出会った頃

 緩やかに、不安が登る。体内に広がる感覚。反射的に、まぶたを開く。手を叩く音は、続く。天からも、地からも、聞こえてくる。まるで、楠本ナオを包み込むように。


 あちこちに、視線を走らせる。音の主の姿はない。密集した枝葉、もしくは、うねる根に隠れている。ナオは推測したものの、外れている気がした。音の主の数と、隠れる人数が違う。


 視界の端に映る。一人と一匹。どちらも、血相を変えている。不安が伝わってしまった。


 真っ先に、根を伝って来る女の子。今居る場所に、ナオを案内した。


 ナオの脳裏に浮かぶ。開門前の神社。本殿に至る階段の端に、スマートフォンを置く。鳥居の右の柱前に、自分が立つ。発した声を録音。届き方を確認した。


 スマートフォンの操作を終了させる。ポケットに仕舞い、歩き出そうとした。ナオは、ロッティーから警告される。危うく、蹴倒すところだった。音を立てず、足元にいた。気配もなかった。


 第一印象は、不思議な子。仰ぎ見る、黒目と合う。花が咲いたように笑う。淡いベージュの薄手コートの裾を掴み、引っ張った。


『良い場所があるよ』


『さっきの発声練習を聞いていたの?』


『うん。こっち、こっち!』


 幼い子と接した経験がないナオは、驚かされた。女の子の駆け足が早い。足場が悪い所は、ためらわずに両手を使う。必死に追いかけて、たどり着いた。


 ふと、ナオの頭に疑問がかすめる。不思議という印象を抱いた理由は、何だろう。


 バクンッ。再び、ナオの心臓が、音を立てる。彼女の声を、耳ではなく、脳で捉えた感覚を受けたと判ったからだ。


 彼女は、もののけ?


 不安が増す、ナオの視界。大きく跳ねる、黒い毛のウサギが映る。どう見ても、動くぬいぐるみ。自称、闇の塊。正しければ、もののけの親玉。


「こちら、各務泉(かがみいずみ)ちゃん。ナオちゃんに会いたいって、熱望していた子」


「初めまして、楠本ナオです」


 休日、待ち合わせをした、本田亜理紗(ほんだありさ)に引き合わされた。ナオは評する。亜理紗は、ウサギみたいにかわいい子。泉は、浮世離れした子だ。


「亜理紗ちゃんを助けてくれて、ありがとう。お礼がしたいの。うちに来て!」


 泉はナオの手を包むようにして、握る。一方的に引っ張った。


「へ? たいしたことしてな……」


 ナオは面食らう。亜理紗が持っていた、ペアのチケット。一緒に行く相手がいなくて、困っていた。予定がなかったため、一緒に行っただけ。


 きっかけで、亜理紗と友達になったが。泉がお礼をしたい理由が判らなかった。


「弟の湊(みなと)の部屋なんだけど」


 壁一面に飾られた、ハンドメイドの作品の群れ。フローリングの床も、材料や道具で、足の踏み場もなかった。


 泉が弟の部屋に、自分の友達を案内する理由に見当もつかなかった。ナオは指摘するのを控えた。湊があの世を覗いているような、まなざしをしていたからだ。


「どこで、寝ているの?」


「そこら辺」


 感心しながら、泉が問う。湊が適当に答える。ベッドの上にも、物が乗っていた。寝るまでに、片付けられる量。姉は深く追及しなかった。


 泉がスカートのポケットから、手鏡を出す。見る間に、一抱えほどの大きさに変わる。お盆のようにして、持つ。鏡に刻まれた、模様の真ん中。鴇色の丸い石がはまっていた。リスが現れる。形は、リスそのもの。毛が鴇色の。


 リスは放っておかなかった。泉に頼んで、湊を廊下に連れ出す。叱る声が聞こえた。


 聞かなかった振りをする、ナオも亜理紗も。


 もののけが隠れていても、おかしくない。思いながら、ナオは眺めていた。藤籠バッグの一つが揺れる。怖さより、好奇心がまさる。手に取って、開いた。


「ばあ!」


「わあ!」


 驚かす声と、びっくりした声が重なった。妙な音が響く。ナオの下顎に、黒い毛のウサギの頭が当たった。バッグを落とす。

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