堂!」
揺さぶると千堂は「かずみさん」とおれを呼んだ。
「来てくれてうれしいよ、かずみさん、もう二度とあんたに会えないと思ってオレは、かずみさんに似たひとを何人も探してさ、箕輪孝四郎読むかって聞いてきたよ。どんなに変な顔されてもさ、その中にあんたが紛れてるんじゃないかって、思って、オレ、よかった、もう一度会えて」
そう言いながら、千堂はおれに抱きついてきた。そして呆然としているおれの顔を両手で挟んだ。千堂の白い歯が、おれの下唇を緩く噛んだ。
「かずみさん」
彼はおれの口の中に向かって囁いた。
途端に血液が沸騰した。どうしてそんなに激高したのか、うまく言えない。
「千堂!」
おれは千堂の長い髪を掴んで、万年床の上に引き倒した。
「何やってんだクソ野郎! 誰がかずみさんだよ!」
怒鳴りながら、おれは千堂の喉の中にネジを押し込んだ。
ひとつ、ふたつ、みっつ、おれの指が生暖かい喉の奥にネジをひとつずつ送り込んだ。千堂はえずき、長い腕を振り回して抵抗したが、ひどく弱っていて無力だった。おれは千堂に馬乗りになり、髪を掴んで万年床に押し付けながら、ネジを拾っては押し込んだ。
目頭が熱かった。大事な人形を壊してしまって、もう二度とくっつかない腕を必死で胴体に押し付けている子供のような気持ちだった。
やがて千堂の瞳が震えた。おれの顔に焦点が合い、唇が「にしまちくん」と動いた。血液の混じった涎が口の端から流れ出していた。
「そうだよ、西町だよ」
息を切らしながら、おれはそう答えた。怒りは穴を空けられた風船が萎むように萎えていった。
「千堂、おまえ頭のネジが抜けすぎだよ。なんでそんなことになってんだよ。なんだよそのネジ。おまえ一体何なんだよ」
今更すぎる質問を前に、千堂は落ち着いた声で「そうか」と言っただけだった。
「……なぁ西町くん。オレ、なんか失礼なことをさ、やったり言ったりしなかったか? ネジが抜けてる間にさ」
おれは万年床に広がった千堂の乱れた髪を見るともなしに見ながら答えた。
「別に、なにも」
下唇にはまだ千堂の噛んだ感触が残っていたが、おれは何も言わなかった。唇をこっそり舐めると血の味がした。
「いつも通りだよ、千堂。ねぇ千堂。なぁ。今日も本読ましてよ」
おれは息を切らし、やっとの思いでそう言った。千堂は子供みたいにニカッと笑って、掠れた声で答えた。
「もちろんだよ、西町くん」
たぶん明日も明後日もネジが落ちている。
螺子男 尾八原ジュージ @zi-yon
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